特集 京都の彫刻・工芸品 -3- 「仏師・清水隆慶のつくった 木造深山正虎坐像-車僧のものがたり-」

はじめに

美術工芸品で「彫刻」とされる分野のなかで最も数が多いのは仏像になりますが、神像や肖像、仮面などがそれに次ぎます。肖像彫刻については、祖師、高僧、天皇、公卿、武将はじめ、その時代や地域に功績のある人物など多岐にわたり、崇敬や追慕、儀式用など目的もさまざまです。仏像に比べてきまりごとが少ない分、個性もよくあらわれます。
今回は、「頂相ちんぞう」といわれる禅僧の肖像彫刻のなかでも、今年新たに京都市指定文化財に加わった「木造深山正虎坐像もくぞうしんざんしょうこざぞう」[写真1・2]についてご紹介します。

木造深山正虎坐像

[写真1]木造深山正虎坐像 所蔵 市川車僧保存会 提供/京都国立博物館

同 面部

[写真2]同 面部 提供/京都国立博物館

1.「車僧」とよばれた深山正虎の足跡

深山正虎(生没年不詳)は、鎌倉時代の禅僧です。この名前に聞きなじみがなくとも、「車僧くるまぞう」のことだといえばわかる方もあるかもしれません。この「車僧」の肖像が、京都市右京区太秦海正寺町に所在する「車僧影堂」[写真3]と呼ばれる小さなお堂に江戸時代から安置され、地元の有志からなる保存会により維持・管理がはかれてきました。像は現在、京都国立博物館に寄託されていますが、毎年9月の第一日曜日には、地元で車僧盆会が行われています。
この地にはかつて「海生寺」という寺院がありました。『雍州府志』などの江戸時代の地誌類によれば、「海生寺」は深山正虎が開いたとも、住んでいたともいわれています。正虎が生きていたであろう時代まで遡ることのできる資料は現在のところ見つかっておらず、その足跡はほとんどわかっていませんが、『延宝伝灯録』(延宝6年/1678)によれば、東福寺開山・円爾の法をついだ直翁智侃じきおうちかん(寛元3年‐元亨2年/1245-1322)と問答を交わし、後に出家します。巷では生まれも名前も知られておらず、常に破車やぶれぐるま(壊れた車)を子どもたちに押し引きさせて道を往来することから、「車僧」とも、また七百年前の昔語りをよくすることから、七百歳とも呼ばれていたといいます。亡くなったときには荼毘に付されたものの、火が尽きた頃にはその骨や灰は全てなくなっていたという不思議な逸話も収められています。謡曲「車僧」[写真3]では、愛宕山の天狗・太郎坊との法力くらべを主題としており、古くから奇僧としてのイメージが強い人物であったようです。

車僧影堂

[写真3]車僧影堂 筆者撮影

2.木造深山正虎像

深山正虎の肖像は、絵画・彫刻のいずれにおいても、この像が知られるのみです。総高(頭頂から衣の裾まで)は61.7cm、等身よりやや小さめの、椅子に趺座ふざする、一般的な姿勢をとる頂相彫刻です。寄木造よせぎづくりで、玉眼が入れられています。前後に二材を寄せた体幹部に、別につくられた首から上の頭部が挿し込まれる構造です。お堂では帽子をかぶり、左手に数珠、右手に払子を握る姿で安置されていました。背中を少し丸め、眉を寄せて口をへの字に結んだ、困ったような表情が印象的です。たいへん写実的な作風であることから、没年からまもないであろう南北朝時代の制作がこれまで有力視されてきましたが、近年の調査で、像内に「清水右近隆慶」の銘記が確認されたことにより、江戸時代の仏師・清水隆慶しみずりゅうけいの制作であることが明らかになりました。

3.仏師・清水隆慶

清水隆慶は、江戸時代に京都を拠点に活躍した仏師で、制作年代や作風、位牌、過去帳写などの資料から、四代にわたる活動が推定されています。清水隆慶の作例は、多くは確認されていませんが、総じて像高30センチメートル前後の、表現にすこし硬さが感じられる、小さな像がほとんどです。そのなか深山正虎像は、等身に近い大きさの像を含めた多様な作例をのこす初代隆慶(万治2年-享保17年/1659-1732)に通じる作風がみてとれるうえ、現在のところ、銘記を「右近」とする作例はほかに、初代制作とされる「髑髏どくろ」(元禄2年/1689、個人蔵)の箱書きにしか確認されていないことをあわせると、正虎像は初代隆慶の制作であると考えらることができます。
清水隆慶の名は、奈良県生駒市の宝山寺を開いた湛海たんかいの造像活動に深く関わったことにより知られており、それら諸像の制作年代には、初代隆慶の活動時期をあてることができます。湛海が図様や彩色を「隆慶」に指図して制作された奈良・元興寺木造不動明王坐像(元禄9年/1696)をはじめ、初代隆慶の関与が推定される湛海作品は、近世を代表する仏像彫刻として評価されています。
また、清水隆慶の銘のある作品のなかで、初代とされる作例では、享保2年(1717)銘の、街ゆく人々をいきいきとあらわした像高6センチほどの小さな群像「百人一衆」[写真4]が知られています。ほか、竹翁坐像(宝永3-7年/1706-10、個人蔵)、初代隆慶半身自刻像(享保11年/1726、個人蔵)など、幅広い題材を、生気に満ちた姿に仕上げており、宝山寺諸仏などの制作で培った確かな技術を基礎とした、柔軟な制作活動をみることができます。

金剛流宗家「車僧」

[写真4]金剛流宗家「車僧」 大神神社(奈良県桜井市)
春の大神祭 後宴能 平成30年4月10日 提供/大神神社

4.清水隆慶の生きた時代

江戸時代のはじめ、諸寺院では戦乱からの復興や整備が進み、仏師たちはそれにともなう仏像や肖像等の修復や新造に従事しました。肖像彫刻においては、栃木・輪王寺の木造天海坐像(康音作、寛永17年/1640、重要文化財)や、京都・長講堂の木造後白河法皇御像(康知作、明暦4年/1658、重要文化財)など、写実味のある肖像彫刻が制作されるなか、禅宗寺院を中心に、祖師・開山等の頂相彫刻が、吉野右京らの仏師のもとで多数制作されています。
正虎像もそうしたなかで制作されたものなのでしょうか。像の仕上がりには一部に形式化が見られるものの、抑揚のある衣文表現や、皺の多く刻まれた顔、頭部に浮き出た血管、肉薄な頬や首元などには、実在の老僧を思わせる、巧みな表現を見ることができます。正虎像の制作時期が、前述「髑髏」制作の元禄2年頃とみた場合、同時期に制作された頂相彫刻を見渡してみても、正虎像の写実表現はたいへんすぐれており、初代隆慶の卓越した技量をうかがうことができます。

5.像内に納入されたもうひとつの頭部

驚くべきことに、像の内部、ちょうど腹部あたりに、正虎像とほとんど同じ大きさの木造の僧形頭部像が納入されています。取り出すことはできないものの、ここまでは過去の調査で知られていましたが、近年の京都国立博物館での調査で撮影されたエックス線CTスキャン画像により、像内に納入された頭部像は、正虎像と構造はよく似ているものの、顔立ちは正虎像にくらべ、たいへん若々しいことがわかりました。例えば近年、建仁寺西来院(京都市東山区)の蘭渓道隆らんけいどうりゅう像の内部に、蘭渓道隆とみられる古い頭部が納入されていることが発見されました。似た事例ではありますが、正虎像内の頭部像は古いものではなく、おそらく正虎像と同時につくられたものと思われます。では一体何のために作られ、納入されたのでしょう。正虎像と取り替え可能な首かと考えても取り出すことができず、挿し首の仕様も異なることから、そうとはうなずき難い。だとすれば、銘記に見られる願主「上月宗全」なる人物や、もしかすると制作者である隆慶本人を模した頭部像を納入したのかという大胆な発想も浮かぶものの、関連する資料は見つかっておらず、納入された理由は現在のところわかりません。

おわりに

海生寺の廃絶後も、長らく地元の人々により守り伝えられてきた深山正虎像は、鎌倉彫刻の写実性を踏襲した、近世における肖像彫刻のありようを示す、すぐれた作例として評価することができます。また、清水隆慶の幅広い制作活動、ひいては時代の求めに応じた近世仏師の制作活動を示す資料であるとともに、深山正虎に関する数少ない歴史的資料としても貴重であることから、平成30年3月30日付けで京都市の文化財に指定されました。
ただし、依然わからないことがいくつもあります。鎌倉時代の禅僧の肖像彫刻が、なぜ江戸時代につくられたのか。正虎の顔は、何を手本にしたのか。像内のもうひとつの頭部像は、一体何のために納入され、誰なのか――。変わり者だったに違いない、正虎と隆慶が今に残した謎です。

[おもな参考文献]
・杉山二郎
「江戸彫刻研究法 群小作家系譜を辿る一例 清水隆慶について」
『日本彫刻史研究法』東京美術、平成3年
・淺湫 毅
「新出の清水隆慶作品 -近世彫刻の諸相4-」
『学叢』第34号、京都国立博物館、平成24年

京都の文化遺産を守り継ぐために 「文化財の環境を守って -社寺林と地域風土の保全-」

神が降臨した神山をかたどった立砂と細殿

神が降臨した神山をかたどった立砂と細殿

賀茂別雷かもわけいかづち神社(通称、上賀茂神社と呼ばれる)の始まりは、身代にさかのぼる京都洛北の秀峰・神山に降臨した賀茂別雷神を祀り、天武天皇の御代の白鳳6(678)年には、現在の御社殿の基となる賀茂神宮が造営されました。その御代より十代のちの第50代桓武天皇によって平安京に都が遷されると、皇城鎮護の神として歴代天皇の行幸・奉幣祈願が行われ、皇族、貴族、武家はもとより庶民の信仰も篤く、現在も多くの人々の崇敬を集めています。
境内は、賀茂別雷大神が降臨した神山や近隣の山林を含む23万坪もの広さがあり、その全域が「古都・京都の文化財」の一つとして平成6(1994)年、ユネスコの世界文化遺産に登録されています。
また境内の社殿(建造物)のうち、本殿と権殿が文久3(1863)年の造替で国宝に指定されており、他の社殿は寛永5(1628)年に造替され、そのうち41棟の社殿が重要文化財の指定を受けています。

樹木に害虫駆除の薬剤を散布する

樹木に害虫駆除の薬剤を散布する
写真提供/公益財団法人京都古文化保存協会

私が理事長を務めております公益財団法人京都古文化保存協会では、文化財所有者・管理者が維持管理する庭園等の景観保持・環境整備保全のための害虫駆除や、建造物・美術工芸品の保全のための薬剤配布を行っています。庭園や山林は、春は桜、秋は紅葉で我々の目を楽しませ心を癒してくれる、日本人にはなくてはならない季節感と情緒を育む大切な存在です。そして自然には動植物も共存しており、当然、樹木を食害する虫もいるでしょう。それらの害をすべて防ぐことはできませんが、庭園や山林を壊滅状態にすることは避けなければなりません。そのために取り組んでいる事業が「景観保持・環境整備保全事業」ならびに「文化財の保全事業」です。仏像や宝物のみならず社殿等の建造物も文化財に入ります。
具体的には、次のようなことを実施しています。

二葉葵

二葉葵は境内でも育てている

・5~8月までを春期、8月下旬~越冬までを秋期として2期に分け、主に松を食害するマツケムシを薬剤散布にて駆除。
・11~3月頃、松喰虫による松枯れを防ぐために薬剤を樹幹注入する。
・建造物・美術工芸品の保全に効果がある、虫害防除の薬剤の配布。
当事業は、薬剤の変更や大型機械の導入などの充実を図りながら、昭和30(1955)年から継続している基幹事業の一つです。他にも文化財、庭園の被害などについてまとめた冊子「文化財保全管理の手引」を作成し、被害をくい止め文化財保全の一助になるよう当協会員へ配布しています。これら活動の一部は、京都市文化観光資源保護財団様からの補助金を活用して実施されています。

賀茂別雷神社に伝わる神話には、天に昇られた賀茂別雷大神を母である賀茂玉依比売命が恋い慕い悲しんでいたところに大神が夢枕に立ち、
『吾に逢わむとには、天羽衣天羽裳を造り、火を炬き鉾を擎げ之を待ち、
又走馬を錺り、奥山の賢木を取りて阿礼に立て、種種の綵色を悉し、
又葵楓の蔓を造り、厳しく錺りて之を待てば吾将に来む』
と仰せになり、その通り神迎えの祭を行ったところ神山の頂にある磐座へ御降臨になったのが、賀茂社の原点といいます。この神話にある葵とは神紋にも標される二葉葵のことで、葵祭の語源にも関係しています。

葵祭では斎王代や勅使も二葉葵を飾る

葵祭では斎王代や勅使も二葉葵を飾る

毎年5月15日に行われる葵祭は賀茂別雷神社と賀茂御祖神社の祭儀で、正式には賀茂祭と称されます。御所から天皇の勅使が賀茂御祖神社を経て賀茂別雷神社へ至る行列を路頭の儀、両社にて勅使が御祭文を奏上し御幣物を奉納する儀式を社頭の儀といい、平安時代さながらの雅さで「王朝絵巻のよう」と形容され、源氏物語にも「まつり」と書かれ当時は「まつり」といえば賀茂祭をさしていたようです。葵祭の呼称は江戸時代から始まり、勅使をはじめすべての従事者、社殿の御簾や牛車などにも二葉葵を飾ることに由来します。
この二葉葵は平安時代以前から日本に自生する植物で、当社の森のいたるところでその姿を見ることができたそうですが、昨今の環境汚染や外来植物により絶滅を危惧するまでになってしまいました。そこで葵の保護と育成を行い、賀茂別雷神社に「葵の森」さらには賀茂別雷神社から神山にかけての「古の森」の再生を目指す『葵プロジェクト』が立ち上げられました。小学校などの教育機関、企業や団体、個人の皆様に葵の苗を育てていただきその一部を再び賀茂別雷神社へ戻していただいた後、葵の森へと植栽し葵祭にて使用します。二葉葵は自然の力だけでは繁殖しにくく人の手が加わって根付く植物で、「自然と人との共生のシンボル」と言われています。「古の森」再生とは、賀茂別雷神社の神域・境内である神山までの森林に、希少和花や日本古来の昆虫などを呼び戻して森を復活させようとする取り組みです。
また「上賀茂 森と緑の保存会」を中心に活動する境内林育成事業では、一般の方々や法人に向けて会員を募り、放置状態にあった上賀茂神社の広大な境内の山林樹木を計画的に伐採、植樹などを行っています。特に京都市中から見て最初の“北山”となる、境内の一部である神宮寺山(約3ヘクタール)の整備を進めています。

大量の檜皮を使う屋根の修理

大量の檜皮を使う屋根の修理

檜皮は生きた立木から採取する

檜皮は生きた立木から採取する

桧木里親制度で山に植栽している様子

桧木里親制度で山に植栽している様子

そして賀茂別雷神社独自の取り組みとして、『桧木里親制度』を平成21年度より始めています。樹木の植樹は、地球温暖化対策や環境改善に役立つ具体的な解決策の一つとして貢献できることと考えています。さらに当社には平安時代以前から、21年ごとにすべての建物を建て替える式年遷宮の制度があります。近年は国宝に指定されている本殿、権殿をはじめ、多くの社などの建造物が重要文化財に指定されていることもあり、建て替えではなく大規模な修理によって遷宮を行っております。これらの境内60数棟に及ぶ国宝・重要文化財等建造物の檜皮葺屋根に使用する檜皮は、膨大な量になります。例えば檜皮葺屋根1平方メートルを葺くのに必要な檜皮材は約60キログラム、ヒノキ立木1本から採取出来る平均檜皮材は約6キログラムとして……一棟葺き替えるだけで何本のヒノキが必要になるでしょうか。そして檜皮は樹齢80年以上たってようやく採取できるという大変な年月を要する事業ではありますが、これは文化財保護の観点からも景観問題の観点からも、さらには地球規模の環境問題からも重要な取り組みと信じております。さまざまな事情もあり檜皮を入手することが難しい昨今において檜皮を確保することも目的として、将来的に皆様からご献木いただいたヒノキの皮で建造物屋根の葺き替えを行う活動に取り組んでいます。
いずれの活動も、100年、200年それ以上に長い時を見越しており、葵やヒノキなどの植物、生き物を含めた森、水も豊かな自然を育て、後の世に日本の文化と古来の景観が伝わることを願っています。

賀茂別雷神社境内環境

賀茂別雷神社境内環境 社殿と樹木が一体となった景観によって文化財の環境が守られ、地域の風土も保全される
撮影/株式会社スカイコンテンツ

特集 京都の彫刻・工芸品 -2- 「岩戸山の四本柱金具来立像 -千家十職 金物師 中川浄益の仕事-」

はじめに

祇園祭の季節がやってきました。山鉾を飾る装飾品は、祇園祭の最大の見どころであり、普通ならば美術館のガラス越しに鑑賞するような貴重で美しい品々が、祭の期間は市中に溢れています。
今回は、山鉾の装飾品のなかでも、懸装品の色彩と鮮やかなコントラストを成し、金色の輝きを放つ錺金具のひとつ、岩戸山の四本柱金具をとりあげます。

1.祇園祭・山鉾の錺金具

山鉾の装飾品は、梅雨の明けきらない不安的な気候や、巡行時の振動などを受け、傷みが生じるたびに修復と新調が繰り返され、今日まで大切に受け継がれてきました。錺金具においては、変形や折れなどの損傷が少なくなく、現状の記録や保存の必要から、近年本格的な調査が実施されました。平成13年から27年まで、じつに15年にわたる調査からは、各山鉾町が所有する錺金具の詳細がわかっただけでなく、関連する古文書を調査からは、その制作や購入・奉納などの記録が明らかになりました(※1)。
錺金具のほとんどは銅製で、鍍金(いわゆる金メッキ)がほどこされています。それらは、制作技法や文様の図様、箱書や古文書などの情報から、制作年代や作者などを知ることができます。今回とりあげる四本柱金具は、山鉾の屋根を支える四本柱を装飾する金具です。つまり屋根のある山鉾にしかない錺金具で、現在巡行する33基のうち、長刀鉾・函谷鉾・鶏鉾・菊水鉾・月鉾・放下鉾・岩戸山・北観音山の8基に見ることができます。うち最も古いのは鶏鉾のもので、文政11年(1818)の箱書が添います。菊水鉾・放下鉾・岩戸山の四本柱金具は、昭和期に制作されたことが知られています。

2.金物師 中川浄益家

[写真1]四条通を巡行する岩戸山

[写真1]四条通を巡行する岩戸山(平成23年) 京都市文化財保護課撮影

[写真2]四本柱に付く十代中川浄益の刻印

[写真2]四本柱に付く十代中川浄益の刻印 筆者撮影

岩戸山[写真1]の四本柱には、山の前方の2本に金具が付きます。うち西側(つまり正面から向かって右側)の金具に付く、縦3.5㎝、横1㎝ほどの小さな銀板[写真2]に「大日本中川十世浄益造」と刻まれていることから、茶道・三千家の好み道具を制作する千家十職のひとつ、中川浄益家の十代(明治13-昭和15/1880-1940)の制作になることがわかります。
中川浄益家は、金物師とも錺師ともいわれ、京都を拠点とし、茶の湯に向いた金属製品を手がけてきました。天明の大火により、それまで所有していた古文書等を焼失してしまいますが、七代浄益ののこした「中川家系図」から、歴代の足跡を知ることができます。それによると、初代は越後高田佐味郷えちごたかださみごうの出身で、天正時代のはじめに京都に移り住んだとされます。金属加工を生業とし、もとは甲冑などの武具類を制作していたようですが、千利休の指導により、薬缶を手がけたのが家業の始まりと伝わります。千家との交流は、表千家に残る史料からもうかがうことができ、代々がその技を継承するだけでなく、茶の湯に親しんできたことも知られます(※2)。
茶道具を制作する職人が、いったいどのようないきさつで、祇園祭の錺金具を制作したのでしょう。残念ながら、それを直接知ることのできる史料は今のところ確認することはできませんが、いくつかの資料から、その背景を少し考えてみることにしましょう。


3.岩戸山の四本柱金具

[写真3]四本柱金具

[写真3]四本柱金具

[写真4]四本柱金具(部分)

[写真4]四本柱金具(部分)
写真提供/公益財団法人祇園祭山鉾連合会(3・4とも)

岩戸山は、京都市下京区新町通仏光寺下ル岩戸山町を本拠とする、前祭に出る曳山です。天岩戸の神話に材を取り、天照大神・手力雄尊(戸隠大明神)を舞台上に、そして屋根の上には、岩戸山の姿を強く印象づける伊弉諾尊いざなぎのみことの三体の御神体をのせます。舞台上の朱塗の鳥居には「岩戸山」の扁額を掲げますが、これが『祇園会細記』(宝暦7年〈1757〉)に記された扁額に該当するだけの古様な技法と図様が見られる、岩戸山で最も古い金具です。また、天明の大火後、どの山よりも早く、大屋根を新設して巡行復帰しており、3基の曳山のなかでも最も古い木部構造を残していることが、近年の調査でわかっています(※3)。
ほかの山鉾と同様、岩戸山は天明・元治の大火と度重なる災難に遭いますが、そのたびに復興を遂げ、現在に至ります。そのなかで四本柱金具は、昭和期に制作された新しい金具ではありますが、今やそれを一目見れば岩戸山とわかるほどの、重厚で独創的な意匠がほどこされています[写真3・4]。
金具の寸法(㎝)は、東に付くもので長さ121.8、幅14.5、奥行14.3、厚さ2.2、西に付くもので長さ122.0、幅11.2、奥行11.5、厚さ1.8を測ります。金具は柱に固定されていて取り外しができず、制作の情報が残る裏面を見ることができないため、技法の詳細を知ることができませんが、おそらくは、銅板を金槌で叩いて文様を浮き立たせる鎚起の技法を用いて、葦に霞文様を立体的に表現し、鍍金をほどこしたものと思われます。ほかの山鉾の四本柱と比較すると縦の長さがあり、天水引から欄縁まで、四本柱の見えている部分がほとんど金で覆われた、重厚で絢爛な印象となります。また葦の意匠ですが、『古事記』には冒頭から登場する植物であることから選ばれ、さらに葦の成長力に重ねて、町の繁栄が願われたものなのでしょう。


4.十代中川浄益の仕事

岩戸山の四本柱金具の作者である十代中川浄益は、昭和15年(1940)に没しているので、作られたのは昭和のはじめ頃であることが推測されます。十代の長男である十一代浄益は、平成14年に表千家北山開館で開催された展覧会「千家十職 中川浄益の金工 −茶の湯工芸の伝統と創造−」に際して行われた対談のなかで、岩戸山金具のことを以下のように語っています。

—どういう関わりでそういうことになったのか私は判りませんが、京都の祇園祭の
山鉾あるでしょう。岩戸山というのがあるんですが、その四本柱のうち、二本を
作ってるんです。芦と水とをあしらってね。日支事変(昭和12年開戦の日中戦
争)のため資材に事欠き、後の二本は未完成のままやったと聞いてます―
(※2からの引用)

また、十代浄益の時代には、職人を工房で5人ほど、さらによそにも下請けの職人を抱えていたそうで、この時代、金属加工に関するさまざまな技術を持った職人が揃っていたことがうかがえます。それを物語るかのように、十代浄益の作品には、有線七宝の技法を用いた「直斎好じきさいごのみ 七宝火焔馬文水指しっぽうかえんうまもんみずさし」(武者小路千家官休庵蔵)や、三井高棟(北三井家十代)が作らせた「黄金富士釜おうごんふじかま 象嵌入南鐐鳳凰風炉ぞうがんいりなんりょうほうおうぶろ」(三井記念美術館蔵)など、さまざまな材質・技法を巧みに用いた、色彩豊かな茶道具が見られます。その流れは父である九代浄益の「青磁累座三足二見香炉せいじるいざさんそくふたみこうろ 二見ヶ浦夫婦岩南鐐火屋ふたみがうらめおといわなんりょうほや」(三井記念美術館蔵)などの造形性豊かな作品からも垣間見えますが(※4・5)、この柔軟な発想と技術は、八・九代の過ごした明治期における、茶の湯文化の衰退などの困難を乗り越えたからこそ得ることのできたものなのかもしれません。

5.九代浄益がのこした襖の引手金具

[写真5]「金像嵌入四季草花模様引手」(芒に鈴虫)

[写真5]「金像嵌入四季草花模様引手」(芒に鈴虫)

[写真6]「金像嵌入四季草花模様引手」(柳に千鳥)

[写真6]「金像嵌入四季草花模様引手」(柳に千鳥)

明治期における浄益家では、金属の置物や、袖香炉(袖の中で燻らせる携帯用の小さな香炉)など、茶道具以外の品々を手がけています。家業である茶道具制作が滞る一方で、海外向けの工芸品の需要が高まる時代であったのでしょう。そのなかで九代浄益は、たいへん洒落た引手金具なども手がけていたことを知る人は多くないかもしれません。
下京区にある個人宅の広間では、浄益作の揃いの引手金具が現在も使われています。引手金具は銅製のものを多くみかけますが、これらは鉄製の四方形で、金象嵌で四季折々の花鳥草虫が繊細にあらわされています。襖に10㎝四方のものが4点[写真5]、地袋の小襖に6㎝四方のものが2点、天袋の小襖に5㎝四方のものが4点[写真6]とりつけられ、それぞれに1点ずつ、「浄益」の刻印が押されています。当宅は明治35年(1902)の建築で、さらに「九世浄益」の印が押された、浄益から家主に宛てた寅年(おそらく明治36年)の書状がのこっていることから、これらは九代の制作であると考えられます。書状は、浄益が注文を受けていた金具類の納品に関するもので、「大方 鉄四方角 金象嵌入四季草花模様引手 四個」など、大・中・小それぞれの引手金具の意匠や個数が記されています。現在使われている引手金具に該当する可能性が高いもので、施主と作者のやりとりのわかるたいへん興味深い記録です。


おわりに

中川浄益家の茶道具制作以外の仕事について、あまり多くは知られていませんが、岩戸山四本柱金具や引手金具からは、中川家の多様な技術と交流を知ることができます。それは近代京都における工芸界の動向を知るうえでも貴重な資料といえます。
中川浄益家は、家業を営むなかで築いた縁、そして困難の多かった時代のなかから、こうした新たな制作の道を広げていったにちがいありません。豊かな発想と技術をもって作られた品々は、高い美意識をもつ京都の人々の目にかない、こうして現在も町のなかで息づいています。

参考文献
(※1)公益財団法人祇園祭山鉾連合会編・発行
『祇園祭山鉾錺金具調査報告書Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』平成28・29・30年
(※2)表千家北山会館編・発行
『千家十職 中川浄益家の金工 -茶の湯工芸の伝統と創造-』平成14年
(※3)公益財団法人祇園祭山鉾連合会編・発行
「放鷹 −祇園祭 鷹山 復興のための基本計画書」平成30年
(※4)世界文化社発行『千家十職 手業の小宇宙』平成24年
(※5)林屋晴三監修・青幻舎発行
『茶の湯の継承 千家十職の軌跡』平成28年

京都の文化遺産を守り継ぐために 「壬生寺と地蔵信仰」

壬生寺の創建と本尊・地蔵菩薩

壬生寺本尊

壬生寺本尊

律宗りつしゆう壬生寺みぶでら正暦しようりやく2年(991)、園城寺の僧侶・快賢かいけんが亡き母の供養のため、仏師・定朝じようちように命じて延命地蔵菩薩像を造らせ、これを本尊として坊舍を建立したのが始まりです。寛弘2年(1005)には、堂供養も行われ、この時小三井寺と名付けられました。その後、本尊の霊験はあまねく広まって、承暦年間(1077~81)には白河天皇の行幸もあり、地蔵院の寺名を賜ったと言われます。爾来、明治維新まで勅願寺でしたが、延命地蔵菩薩を本尊とするため、皇族のみならずひろく庶民からも信仰を集めていたのです。
本尊の霊験が大いに流布する契機となったのが、『太平記』にも収録された壬生地蔵の霊験譚です。南北朝時代、香匂高遠こうわのたかとおという南朝方の武士を、壬生寺の本尊が身代わりとなって縄を打たれることに依って、高遠の危機を救ったといいます。本尊は「縄目なわめ地蔵」と呼ばれ、語り継がれました。


現代へも続く地蔵菩薩の信仰

しかし、その本尊は、昭和37年、本堂と共に不慮の火災によって烏有に帰します。そこで昭和42年に律宗総本山・唐招提寺から重要文化財の地蔵菩薩像が、新たな本尊として遷座されました。幾度の災禍に遭っても、壬生寺の地蔵信仰は途絶える事無く、今日に至っています。特に毎年2月の壬生寺節分会は、壬生寺が京都の裏鬼門を守護する位置にあり、古来から続く伝統行事で、期間中は数万人の参詣者で大いに賑わいます。片や小さな行事では、毎年8月下旬の京都市内各町内で催される地蔵盆において、地蔵の無い町内に壬生寺の石地蔵を貸し出す「貸し出し地蔵」は、壬生寺独特の風習になりました。
また、壬生寺の近隣は幕末に新選組が駐屯した地であり、境内にある隊士の墓所には、訪れる若者があとを絶ちません。境内には地域福祉に貢献すべく、保育園や老人ホームも併設されています。時代により変遷を遂げた壬生寺ですが、その信仰の支えにあるものは、親しみを込めて「壬生さん」と呼ばれるような、庶民大衆から愛される地蔵菩薩を祀る寺であるからなのです。
昭和の火災で失われた旧本尊・縄目地蔵は、昨年平成29年7月、滋賀県山東町の仏師・中川大幹氏に依頼し、復刻に向けて鑿入のみいれ式が執り行われました。完成の暁には、縄目地蔵が再び新たな信仰を築くものと思っております。

中興の祖・圓覚上人と壬生狂言の起源

圓覚上人

圓覚上人

壬生寺は、鎌倉時代に伽藍の全てを焼失しますが、信者の平政平たいらのまさひらに依って再興されます。この再興にあたり、政平と共に尽力したのが、壬生寺中興の祖である圓覚上人です。圓覚上人は東大寺で出家し、唐招提寺の證玄長老の弟子となりました。上人の初めての事業が、この壬生寺再興でした。その後も京都では法金剛院、清凉寺、奈良では法隆寺・法起寺など各地の寺院を復興しました。その復興の傍ら融通念仏を人々に広めました。特に壬生寺においては、正安しようあん2年(1300)に「大念佛会」という融通念佛の法会ほうえをひらいたのです。壬生寺をその法会の場に選んだのは、ご自身が復興した寺である事と、庶民が集う地蔵信仰の場であったからでしょう。
当時、上人の教えを来聴する大衆が数万人にも及んだので、上人は人々から「十万上人」と呼ばれて崇敬されていました。拡声器とてない時代、上人は群衆を前にして、最もわかりやすい方法で、仏の教えを説こうとされたのです。そして、里の人に無言劇に仕組んだ所作をさせて、仏の教えを説く方便としました。これが現在、壬生寺で伝承されている伝統芸能の壬生狂言の始まりです。

壬生狂言の公開と伝承

壬生狂言「炮烙割」

壬生狂言「炮烙割」

壬生狂言は、正式には壬生大念佛狂言と言い、「カンデンデン」の愛称とともに京都の庶民大衆に親しまれてきました。宗教劇から起こった壬生狂言ですが、近世になると演劇的に発展を遂げ、現在演じる演目は30番あります。しかし、能狂言と異なり、全ての演者が仮面を付け、セリフを用いず無言で演じるその形は今も変わらず、その伝承形態が高く評価されて、国の重要無形民俗文化財に京都府下では第1号に指定されたのです。また、壬生寺境内にある狂言を演ずる舞台「大念佛堂」は、安政3年(1856)の再建ですが、その特異な構造から重要文化財に指定されています。さらに、狂言に使用する仮面・衣裳・小道具は数百点を数え、貴重なものが数多くあります。
壬生狂言の定例公開は、春・秋・節分の年3回、計12日間です。特に春の公開は、「壬生大念佛会みぶだいねんぶつえ」という壬生寺の法要であり、狂言は期間中、夜・早朝・昼の勤行のうち昼の勤行として、壬生大念佛講が本尊の地蔵菩薩に奉納するものです。この法要は正安2年の創始以来700年間も途絶えることなく続けられています。また、公開以外にも「すねきり会」「面棒まき」「開白式」「結願式」など狂言を行う上での宗教儀式があり、すべてに「講中」が参加するのです。その講中とは、壬生狂言の伝承団体「壬生大念佛講」に所属する人のことです。講中は壬生狂言を演じることが職業ではなく、各自の本職の傍ら、壬生狂言の伝承に努めておられます。

文化財保護とその現状

このように壬生寺は有形・無形の貴重な文化財を有しています。地蔵信仰から生まれた壬生寺の文化財は、寺の力だけではなく、多くの篤信の人々に依って守り伝えられて来ました。また、京都市文化観光資源保護財団様など、公的なご支援も頂けるようになりました。しかし、昨今の日本の情勢を鑑みると、宗教離れや少子化、文化財の保存維持のための伝統技術や産業の衰退など、文化財保護を取り巻く状況は厳しいと言わざるを得ません。古来より地蔵菩薩は、地獄など苦難の世界にも現れ、我々を救って来られた仏です。今こそ我らがご本尊の信仰を守り、さらに広めねばと決意を新たにしています。

特集 京都の彫刻・工芸品 -1- 「上徳寺の木造阿弥陀如来立像」

1.はじめに —京都市内の彫刻分野の文化財—

京都市内にはたくさんの文化財が存在します。美術工芸品の分野のひとつである彫刻(仏像・神像・肖像・仮面などがこれにあたります)についていえば、国宝が31件、重要文化財が297件、府の指定・登録文化財が15件、市の指定・登録文化財が61件あり(平成29年4月1日現在)、合計すれば実に404件にのぼります。このうち今回は、平成29年3月31日付けで京都市の新たな指定文化財となった、上徳寺の木造阿弥陀如来立像について取り上げます。

2.上徳寺と本尊縁起

[写真1]上徳寺木造阿弥陀如来立像が安置される塩竃山上徳寺えんそうざんじょうとくじは,京都市下京区本塩竃もとしおがま町に位置する浄土宗の寺院です[写真1]。五条通以南の富小路通りに面しますが,このあたり一帯の町名は、かつて「下寺町」とされ、豊臣秀吉による都市改造によって集められた寺院が立ち並びます。また、ここは嵯峨天皇の皇子・源融みなもとのとおるの邸宅である河原院の跡地でもあります。融は邸内に、陸奥の塩竈の風景を模してつくり,興じたという故事から,明治4年(1871)に現在の町名となりました。
寺伝によれば、上徳寺は慶長8年(1603)年、徳川家康によって建立された寺院で、側室の阿茶局を開基とし、伝誉一阿を開山とします。現在の本堂は、宝暦3年(1753)建立の禅林寺祖師堂が明治期に移築されたものです。
宝暦9年(1759)の奥書のある『塩竃山上徳寺本尊縁起』によれば、本尊である木造阿弥陀如来立像は、家康が鞭崎むちさき八幡宮(現在の滋賀県草津市矢橋)から招来したとされます。同縁起には、次のように記されます。
後鳥羽天皇の時代、木曾義仲が近江国に進軍し、それにより多くの人々が心を悩ませた。時の国主はこれを憂い、八幡宮に参籠して祈ったところ、八幡神があらわれ、西方極楽浄土の教主である我を彫刻するよう告げた。国主は歓び仏工安阿弥あんなみ(仏師快慶とされています)にこれを語った。安阿弥もまた深く喜び八幡宮に参籠したところ、光明の中に西方の三尊があらわれ、これを写して彫刻した。人々は歓喜し、再びこの地が治まった。それから380年を経た慶長8年、徳川家康が鞭崎八幡宮に参詣した際にこの縁起を聞き、中尊を乞い求めて上徳寺に寄付をした――。
現在、上徳寺境内の地蔵堂には、像高2メートルほどの石造の地蔵像が安置され、「世継よつぎ地蔵」として広く親しまれていますが、こうした縁起のある本尊もまた、有り難い本尊として守り伝えられてきました。

3.木造阿弥陀如来立像について

[写真2]京都国立博物館提供

[写真2]京都国立博物館提供

[写真3]京都国立博物館提供

[写真3]京都国立博物館提供

さて、本尊である木造阿弥陀如来立像[写真2]は、脇侍である木造観音菩薩立像・木造勢至菩薩立像とともに本堂に安置されます。本尊は鎌倉時代、13世紀前半の制作、両脇侍はともに、本尊にあわせて江戸時代につくられたものと推定されます。本尊の像高は97.3センチメートルで、いわゆる三尺阿弥陀とよばれる、鎌倉時代以降の標準的な大きさです。針葉樹材の寄木造で、保存状態もたいへん良く、全身が漆箔に覆われていることから、構造の詳細を知ることは難しいですが、近年、京都国立博物館によるエックス線CTスキャン調査が行われ、像内の腹部あたりに経巻状の納入品が籠められていることがわかりました。
この調査により、他にもいくつかの興味深いことがわかりました。ひとつが頭部の螺髪らほつです。一般的に螺髪は、彫り出したり、別造した螺髪の粒を貼り付けたりすることであらわしますが、この像においては、螺髪一つ一つが、金属製の釘で留められていることがわかりました。そして最も注目されるのが唇の表現です。朱がほどこされた上に、水晶が嵌められていることがわかりました。かすかに艶を帯びているのが、肉眼でも確認することができます[写真3]。
また、本像は裳裾もすそから足先がわずかに見える状態で、右足を少しだけ前に踏み出して蓮華座上に立ちますが、見えていない足首から膝下までもがつくり出されており、それを像底にあけた孔に深く差し込んでいる構造であることが、像を台座から下ろしてみることにより確認できました。
ここで改めて像のたたずまいを見てみると、来迎印を結ぶ左右の手の上げ下ろしが、通常の阿弥陀像とは逆さになっていること、また身につけている衣も、通常の阿弥陀如来像に見られる「偏袒右肩へんだんうけん」といわれる、衲衣が右脇を通って左肩にかかる着衣形式ではなく、右肩から左肩に渡して懸ける「通肩」とよばれるスタイルであることに気づきます。本像には、以上のような特殊な点が確認されました。


4.像に見られる特殊な技法

これらの技法や表現は、いったいどのようなことが意図されたものなのでしょうか。螺髪に金属製の釘を用いた固定方法はたいへん稀であり、補強といった目的が第一とは考えにくく、近い例として考えられるのが、螺髪を銅線であらわした例です。これは、木製の芯に銅線を螺旋状に巻き付けて形成し、一つずつ頭部に貼り付けたもので、茨城・万福寺木造阿弥陀如来立像(鎌倉時代・13世紀)、神奈川・本誓寺木造阿弥陀如来立像(鎌倉時代・13世紀)、滋賀・正善寺木造阿弥陀如来立像(鎌倉〜南北朝時代・14世紀)など、10例あまりが報告されています。また、最も特徴的である、唇に水晶を嵌める技法ですが、仏像の目を水晶であらわした「玉眼」の技法はよく知られており、上徳寺像にも用いられていますが、唇を水晶であらわした、いわゆる「玉唇」の像は、現在のところ、東京国立博物館木造菩薩立像(鎌倉時代・13世紀、重要文化財)、京都・仏性寺木造阿弥陀如来立像(鎌倉時代・13世紀)の2例が知られるのみです。
このように、口元を強く意識した技法の類例として「歯吹はふき阿弥陀」が挙げられます。これは、口をわずかに開いて、歯を見せる阿弥陀如来像のことで、構造的には玉眼と同様、内刳りをほどこした像内から、歯に似せた別材を口の裏にあてたものです。歯吹阿弥陀に関しては、これまでの研究で17例が報告されています。こうした銅線製の螺髪や歯をあらわす技法は、ある一定の阿弥陀如来立像に共通してあらわれる技法であり、加えてそれらには、足の裏にほぞを設けず、千輻輪相せんぷくりんそう(仏足文)をあらわすものが多いことがわかっています。

5.生身信仰

これらは、より現実的な姿であらわれた阿弥陀を意図したものであると考えられています。『大智度論だいちどろん』などの経典には「三十二相」という、ほとけの優れた身体的特徴が記されます。このうち、頂髻相ちょうけいそう白毫相びゃくごうそうなどは、如来像に一般的にみられる特徴です。一方で、四十歯相しじゅうしそう(歯が40本あり白く清潔である)、歯斉相しせいそう(歯の大きさが同じで美しく並ぶ)、白牙相びゃくげそう(上下4本の歯は白く牙のように尖る)・梵声相ほんじょうそう(声が清浄で美しく、人々を感嘆させる)などといった、通常では表しがたい、口元に関する特徴を具体的に表すとどうなるでしょう。歯吹阿弥陀は、ここに拠り所があるとされており、玉唇の阿弥陀像もまた、現実味のある姿を表現したものと考えられます。
鎌倉時代にはこの他、例えば貼毛をしたり、指先の爪を木とは異なる材であらわしたり、あるいは衣服を着せるなどの像が多くつくられるようになります。こうした流行には「生身しょうじん信仰」が通底するとされ、ほとけが衆生を救うためにあらわれた姿や、釈迦そのものの姿をより具体的にあらわした像が、信仰の対象となっていた背景があるのです。足首より上をつくりだし、像底に差し込むといった構造についても、釈迦の生き写しとされる京都・清凉寺釈迦如来立像(北宋時代・雍煕2年〈985〉、国宝)との共通性が指摘されており、同様の信仰が影響するものと考えられています。

6.宋代仏画との共通性

阿弥陀如来立像は、右手はひじを曲げ、左手は下におろした姿が一般的ですが、上徳寺像は、左右が逆になります。逆手の印相をあらわす早い例として、兵庫・浄土寺阿弥陀如来立像(鎌倉時代・建久6年〈1195〉、国宝)があげられます。重源の指導により、宋から請来した仏画に基づいて快慶が制作したことが知られており、逆手の印相をあらわす阿弥陀像は、これに連なるものとして位置づけられます。また、上徳寺像の整然と刻まれた衣のひだを見てみましょう。腹前から両足のあいだにかけての襞が、U字からV字状に変化していくさまは、京都・知恩院「絹本著色阿弥陀浄土図」(南宋時代・淳煕10年〈1183〉、重要文化財)に描かれた阿弥陀像などの仏画に近似します。つまり上徳寺像は、宋時代の美術の要素をうかがうこともできるのです。

7.さいごに

このようにして、本像は稀にみる「玉唇」の像で、生身信仰を背景とした像であることがわかりました。また、宋代美術の影響もうかがうことができ、このような複数の要素をそなえた阿弥陀像は他に例がなく、鎌倉時代に制作された彫刻を知るうえで、たいへん貴重な作例であるとして、京都市の文化財に指定されました。

※本像は、非公開です。

京都の文化遺産を守り継ぐために 「三つの宝もの-鞍馬寺随想-」

鞍馬寺本殿金堂

鞍馬寺本殿金堂

自然の宝庫といわれる鞍馬山。

自然の宝庫といわれる鞍馬山。四季に応じて発生する様々な自然の「キノコ」

本殿金堂の内陣を荘厳する羅網

本殿金堂の内陣を荘厳する羅網

毎年6月20日に行われる伝統行事「鞍馬山竹伐り会式」

毎年6月20日に行われる伝統行事「鞍馬山竹伐り会式」

「くらまさん」、古えから親しみと畏敬の念をこめて、京の人にこう称されてきたお山。
山裾を鞍馬川、貴船川の清流が縫う標高569メ-トルの鞍馬山の中腹に、南面して鞍馬寺の本殿が建つ。全山に満ちる宇宙の力、宇宙の理法を「尊天そんてん」として尊崇する「鞍馬弘教」の総本山である。鑑真和上がんじんわじょうの高弟、鑑禎がんちょう上人(思託律師したくりっし)が、夢告と鞍を負う白馬の佳瑞に導かれて草庵を結んでよりこのかた、あまたの人々に崇められ親しまれてきた。
お山には、三つの宝ものがある。一つは、「京都に最も近く最も深い、しかも社寺林として最後まで残る」と形容される自然である。自然度の高さも種類の多さも群をぬいている。
根道ねみち極相林きょくそうりんといった独特の景観があり、和名に「クラマ」を冠するもの(クラマゴケ、クラマトガリバなど)、日本での第一発見地が鞍馬であるといわれているもの(ニシキマイマイ、モリアオガエルなど)も数多い。
お山では、自然は天からいただいた宝もの、尊天の顕現-宇宙の理法がかたちになったものと捉え、生きたる大蔵経だいぞうきょう-さまざまなことを教えてくれる先生として尊んでいる。花も鳥も虫もキノコも、人間を含めたすべて、森羅万象しんらばんしょうは、一つずつが宝珠として時空を超えて縦横につながり、互いに響き合う「羅網らもう」の世界を象づくっている。
そのような自然は、人間が高みから保護するなどと言えるものではなく、その中に包まれ生かされていることに感謝すべき存在であるから、お山では全山を鞍馬山自然科学博物苑と名付け、豊かな自然を感謝の念と共に後世に引き継いでゆくことを第一義に、傷つけたり参道以外は手を入れたりしないよう努めてきた。
一、鞍馬山は尊天の浄域なり 常に清浄を保つべし
一、山川草木 自然の実相に羅網の世界を学ぶべし
一、すべてのいのち輝く世界のために尊天加護を念じ精進すべし
という「境内維持遺訓」に、お山の姿勢が尽くされている。
ところが昨秋の鞍馬の火祭、暴風雨が由岐八所両明神のお旅所ご遷座を阻んだ台風21号は、お山の自然にも無残な爪あとを残した。根返りした何本もの木が参道をふさぎ、また崩落させて、奥の院への立ち入りを停止せざるを得なくなった。一ヶ月余で何とか復旧したものの、樹間からは青空がのぞき、鬱蒼とした森の雰囲気とはほど遠い。日が射し込めば、極相林などの植相も変化するだろう。大自然の前に人間はあまりにも無力である。
江戸時代には植林の記録があり、山容整備に積極的に取り組んできたことが伺えるが、近年、水が溜まり雨後にどろんこになるので歩き易さを優先したら、根っ子が土に埋まってしまった木の根道の例もある。シカやイノシシの増加など課題も多いが、あれこれ手をうたず自然に任せる方がよいのかも知れない。
二つ目は文字通り、有形、無形の文化財、それを生み出した歴史や伝統であろうか。お山は火事が多く、史書に記録を遺す大火が6回、多くの寺宝を灰にしてきている。寺に伝世する国宝2件、重要文化財6件は、先人の大きな努力により守り継がれてきたものである。その一端を伺い知る史料が、大惣法師仲間おおぞうほうしなかまとして竹伐り会、鞍馬の火祭に奉仕される岸本道覺どうかく家に伝わっている。(平成27年、寺に奉納された。)文化11年(1814)の炎上の際、鞍馬の里人、15歳以上の男子が馳せ登り、尊像や寺宝を焼失から救った経緯をつぶさに知ることができる。20年近く前、落雷で山中の木が燃えた時も、地元の方がいち早く異変に気づいて駈けつけてくださり、事なきを得たのであった。
無形民俗文化財として京都市に登録されている鞍馬竹伐たけきは、大惣法師、僧達そうだち宿直しゅくじきという伝統を守る地元の方々が祭儀に出仕して大切な役割を担い、保存会には寺の役員と共に多く名を連ねておられる。
二つ目の宝ものは、鞍馬地区の皆さんとの連携で守り継いできたものなのである。
清新の気に満ちた年のはじめ、雪と氷に閉ざされても木々は芽を育み、やがて花をほころばせ葉を茂らせる。強い日射しを遮る木陰で憩ううち、いつしか錦をまとい葉を散らせて再び冬仕度をととのえる。春夏秋冬、規則正しい四季のめぐりの中で、雨の日も雪の日も、風の日も日照りの日も、お山に日参する人がおられる。お休み毎にご参拝の方、そして月参りが最も多い。みな一様にご宝前に額づき、静かに深く、熱く強く祈りを捧げておられる。お山が開創されてから、いやもっと古くお山が生まれてからずっとずっと、祈りの姿、祈りの心が共にあった。至心に祈る心こそが三つ目の宝ものである。
匠の技に祈りの心が加わって文化財や伝統が生まれ、生まれた尊像を拝して信仰心が涵養かんようされる。祈りの心が自然を活き活きと育み、自然のすがたにいのちや心を感じた時、祈りの心が甦る。お山の三つの宝ものは互いにつながり合い響き合っているが、三つが並立するのではない。祈りの心がすべてを下支えしていて、それを根っ子として自然が豊かに、歴史や伝統が花開き実を結ぶのではなかろうか。
諸行無常しょぎょうむじょう生住異滅しょうじゅういめつ、すべてのものはうつろいゆくとお釈迦さまはお説きになった。星ですら生まれて成長しやがて消えてゆく。実際、現代社会は多様化の一途を辿り、AIや情報技術の飛躍的な発達によって、急速に劇的に変化する様相を見せはじめている。
それでも変わらないもの、変わってほしくないものがある。伝統や文化財、自然を後世に伝えようと、多くの方々が日夜ご尽力になっている。お山もその仲間でありたいと日々努めると共に、素朴な祈りの心、信仰の象を守り継いでゆきたいと強く思う。
すべてのいのち輝く世界のために、お山は「心の故郷ふるさと」「いのちの故郷」「安らぎの故郷」であり続けてほしいと切に願っている。

写真/田中 一郎 撮影

京都の文化遺産を守り継ぐために 「近代京都の名建築 同志社のあゆみと近代建築」

同志社英学校創立から141年

同志社大学のルーツは1875年(明治8)に開校した同志社英学校にあります。以来、141年の歴史を有する学校となりました。現在、学校法人同志社には5棟の国指定重要文化財、5棟の国指定登録有形文化財、1棟の京都市指定有形文化財があります。これらの11棟の建物は明治期から昭和初期に建設された建築物で、客観的に歴史上、学術上の普遍的な価値を付された文化財です。一方で、同志社という特定の限られた枠組みの中においても、これらの建築物は同志社の歴史上で重要な役割を担い、その存在自体が現代、そして未来にその建築物特有の普遍的意義を有しています。ここ近年で国や地方自治体から指定を受ける建築物を有する学校が増えてきました。同志社をそうした学校の事例のひとつとして紹介します。

教学施設の充実のためのレンガ建築物

同志社の歴史における建築物の意義を考えるものさしとして、同志社創立期から昭和初期までの在学生増減の推移をグラフにまとめました。


1875年、同志社英学校が開校した時には8人の生徒で始まったといわれています(この年の在籍者数は12名)。その後、10年単位で在籍者数を見て行きますと、1885年(明治18)252名、1895年(明治28)595名、1905年(明治38)492名、1915年(大正4)1171名、1925年(大正14)3351名と変化しています。一時期、在籍者数の増加が停滞しますが、全体的には右肩上がりで学生数が増加したことがわかります。創立から新島襄が永眠する1890年(明治23)までの15年間でも増加傾向が顕著です。同志社英学校が今出川の地に移転してきたのは1876年(明治9)で、そのときの最初の校舎は木造2階建て校舎兼寄宿舎が2棟と食堂があるだけでしたが、とても激増する学生数に対応できる収容能力はありません。そのため、教学施設を充実させる必要性があったことは言うまでもありません。そうした状況下で、生徒数が創立当初の約20倍になった1884年(明治17)に建設された建物が、同志社で最も古い教室棟である彰栄館(国指定重要文化財)でした。

教育理念を可視化するシンボルとしての建築物

彰栄館(明治時代)

彰栄館(明治時代)

在籍者数の増加は学校の発展を示す一つのバロメーターでもあります。彰栄館が完成する頃は生徒数が急増しつつある時でした。同志社英学校は現在で言うところの中等教育機関に該当すると考えられますが、同志社の創立者である新島襄は更に高いレベルでの教育を実施することを考えていました。彰栄館が完成する2年前から、新島はまだ法的整備もなされていない社会状況の中で大学を創設するために募金運動を始めます。そして、同時に、同志社を教育機関としてふさわしい体裁や施設を備えた学校とするべく学内の整備を進めました。なかでも、現在の教育理念でもあるキリスト教主義を可視化する建築物の存在は、新島が見てきた海外のキリスト教主義大学のいずれにも存在する、学校教育を構成する重要な要素でした。そして、1886年(明治19)同志社においてもチャペル(国指定重要文化財)が完成しました。現存する最も古いプロテスタントの教会といわれています。この前年に行われた定礎式で新島はチャペルを「我同志社ノ基礎トナリ又タ精神トナル者ナレバナリ」(『新島襄全集』第1巻、同朋舎出版、1983年、105ページ)とたとえました。チャペルの存在そのものが、同志社の教育理念の体現であり、表明でした。

アカデミズムの表徴としての建築物

ハリス理化学校(1890年)

ハリス理化学校(1890年)

クラーク記念館(明治時代)

クラーク記念館(明治時代)

チャペル完成の1年後に、同志社では書籍館(初代図書館、国指定重要文化財)が建設されました。現在は有終館といいます。新島は大学設立に関する文章に、見聞した諸外国の大学図書館の蔵書数を事例として書き込んでいました。蔵書の数がその学校の学術レベルを保証するひとつの指針になる時代において、高等教育を備えた学校としてふさわしい体裁を整えるために、書籍館は不可欠のものでした。
同志社において大学が誕生するのは新島が永眠した後になりますが、新島は在世中に中等教育を越えて専門教育を実施する学校を創設しようとしました。その学校がハリス理化学校(国指定重要文化財)であり、その専用校舎がハリス理化学館です。同志社で最初の専門的な理化学教育の拠点であり、シンボルでした。また、新島の永眠からまもなくしてクラーク神学館(国指定重要文化財)が建設されました。その名にあるように、神学専門教育を象徴する建物です。現在はクラーク記念館と名称が変わっています。
創立者の新島が同志社に関わった時期はわずか15年でしたが、その間に重要文化財に指定されている建物5棟のうち4棟が建設され、各々が同志社の歴史において、その存在に重要な意義があります。そして、これらは歴史の浅い学校が、その品格と主義と理念を可視化する対外的なアピールとなり、アカデミズムを備えた最新の設備を具備したという実態を備えた学校であることを示すこととなりました。

同志社大学開校とレンガ建築物

啓明館竣工直後の本館2階大閲覧室

啓明館竣工直後の本館2階大閲覧室

創立者の永眠後、1890年以降の同志社の学生数をグラフで辿っていくと1910年代前半を境目として、学生数の伸びがそれまでとはことなることがわかります。その主要因のひとつが、同志社大学の開校です。1912年(明治45)、専門学校令によって認可された同志社大学が開校しました。さらに、その8年後の1920年(大正9)、大学令によって認可された同志社大学が開校しました。これらが示すことは、学園としての同志社の中に純粋に2つの学校が増加したことを意味します。また、この2つの学校が開校するまで、同志社には高等教育機関が存在しませんでした。こうした事実に伴い、発生する問題が教学施設の拡充と高等教育に適した教学施設の整備です。そのために、新たにレンガ建築物が建設されました。こうした課題に適応した建築物として、1916年(大正5)大教室を備えた致遠館、1920年2代目となる図書館本館(現・啓明館、国指定登録有形文化財)が完成します。これらの建物を設計したのが、数多くのレンガ建築物を手がけたことで知られるW.M.ヴォーリズ設計事務所でした。このほかにも、1932年(昭和7)には同志社アーモスト館(国指定登録有形文化財)も設計しています。致遠館や図書館は同志社の高等教育の始まりを象徴する建物ですが、同志社アーモスト館は、その名にあるアーモスト大学とは創立者新島襄の母校で有り、太平洋戦争に突入する前の日米交流を象徴する建築物で有り、同志社の国際交流の象徴する建築物です。

おわりに

同志社に残る国指定のレンガ建築物を事例として、学校の歴史に照らし合わせながら話を進めてきました。日本の各学校に残る古い建築物は、一般的には歴史的価値を有する建物として主に認識されますが、各学校の歴史と合わせてその価値を相対化することで新しい発見が出来ると思います。各学校の建築物は伝統や存在意義、アイデンティティーを表徴しています。同志社をひとつの事例として、今後学校の建築物との向き合い方をお考えいただけると嬉しく思います。

タイトル写真:神崎順一(写真家)撮影
文中写真提供:同志社大学同志社社史資料センター

特集 京都の初期障壁画 4 「醍醐寺理性院障壁画と狩野探幽」

この連載では、かつて私がまとめた論文を主体に、論文では扱えないエピソードなども交えながら、それぞれの障壁画の見どころをご紹介してきた。連載最後の今回は、京都にはまだまだ隠れた素晴らしい文化財が守り伝えられているという、京都の底力の一端に触れてみたい。
私が京都市文化財保護課に勤務していたのはたかだか20年弱に過ぎないが、その短い間においてもいくつかの発見に出会った。標記の障壁画をご紹介する前に、まず1体の忘れ得ない仏像について触れることをお許しいただきたい。
京都市では寺院所有の仏像だけでなく、地域の方々によってお守りされている仏像についても平安、鎌倉時代のものを中心に市の文化財に指定している。そうした事例は郊外や山間部に多いのであるが、市街地となった地域にも事例がある。私は当時、住宅地図に卍のマークが記されていれば、何かのついでに立ち寄るようにしていた。下鴨神社西方の旧街道沿いの小堂にも地図に卍のマークが記されており調査に向かうと、それは地域の方が地蔵盆にもお祀りされている像高数十センチの小さな坐像のお地蔵さまであった。ところがそれは一見するなり9世紀を下らない一木造の作例であったのである。
ぜひ市の指定文化財にと思いながらも、所有者である地域の方々をまとめ切れないままに私は現在の大学に転職した。数年後、その仏像は京都市の文化財に指定され、平成27年には国の重要文化財の指定を受けた。同年春、京都国立博物館を訪れた際、寄託されたその地蔵菩薩像が彫刻室に展示されているのを久しぶりに拝見する機会を得た。新町地蔵保存会所蔵の「木造地蔵菩薩坐像」である。私にとって、京都畏るべし、の一つである。

醍醐寺理性院りしょういん客殿障壁画

客殿上段之間

客殿上段之間

図1 床壁貼付

図1 床壁貼付

図2 床壁貼付(部分)

図2 床壁貼付(部分)

図3 壁貼付

図3 壁貼付

図4 壁貼付(部分)

図4 壁貼付(部分)

理性院は、三宝院の北に隣接する醍醐寺子院の一つで、真言宗醍醐派の別格本山である。もと醍醐五門跡の一つとして、小野六流中の理性院流の本寺でもあり、山内有数の子院の一つとして知られている。現在、主要な建築としては江戸時代に再建された本堂と客殿を残している。
客殿は東側に玄関車寄をもつ建物で、床、付書院を備えた8畳の上段之間と、10畳の間が2部屋、8畳の間が1部屋の計4室が田の字型に配列されている。建築年代は醍醐寺第80代座主義演ぎえん(1558~1626)の日記『義演准后日記』の元和3年(1617)10月5日条に「理性院客殿立柱、広橋大納言馳走也」とあり参考になる。
理性院は通常非公開であるため、その客殿に、面数はわずかではあるものの近世初期にさかのぼる障壁画が伝存していることはあまり知られていない。障壁画は上段之間の一部分である4面のみが残っている。すなわち、とこの間正面の壁貼付かべはりつけ1面と、床両脇の縦長の壁貼付2面、それから床の間左方(南側)に隣接する壁貼付1面である。いずれも水墨を主体とし、点在する人物などに淡彩が施されている。
床壁貼付(図1)は縦232.0センチ、横382.0センチに及ぶ大画面である。左方上部に遠山を配し、その下方に松樹や楼閣を岩上に描き、右方には2隻の小舟と樹叢が添えられる。楼閣の前には琴を弾く高士、そしてそれを高士3人と侍童1人が囲む様子(図3)が描かれる。
床の間左方に隣接する壁貼付(図3)は縦178.8センチ、横181.8センチの正方形に近い画面で、岩山が右下、中央、左上と配され、それぞれが近景、中景、遠景を成している。右方上部には床壁貼付からの続きと思われる楼閣が描かれ、近景では囲碁を楽しむ高士たち(図4)が描かれる。
現在失われた襖部分には書や画をたしなむ高士が山水景観のなかに配され、当初は恐らく上段之間全体で琴棋書画図を表していたものと思われる。
本障壁画の存在を私が知ったのは、京都市に就職して間もない昭和58年ころと記憶している。文化財保護課の資料のなかに、本障壁画のスナップ写真があったのである。京都市文化財保護課には私以前に美術工芸品の担当技師はいなかったので、その写真を誰が何のために撮影したのかは不明のままである。しかしながら、学生時代に桃山時代後期の狩野派を研究していた私には、本障壁画が桃山時代後期から江戸時代初期にかけての狩野派画家による新出作例であることは明白であった。京都市内の著名寺院において、普段は収蔵されている屏風や掛軸とは異なり、障壁画が、それも近世初期にさかのぼる障壁画が新たに確認されることはそうあることではない。構図や細部描写にややたどたどしさを残しながらも、格式高い醍醐寺子院客殿の上段之間に描かれる本図はいったい誰が描いたものなのか、謎めいた作品であった。
その後、現地調査や文献調査を行うなかで本障壁画の驚くべき筆者が判明していくのであった。

筆者は若き狩野探幽であった

先ほども引用した『義演准后日記』の元和6年10月25日条に次のようにある。「理性院為見舞罷向了。狩野采女座敷絵書之召出盃賜之」。義演が理性院へ見舞に行った際、狩野采女うねめが座敷絵を描いていたので、召出して盃をつかわしたというのである。当時、狩野采女と名乗っていたのは18歳の狩野探幽(1602~74)である。この記事により本障壁画制作に若き探幽が関わっていたことが確定する。『義演准后日記』のこの記事は、実は当時既に紹介されていたものであった。しかし何故か現存作例とは結び付かなったようである。
探幽は元和5年から6年にかけて、徳川和子入内にあたって造営された女院御所の障壁画制作のため江戸から上洛していた。狩野派内では、宗家の貞信、甚丞に次いでナンバー3の地位を占めていたであろうことも、この女院御所障壁画制作における部屋分担の資料から判明している。現在、この女院御所のうち御局おつぼね障壁画の一部が伝存(旧円満院宸殿障壁画・京都国立博物館所蔵)しており、その中の「唐美人図」は本図の筆法と酷似しており、やはり探幽の若書きと見なされている。
ところで、理性院客殿障壁画にはまだ謎が残っているのである。というのは、画面を仔細に観察すると、床壁貼付(図1)と、隣接する壁貼付(図3)とでは微妙に作風が異なるのである。構図、筆さばきともに総じて床壁貼付の方が手馴れており、壁貼付の方は若さが目立つのである。また本紙の縦の紙継ぎ幅も床壁貼付の方は34.5センチであるのに対し、壁貼付の方は37.0センチであり、1室内では通常一致する紙継ぎ幅に違いが認められる。さらには、元和3年立柱の建築に、元和6年まで約3年間障壁画が描かれないというのも不自然である。本障壁画を紹介した昭和62年の拙稿では、床壁貼付部分は元和3~4年の制作で、筆者は探幽の父狩野孝信、壁貼付は元和6年の制作で筆者は探幽と考えた。元和4年8月30日に没した孝信がやり残した仕事を、2年後に探幽が仕上げをした、と考えたのである。
本障壁画制作に探幽が関わったということについては既に定説となった感がある。しかし、本障壁画は壁貼付で取り外せないことから、その後の狩野探幽関連の展覧会にも一度も出品されたことがない。筆者問題が解決するのはまだ先のこととなりそうだ。
いずれにせよ本障壁画の意義は制作年の判明する探幽の若書き作品であるという点にある。元和6年の時点では探幽は父である孝信の様式を踏襲していることが判明し、のちの二条城障壁画に見られる探幽様式と呼ばれる新様式は未だ認められないのである。前回取り上げた狩野興以による元和2年の等持院方丈障壁画に、既に江戸時代的兆候が認められる点はやはり特筆に値しよう。

狩野探幽を取り巻く人たち

62歳の醍醐寺座主義演が弱冠18歳の探幽を召出し、わざわざ盃をとらせ日記にまで記載したことについて少し補足しておきたい。義演と探幽との間には直接的な血縁関係はない。しかし、実は系図上でのつながりが確認されるのである。義演の父は公家の二条晴良(二条家第14代目当主)であるが、その晴良の子には義演のほかに九条兼孝、二条昭実、鷹司信房がいる。この中の鷹司信房の継室は有名な武将佐々さっさ成政の娘輝子(岳星院)である。そして表向きの系譜には登場しないのであるが、狩野家の資料によると狩野孝信の室は佐々成政の娘養秀院であるとされる。つまり佐々成政の娘二人を介して鷹司信房は探幽にとって義理の伯父もしくは叔父ということになる。ひいては義演は探幽にとって義理のおじの兄に当たるのである。いささか遠い関係のようでもあるが、父の狩野孝信から見ると義演は内室の姉妹の義理の兄なのである。思うに、これは偶然に繋がったのではなく、狩野派の危機管理の一環であったように思われる。公家社会とのパイプを太くしておこうという、孝信の父永徳により仕掛けられた政略結婚である。事実、狩野孝信は禁裏絵所預という、それまで土佐派が独占していた地位を得、慶長度内裏の障壁画制作を狩野派を率いて行っているのである。さらにこの繋がりのその後を見ていくと、鷹司信房と輝子との娘孝子は徳川3代将軍家光の正室となるのである。
理性院客殿障壁画制作を行った18歳の狩野探幽は、既に江戸に下り徳川将軍家の御用絵師であった。恐らく本人も気付かぬところで様々な人たちの手助けを得ながら画家として成長していったに違いない。探幽の評価を確定させた二条城障壁画の制作まで理性院から6年である。(了)

文中写真 神崎順一 撮影
※おことわり 当寺は、一般拝観は出来ません。

京都の文化遺産を守り継ぐために 「松尾祭と桂川船渡御 -伝統行事の伝承-」

松尾大社の創祀と磐座祭祀

松尾大社は京都最古の神社の一つで、太古この地方一帯に住んでいた住民が、松尾山の神霊を祀って生活守護神としたのが起源といわれます。京都盆地が一面の沼沢地であった古代においては、当時の人々は周囲の山麓に居住していました。西山・嵐山もその麓一帯に生活をする人たちにとっては、山は自分たちの生命を育む親であったので、その主峰である松尾山の頂上に近い大杉谷の上部の巨石を磐座として神を祀り生活の守護神としたのが、松尾大社の創祀であったと思われます。
5世紀の頃朝鮮半島から渡来した秦氏がこの地に移住し、山城・丹波の国を開拓し、河川を治めて農産林業を興しました。同時に松尾の神を氏族の総氏神と仰ぎ格別の崇敬を捧げ、その信仰を心の支えとして国土開拓の業を進めるに至ったといわれます。その秦氏の長者・忌寸都理が文武天皇の大宝元年(701)に勅命を奉じて、山麓の現在地に社殿が造営されました。都を奈良から長岡京、平安京に遷されたのも秦氏の富と力によるものとされています。

平安京と松尾の猛霊

平安京では当初、盆地周辺の三方の山々の麓には賀茂社・松尾社・稲荷社が鎮座、遷都とともに多くの神社が新たに祀られました。特に当社に対する皇室のご崇敬は極めて厚く、東の賀茂両社と並んで皇城鎮護の社として「賀茂の厳神、松尾の猛霊」と並び称されました。

「神は松の尾」

朱の大鳥居と楼門

朱の大鳥居と楼門

本殿(重要文化財)

本殿(重要文化財)

『枕草子』第二八七段の最初には、「神は松の尾、八幡。この國の帝にておはしましけむこそめでたけれ」という一節がでてまいります。清少納言は独特の直観的な感性で、折々の事物などを端的に表現しています。当時の人々の信仰や清少納言個人の感覚のなかでは、松尾の神が大きな存在として感じられたことが窺われます。


松尾祭の歴史-うかうかとおいで、とっととおかえり-

松尾祭の神幸祭(出御)

松尾祭の神幸祭(出御)

(神幸祭)松尾祭は、平安時代初期の貞観年間、或いはそれよりも早く承和年間に始まるとも伝えられます。中でも松尾の国祭と称せられた神輿渡御の祭礼は、古くは三月中卯日に神幸、四月上酉日に祭礼が行われてきました。
「うかうかとおいで、とっととおかえり」というのは、卯(う)の日に出御(おいで)、酉(とり)の日に還御(おかえり)とされたことによります。古来、庶民の祭りとして永く親しまれてきたことが窺いしれます。
神幸祭では、前日に松室に鎮座される摂社・月読神社境内の御船社で、船渡御と道中での安全を祈願する御船社祭が行われます。
当日は、榊御面の面合わせの儀の後、松尾七社といわれる大宮社・四之社・衣手社・三宮社・宗像社・檪谷社の神輿と月読社の唐櫃が、御本殿の御分霊をうけ、拝殿を三周の後、月読社(御唐櫃)から順に本社を出発し、松尾・桂の里を通り桂離宮の東北の桂川右岸から桂川を船渡御され、河原斎場へ到着されます。


船渡御の風景

松尾祭「船渡御」

松尾祭「船渡御」

新緑の頃、川面を渉る神輿船に奉安される神輿の御屋根にかかる真紅の御衣が、緑の水面に鮮やかに映し出させる光景は、一幅の絵を見るがごとく壮麗なものです。
江戸時代後期刊行の『都名所図会』の中の「松尾祭礼」には桂川を船で渡御する様子や河原斎場に神輿が並ぶ風景が描かれています。ただし、ここには七基の神輿が描かれていますが、月読社の神輿が川を流されたとの言伝えもあり、江戸時代には同社の神輿はなく現在のような渡御となっており、実際の風景とは少し異なるのかもしれません。
船渡御の歴史は定かではありません。古記録によると、鎌倉時代の寛喜元年(1229)3月23日に神輿迎の乗船の際、桂の供御人と西七条の住民との間に諍いがあり神輿が河辺に放置され、未曾有のことであった、との記載がみられます。
このように、長い歴史と伝統を持つ船渡御の行事ですが、昭和38年に諸般の事情から中断し、その後氏子の人々の伝統行事を何とか伝承していこうという熱い思いが実り、20年後の同58年に復活し、現在に至っています。
続く河原斎場では、古例の団子神饌を奉献の後、同所を出発し七条通りを東進、衣手社の神輿は郡衣手神社に、三宮社の神輿は川勝寺三宮神社に、月読社の唐櫃と四之社・宗像社・櫟谷社・大宮社の神輿は西七条御旅所に到着、着御祭をお受けになり、そこに三週間駐輦されます。

松尾祭礼

松尾祭礼(「都名所図会」安永9(1780)年刊行)
国際日本文化研究センター提供

(還幸祭)還幸祭では、西七条御旅所・三宮社・衣手社の各御旅所から神輿と唐櫃とが、正午に唐橋・西寺跡にある旭日の社に集合し、古例による赤飯座の特殊神輿・西ノ庄の粽講の御供を受けられて祭典が行われます。その後、列を整えて朱雀御旅所におもむき祭典が行われます。ついで七条通を西進し、西京極川勝寺・郡・梅津の旧街道を経て、松尾橋を渡り本社に着き、拝殿廻しの後、著御祭が行われ、三週間に及んだ松尾祭は幕を閉じます。

松尾の葵祭

なお、還幸祭では、本社の本殿・楼門ほか各御旅所の本殿、神輿から供奉神職の冠・烏帽子にいたるまで葵と桂で飾るので、古くから「西の葵祭、松尾の葵祭」とよばれてきました。また当社同様、秦氏との関係の深い伏見稲荷にも同様の伝統が存在しているようです。
一年に一度、山から里へ、氏子によって迎えられた大神は、人々の丁重なもてなしをうけ、より霊威をたかめられます。こうした一連の行事は本社の神霊の威力を毎年更新していく祭祀儀礼であり、そのことが、氏子区域の人々を災害や疫病などの災いから守る強い呪力をもつものと考えられ、現代にも変わることなく継承されています。

文中写真提供/松尾大社
表紙写真/上村輝子 撮影

特集 京都の初期障壁画 3 「等持院方丈障壁画と狩野興以」

京都市北区に所在する等持院の由緒は、現在の同市中京区柳馬場御池付近に建立された等持寺にさかのぼる。等持寺は足利尊氏あるいはその弟の直義により14世紀前半に建立された寺院である。等持院はその別院として現在の地に康永2年(1343)、別院北等持寺として建立されたと伝える。延文3年(1358)の尊氏の死後、別院北等持寺が尊氏の墓所と定められ、尊氏の院号である等持院と改称され、さらに、等持寺が応仁文明の乱により焼失してのち、別院であった等持院が本寺となった。
今回はその等持院方丈の障壁画をご紹介したい。同障壁画は毎年10月に期間を限って公開されている。現存するだけでも襖絵48面、杉戸絵18面を数える規模の大きな障壁画群であるが、一般的にはほとんど知られていない。その理由はひとえに公開される機会がなかったことにあろう。国内に現存する襖絵の最も古い作例は15世紀末にさかのぼるが、そののち17世紀初めに至るまでの襖絵は残存数が少なく、そのほとんどが国宝や重要文化財に指定されている。しかし、17世紀初めの制作になるにもかかわらず等持院方丈障壁画は戦後、傷みが著しいことから建物から取り外され、研究者も含め人々の目に触れることがなかった。ゆえに詳細な調査が行われないままに長く未指定の状態に据え置かれてきたのである。
その後、等持院方丈障壁画は昭和59年に京都市指定有形文化財に指定された。それを機に昭和60年から4か年にわたって修理が行われ、修理完了後の平成に入ってから現在のように期間を限って公開されるようになったのである。

方丈障壁画について

二十四孝図

二十四孝図

方丈とは禅宗寺院の本堂のことを指し、客殿と呼称されることもある。前庭に対して南面し、玄関方向から下間二之間、室中、上間二之間が南側に並び、下間一之間、仏間、上間一之間が北側に並ぶ6室構成を採るのが一般的である。等持院方丈の場合は通常よりも少し規模が大きく、6室の東西それぞれに鞘の間と称する部屋が付随している。
本障壁画を初めて紹介したのは、近世絵画史研究の泰斗土居次義氏(1906~1991)である。土居氏は恩賜京都博物館(現京都国立博物館)館長や京都工芸繊維大学教授を務めるなか、実証的な研究方法で画家の基準作例を確定させるなど、近世京都画壇研究の基礎を確立した研究者である。なかでも長谷川等伯や狩野山楽・山雪の研究が特に知られている。その土居氏が昭和10年(1935)に「等持院の障壁画と狩野興以」という論文を発表されたのが本障壁画の存在が知られるようになった最初である。
土居氏はその論文のなかで、各室の障壁画を紹介するとともに、『等持院小史』の記載から、本方丈は元和2年(1616)に建立された妙心寺海福院の方丈を江戸時代後期に移築したものであること、また『都林泉名勝図会』(寛政11年・1799)の記載からその筆者が狩野興以(?~1636)であることを指摘されている。
ここで余談であるが、土居氏とお会いした際のことを記しておきたい。晩年の土居氏は学会にも出てこられず、私は氏の論文のみでその厳格な研究者像を想像していた。そんな私が初めて土居氏宅を訪ねたのは、本障壁画を京都市の文化財に指定するための調査を行っていた昭和58年の秋であった。戦前における障壁画の状況や、その際に撮影された写真数葉を拝見した後、私は土居氏に本障壁画の存在をどうしてお知りになったのか尋ねると、土居氏は「チャンバラ映画を見ていて知ったのです」とおっしゃったのである。厳格とばかり予想していた私はその意外なお返事に驚いたことを今も忘れることができない。また土居氏は昭和20年には京都市文化課長として、二条城の襖絵など市内の文化財を空襲に備え北山の寺院などへ疎開させる仕事も担当されているが、「あの時は辛かったなあ」と初対面の私にしんみりとおっしゃられたことも懐かしい思い出である。
さて、その土居氏が戦前に紹介された時と現在とでは、本障壁画の状態は大きく変わっている。襖絵の面数が激減しているのである。土居氏が調査をされた戦前には、仏間以外の各部屋は四周すべてに障壁画が描かれており、総数約100面もあったのであるが、私が調査を行った昭和58年には外回りの戸襖部分の障壁画はすべて失われ、本稿冒頭に記したように襖絵48面、杉戸絵18面となっていたのである。戸襖部分の断片24図が2曲屏風3隻に貼り残されていたのは、わずかながらも幸いであった。当時の同寺執事の方によると、戦中戦後にかけて方丈には疎開をしていた方々が生活をされていたとのことであった。襖の開閉などにより、温湿度の変化が著しくなり、外気の影響を最も受けやすい戸襖の障壁画がダメージを受けたのであろう。

牧牛図

牧牛図

牧牛図

牧牛図

現在は、下間二之間の北及び東面に「二十四孝図」(図1)が8面、室中の東西及び北面に「牧牛図」(図2)が16面、上間二之間の北及び西面に「山水図」(図3)が8面、下間一之間の南面に「夏秋草図」が4面、仏間の南面に「稚松図」が8面、上間一之間の南面に「唐子遊図」が4面、このほかに杉戸絵と前記の2曲屏風3隻が残されている。「二十四孝図」と「牧牛図」、「稚松図」は墨画、「山水図」は墨画淡彩、「夏秋草図」と「唐子遊図」は著色である。なお、戦前の状態を推測すれば、「山水図」は西湖図であった可能性が高く、また「二十四孝図」も24場面すべてが描かれていた可能性が高いが、現在は11場面に止まる。


狩野興以と本障壁画の意義

山水図

山水図

本障壁画の筆者である狩野興以は狩野永徳の嫡男光信の高弟として知られるが、その出自は定かではなく、武蔵や伊豆、足利など諸説がある。諸資料からうかがえる作画歴としては、師光信のもとで参加した慶長11年(1606)の高台寺方丈障壁画、光信没後にその嫡子貞信が率いた元和5年(1619)の東福門院(後水尾天皇中宮・二代将軍徳川秀忠の娘和子)女御御所障壁画、狩野探幽(1602~1674)らによる寛永3年(1626)の二条城障壁画、同6年の台徳院(徳川秀忠)霊廟などが確認される。桃山時代後期から江戸時代初期にかけての、狩野派にとって重要な障壁画制作の多くに参加していることから、光信の弟孝信が率いた慶長19年の内裏障壁画制作や同20年の名古屋城本丸御殿障壁画制作にも参加していたことが予想される。
こうしたことから彼は弟子筋ながらも狩野派内において枢要な地位を占めていたことがうかがえる。これを裏付けるものとして、元和9年の狩野貞信臨終の際に狩野宗家を探幽末弟の安信に譲るという相続誓約書に、彼は血縁者と並んで末尾ながら弟子としてはただ一人署名をしているのである。また、彼は晩年紀州徳川家の御用絵師となり、彼の3人の息子も長男の興甫が父の跡を継ぎ、次男の興也は水戸徳川家、三男の興之は尾張徳川家と御三家に仕えている。尾張徳川家の興之のみ一代限りであったようであるが、他の紀州、水戸では興以の家系が代々御用絵師を務めており、興以が狩野派内において他の弟子たちとは一線を画する存在であったことは確かなようである。
最後に、本障壁画の意義について触れておきたい。結論から先にいえば、本障壁画には桃山時代の様式と江戸時代初期の様式が併存しており、その江戸時代初期の様式が探幽によって後に二条城障壁画などで展開する新様式につながるという点にある。例えば本障壁画のうち「牧牛図」には柳や槙、松などの樹木が描かれているが、それらはいずれも樹木全体を画面内に納めるのではなく、樹木上端は画面外に消え描かれない。こうした描き方は桃山時代に通有の描写である。それに対して、「二十四孝図」では画面内に全体を納める樹木が顕著である。また、幹を逆S字状にくねらせた松樹(これは「山水図」においても認められる。)や、枝をΩ型に屈曲させた樹木が描かれるが、こうした特徴が狩野派内において一般的な描法となるのは江戸時代に入ってから、寛永3年の二条城二之丸御殿障壁画に認められる探幽様式完成以降のことである。
狩野興以は江戸時代の資料によると、孝信の子探幽、尚信、安信3兄弟の養育をしたと伝えられる。養育というと現代では相当幼い時期に対して用いる言葉であるが、興以の狩野派内での立場を考えると、ここでは画家としての基礎や方向性を指導したと捉えるほうが適当と考えられる。興以の作風が若き探幽に伝えられ、それが探幽によって見事に江戸時代の到来を告げる探幽様式の完成に結び付いたと考えれば、興以や彼の息子たちが弟子筋としては破格の待遇を受けたことも納得できるのである。
等持院方丈障壁画は、狩野派において桃山時代を代表する永徳様式と江戸時代の新様式となった探幽様式との間の過渡期的な時期に描かれた一見地味な作例に見えるかもしれない。しかし、その細部を検討していくと、当時の狩野派の世代交代のありさまや、徳川幕府による新体制に即した新しい絵画様式の樹立に向けた狩野派の状況が垣間見えてくるのである。

写真提供/京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課

京都の文化遺産を守り継ぐために 「京のみやび『蹴鞠』伝統文化の継承」

鞠の作成

下鴨神社

下鴨神社

私が蹴鞠保存会しゅうきくほぞんかいに入会した四十年ほど前、京都御所や神社などでの鞠会、あるいは普段の稽古で使っていた鞠は寛政年間の作でした。つまり二百年近くも前の鞠を蹴っていたのです。かつては「鞠師まりし」という鞠を作る専門の職業がありましたが、明治維新以降、廃業しました。鞠は消耗しますので、次第に蹴鞠保存会の鞠も少なくなり、骨董店で鞠が出たと聞けば、買いに走る状況でした。先行きを考えると自分たちで鞠を作るしかない、ということになり、約三十年前に鞠作りの勉強会が開かれました。当時、鞠作りの経験があった会員がいたことは幸いでした。文書なども参考にしながら、皮のなめしから始めて、何日もかけて鞠を作りましたが、従来の鞠とは雲泥の差がありました。しかし、この勉強会がきっかけの一つとなって、現在の山本隆史理事が鞠作成に取り組まれました。今では江戸時代のものと比べても遜色のない鞠を安定して供給して頂けるようになったのは本当に有り難いことです。

鞠装束

上賀茂神社

上賀茂神社

蹴鞠けまりの装束も正統なものを調えることは簡単ではありません。正式なものほど高額になります。上に着る「鞠水干まりすいかん」は紗や絽の絹織物で、金糸で文様が織り出されているものもあります。ところが経済的理由で化学繊維の装束の時期がありました。また、金の文様も織ではなく、摺箔すりはくの時代が長く続きました。最近になって、ようやく織で金の文様を入れることができましたが、最終段階で金紋紗きんもんしゃを織る織機が存在しないことが判明しました。値段に拘らなければ織機を探し出せたかも知れませんが、限られた予算のなかでは工夫して金紋紗に近づけるしかありませんでした。下に履く「鞠袴まりはかま」の生地は葛布くずふですが、戦後、葛布の需要は激減し、現在では静岡県掛川市でしか織られていません。葛布が入手できなかった時代には麻の袴でした。「鞠袴」用の葛布の生産が途絶えることがないよう、少量ではありますが、毎年、注文し続けています。足に履く「鴨沓かもくつ」は江戸時代のものから型をとり、各人の足にあわせての特注品ですが、昔とは革の質が異なります。室町時代以降「鴨沓」には漆を塗っていましたので、それによって少しは原形に近づけるかと思います。頭に被る「烏帽子えぼし」の再現も容易ではありません。「烏帽子」の表面にはしわ・しぼがありますが、これを「佐比さび」といいます。この「佐比」の大きさや形によって着装者の年齢や身分が決まります。「烏帽子」は「鞠水干」や「鞠袴」との整合性が求められますので、相応しいものを取り合わせなくてはなりません。しかし、この「佐比」の再現ができなくなっているのです。見本があっても同じようにはできてきません。作り直しをしてもらいましたが、無理でした。現在、「佐比」の再現は不可能になっていることを知りました。持ち物である「畳紙たとう」は、三十歳以下の人はくれない鳥子とりのこ紙を折って作ります。越前和紙の生産者は、この紙の存在は知っていましたが、作ったことはないとのことで、現在、再現に向けて交渉中です。

蹴鞠の作法

京都御所

京都御所

蹴鞠の作法も修正が必要なことがあります。蹴鞠の宗家は明治の頃までは蹴鞠にかかわっていましたが、その後、関与しなくなりました。しかし、各時代・各流派の伝書があり、色々なことが記載されています。これらの伝書が遺されていることによって、現在行われている蹴鞠の作法や鞠庭の状況、鞠の蹴り方などの起源を辿ることができます。勿論、秘伝・口伝があり、全てが文書に記述されているとは限りませんが、典拠が不明のものは後世に我流で決められた可能性があります。従って、現行の作法などで、文書に書かれていることとは異なる時には、その正統性を検証する必要があります。そのために平安時代以降の文献をもとに、現在の蹴鞠の点検を行っています。その一方で、蹴鞠は実践ですから、どのようにすべきかが理解できても、身体に覚え込ませることは簡単ではありません。稽古を通して習得すべき課題でもあります。


後継者育成

白峯神宮

白峯神宮

後継者の獲得と育成は重要課題です。月二回の稽古に会員の多くが仕事の調整をつけながら参加しています。また、年に十回以上ある蹴鞠の公演は平日の時もあり、出席者の確保は容易ではありません。一方、東京とその近郊に数名の会員が在住し、東京で体育館を借りて稽古をしています。この東京稽古場にも鞠と鞠袴を装備し、講師を月一回、派遣しています。しかし、京都で稽古する方が望ましいため、遠隔地会員には交通費の一部を補助しています。また、通常の稽古とは別に強化稽古や合宿も定期的に行い、蹴鞠の技術だけではなく、知識の継承も図っています。

蹴鞠の将来

蹴鞠が日本に伝来してから千四百年以上が経過した蹴鞠ですが、当初の蹴鞠がどのようなものであったかは定かではありません。一方、現在のように、鞠を上に蹴り上げて地面に落とさずに相手に渡す蹴鞠が文献上で確認できるようになってからでも千年以上が経過しています。ところが蹴鞠は平安時代のものがそのままの状態で現在に伝えられているのではなく、各時代の要素を取り入れて、変化しながら今に継承されているのです。今後も社会情勢などの変化に伴い、蹴鞠でも変化を受け入れなくてはならない事項が出てくるはずです。その時には、その理由を明確にし、その後、さらに修正が必要になった時でも本筋を見誤ることがないように努めなくてはなりません。また、変更事項を旧儀に復する時には、どの形に戻すかの考証が必要ですが、その時にも本質の見極めができなくてはならないと思います。蹴鞠の装束や作法には、それぞれの時代背景が包含されています。それらを正しく伝えることによって、御覧頂く方々の蹴鞠や時代に対する認識が損なわれることがないことを願っています。

文中写真/蹴鞠保存会 提供
表紙写真/神崎順一 撮影

特集 京都の初期障壁画 2 「建仁寺大中院の海北友松画」

海北友松(1533~1615)は近世初期を代表する画人の一人である。いかにも武家出身であることを感じさせる厳しい筆さばきの水墨画にその真骨頂を見せるが、桃山時代に生きた画家らしく、色鮮やかな金碧屏風の名品も宮内庁(旧桂宮家伝来)や妙心寺などに数点残している。彼の早期の水墨画の名品は東山区の建仁寺に多数伝わっている。代表作として重要文化財にも指定されている本坊方丈障壁画(慶長4年・1599)と禅居庵障壁画(慶長2年)をはじめ、霊洞院、大中院といった塔頭にも数多くの障壁画を描いているのである。
今回はそのなかで、大中院書院障壁画を取り上げたい。友松画の中では一見地味にも見える作品であるが、以前より友松画のなかでも最も制作年代のさかのぼる作例とみなされてきたものであり、友松研究のうえでも重要な位置を占める。しかし、この作品を取り上げる理由はそれだけではない。私が京都市で文化財保護の仕事に従事していた昭和61年にこの作品は京都市指定有形文化財に指定され、その後、平成元年に修理された際に、襖絵の制作年代に関係する新たな発見があったという、いささか個人的な思い出深い事情とも重なるゆえである。
襖絵について記す前に、まず海北友松の略歴について触れておきたい。友松は、近江湖北の戦国大名浅井長政の家臣海北善右衛門尉綱親の五男(一説に三男)として生まれ、幼年期に喝食として京都の東福寺に入寺している。浅井家が織田信長により滅ぼされたのち、武門海北家の再興を志したと伝える一方、狩野派に入門し狩野元信あるいは永徳のもとで画事に励み、永徳没(1590)後、独自の様式を確立していったと考えられている。しかしながら、若年期の活動については未だ判然とせず、早期のものと位置づけられる大中院書院障壁画を含む建仁寺山内の諸作例ですら彼の60歳代の作品なのである。まさに大器晩成の画家であったといえよう。
また、武門の家に生まれた友松らしいエピソードとして、茶の湯の友であった斎藤内蔵介利三(1538~82)との武勇潭が残る。明智光秀の家臣であったため、光秀の没後に捕らえられ処刑、晒首された斎藤利三の首を、友松が持ち去り懇ろに葬ったというのである。エピソードの真偽については確認のしようもないが、左京区の真正極楽寺(真如堂)の墓地には今も、友松と利三の墓が隣り合わせに存在する。また友松はその後も、近江堅田に隠れ住んでいた利三の妻子の面倒を見続けたと伝えられる。因みにこの利三の末娘が後に江戸城大奥で権勢をふるった春日局である。そして、その春日局の引き立てにより友松晩年の子友雪が将軍家光に謁見を許され、画家として一家を構えることができたという後日潭も心温まるエピソードである。

大中院書院障壁画

山水図(一之間 南側襖)

山水図(一之間 南側襖)

山水図(次之間 北側襖)

山水図(次之間 北側襖)

芦鷺図(次之間 南側襖)

芦鷺図(次之間 南側襖)

大中院は康永元年(1342)に創建された塔頭である。「大中院由緒書」(『宝物什器明細帳』明治28年 所収)によれば、現在の大中院の建物は、文化年間(1804~18)に華溪院から移されたものという。華溪院は、豊臣政権の五奉行の一人として天正11年(1583)から慶長5年(1600)まで京都代官を務めた前田玄以の奉行人であった松田政行(1554~1606)が創建した塔頭で、建仁寺塔頭霊洞院の東方に所在した。華溪院の創建年代は、友松筆の内部障壁画の制作年代とも関連して重要な問題であるが、『東山建仁禅寺幷諸塔頭略記』(寛政10年・1798)に「慶長初…開創…」とあることから慶長年間初めころ(16世紀最末期)と想定されている。
大中院書院は一之間、次之間の2室から構成されており、障壁画は両間境の襖4枚の表裏に「山水図」、そして次之間南側の襖4枚に「芦鷺図」が描かれている。「山水図」は表裏ともに、主峰を中心に楼閣や岩山、樹林などを配し、楼閣や樹木の一部に淡彩や著色が施されている。桃山時代の作品としてはやや古風に見える「山水図」8面は現在は4面ずつ表裏をなしているが、構図や細部の手法の共通性から判断すると、本来は1室を飾る一連の室内画であった可能性の高いものである。「芦鷺図」は1羽の鷺を中心に、簡潔な筆致で水辺の情景をとらえており、「山水図」とは別の室内画を形成していたものと考えられる。以上のような経緯から判断して、これら内部の障壁画は文化年間の移築時に現状のようにしつらえられたと考えられる。

下張りから発見された古文書

大中院文書

大中院文書

大中院書院障壁画は昭和60年当時、傷みの進んだ状態で、一部には本紙に欠落箇所が認められ、応急処置としてその部分にかなり古い郵便はがきが差し込まれているような箇所もあった。これは、以前には本障壁画は友松亜流の画家の手になるものといった説もあり、当時まだ根本的な修理を行う状況ではなかったという点が大きい。
同障壁画が京都市指定有形文化財になったのちの平成元年(1989)、所有者である大中院様のご理解もあり、ようやく根本的な修理を実施することとなった。襖絵が修理工房に運ばれたのちのある日、職場にいた私に修理業者の方から電話が掛かってきた。「山水図」が描かれた本紙をめくってみたところ、「文禄という年号の入った古文書が下張りに使われている」というのである。近世では襖の下張りに反故になった古文書を用いることは一般的であるが、桃山時代にまでさかのぼる古い古文書が下張りとして残っているはずはないと思い、江戸時代の元号で良く似た字面である元禄ではないかと私は聞き返したが、「いや文禄です。間違いありません」という。通常、絵画は200年くらいに1回は修理をしないと糊の粘着力がなくなり使用に耐えなくなることから、400年も昔の古文書が残されているはずはないと思ったのである。そして実は半信半疑でその工房に向かったのである。
修理中の解体された襖絵を拝見すると、下張りに使われていた古文書には確かに「文禄」や「天正」という文字がいくつも確認でき、そうした古い古文書は何層にも重なる下張りの中でも骨縛、蓑張、蓑縛といった木部に近い最深部に用いられていた。古文書の詳しい内容は専門外の私には理解できなかったが、当時の洛中の町名を記したものも数多く認められたことから、京都の歴史にとって何かしら役に立つものではなかろうかと思い、以前から仕事上でもお世話になっていた京都市歴史資料館の学芸員の方にその古文書の写真を見ていただいたのである。
結果、古文書に記されている年代は天正15年(1587)から文禄3年(1594)に及ぶ8年間に限られ、内容は、洛中各町の間口、奥行を記した「軒別各坪数書上」、町内住人の職業、出身地などを取り調べた「人別書上」、斬殺犯人の探索を請け負った各町内からの誓約書、豊臣秀吉による寺町・寺之内造成に関わる諸寺院造営の資材購入に関する文書など、豊臣政権期の洛中支配に関わって京都代官が受理した系統的な一群の公文書であるということが判明した。こうした古文書は一部の町内に控えとして残されているものはあるが、公文書の実物が現存する例はないという。
発見された古文書の内容や襖絵の伝来などを勘案すると、これらの古文書は前出の奉行人松田政行が華溪院を創建するにあたり、自らが勤める役所の不要となった公文書を襖の下張りとして用いたものが、江戸時代の修理においても取り換えられることなくそのまま用いられたということであろう。これらの古文書166点はその後、その重要性から平成4年に「大中院文書」として京都市指定有形文化財に古文書として指定されている。

襖絵の制作年代はいつ?

ところで、この古文書は当時の京都の庶政や庶民の生活を知る貴重な資料となっただけでなく、海北友松筆の襖絵の制作年代を知る手がかりともなったのである。つまり、襖絵の下張りに用いられていた古文書の年代が天正15年(1587)から文禄3年(1594)のものとすると、余程イレギュラーな事態を考えない限り、その襖絵の制作年代も文禄3年以降となる。当時の公文書が反故となる期間については定かではないが、庶政に関する内容のものを長期にわたって保存したとは考えにくいことから、古文書が発見された大中院の海北友松筆「山水図」の制作年代は早くて文禄3年ということがいえよう。これは先に記した『東山建仁禅寺幷諸塔頭略記』が華溪院の創建年代とする「慶長初…開創…」とも符合するのである。ちなみに慶長元年は1596年である。慶長2年制作の建仁寺禅居庵の友松画よりも古様を示す大中院書院障壁画の制作年代としては、文禄から慶長に移り変わる頃合がいかにもふさわしいように思われる。

今回は海北友松の作品をご紹介するとともに、思わぬかたちで貴重な資料が発見された経緯を記させていただいた。こうした新たな発見の余地がまだまだ京都には残されている。京都のこうした奥深さが魅力となり、それが私も含め多くの研究者を京都に集め、そして育ててくれているということがいえるように思うのである。