学ぶ

特集 京都の初期障壁画 2 「建仁寺大中院の海北友松画」

海北友松(1533~1615)は近世初期を代表する画人の一人である。いかにも武家出身であることを感じさせる厳しい筆さばきの水墨画にその真骨頂を見せるが、桃山時代に生きた画家らしく、色鮮やかな金碧屏風の名品も宮内庁(旧桂宮家伝来)や妙心寺などに数点残している。彼の早期の水墨画の名品は東山区の建仁寺に多数伝わっている。代表作として重要文化財にも指定されている本坊方丈障壁画(慶長4年・1599)と禅居庵障壁画(慶長2年)をはじめ、霊洞院、大中院といった塔頭にも数多くの障壁画を描いているのである。
今回はそのなかで、大中院書院障壁画を取り上げたい。友松画の中では一見地味にも見える作品であるが、以前より友松画のなかでも最も制作年代のさかのぼる作例とみなされてきたものであり、友松研究のうえでも重要な位置を占める。しかし、この作品を取り上げる理由はそれだけではない。私が京都市で文化財保護の仕事に従事していた昭和61年にこの作品は京都市指定有形文化財に指定され、その後、平成元年に修理された際に、襖絵の制作年代に関係する新たな発見があったという、いささか個人的な思い出深い事情とも重なるゆえである。
襖絵について記す前に、まず海北友松の略歴について触れておきたい。友松は、近江湖北の戦国大名浅井長政の家臣海北善右衛門尉綱親の五男(一説に三男)として生まれ、幼年期に喝食として京都の東福寺に入寺している。浅井家が織田信長により滅ぼされたのち、武門海北家の再興を志したと伝える一方、狩野派に入門し狩野元信あるいは永徳のもとで画事に励み、永徳没(1590)後、独自の様式を確立していったと考えられている。しかしながら、若年期の活動については未だ判然とせず、早期のものと位置づけられる大中院書院障壁画を含む建仁寺山内の諸作例ですら彼の60歳代の作品なのである。まさに大器晩成の画家であったといえよう。
また、武門の家に生まれた友松らしいエピソードとして、茶の湯の友であった斎藤内蔵介利三(1538~82)との武勇潭が残る。明智光秀の家臣であったため、光秀の没後に捕らえられ処刑、晒首された斎藤利三の首を、友松が持ち去り懇ろに葬ったというのである。エピソードの真偽については確認のしようもないが、左京区の真正極楽寺(真如堂)の墓地には今も、友松と利三の墓が隣り合わせに存在する。また友松はその後も、近江堅田に隠れ住んでいた利三の妻子の面倒を見続けたと伝えられる。因みにこの利三の末娘が後に江戸城大奥で権勢をふるった春日局である。そして、その春日局の引き立てにより友松晩年の子友雪が将軍家光に謁見を許され、画家として一家を構えることができたという後日潭も心温まるエピソードである。

大中院書院障壁画

山水図(一之間 南側襖)

山水図(一之間 南側襖)

山水図(次之間 北側襖)

山水図(次之間 北側襖)

芦鷺図(次之間 南側襖)

芦鷺図(次之間 南側襖)

大中院は康永元年(1342)に創建された塔頭である。「大中院由緒書」(『宝物什器明細帳』明治28年 所収)によれば、現在の大中院の建物は、文化年間(1804~18)に華溪院から移されたものという。華溪院は、豊臣政権の五奉行の一人として天正11年(1583)から慶長5年(1600)まで京都代官を務めた前田玄以の奉行人であった松田政行(1554~1606)が創建した塔頭で、建仁寺塔頭霊洞院の東方に所在した。華溪院の創建年代は、友松筆の内部障壁画の制作年代とも関連して重要な問題であるが、『東山建仁禅寺幷諸塔頭略記』(寛政10年・1798)に「慶長初…開創…」とあることから慶長年間初めころ(16世紀最末期)と想定されている。
大中院書院は一之間、次之間の2室から構成されており、障壁画は両間境の襖4枚の表裏に「山水図」、そして次之間南側の襖4枚に「芦鷺図」が描かれている。「山水図」は表裏ともに、主峰を中心に楼閣や岩山、樹林などを配し、楼閣や樹木の一部に淡彩や著色が施されている。桃山時代の作品としてはやや古風に見える「山水図」8面は現在は4面ずつ表裏をなしているが、構図や細部の手法の共通性から判断すると、本来は1室を飾る一連の室内画であった可能性の高いものである。「芦鷺図」は1羽の鷺を中心に、簡潔な筆致で水辺の情景をとらえており、「山水図」とは別の室内画を形成していたものと考えられる。以上のような経緯から判断して、これら内部の障壁画は文化年間の移築時に現状のようにしつらえられたと考えられる。

下張りから発見された古文書

大中院文書

大中院文書

大中院書院障壁画は昭和60年当時、傷みの進んだ状態で、一部には本紙に欠落箇所が認められ、応急処置としてその部分にかなり古い郵便はがきが差し込まれているような箇所もあった。これは、以前には本障壁画は友松亜流の画家の手になるものといった説もあり、当時まだ根本的な修理を行う状況ではなかったという点が大きい。
同障壁画が京都市指定有形文化財になったのちの平成元年(1989)、所有者である大中院様のご理解もあり、ようやく根本的な修理を実施することとなった。襖絵が修理工房に運ばれたのちのある日、職場にいた私に修理業者の方から電話が掛かってきた。「山水図」が描かれた本紙をめくってみたところ、「文禄という年号の入った古文書が下張りに使われている」というのである。近世では襖の下張りに反故になった古文書を用いることは一般的であるが、桃山時代にまでさかのぼる古い古文書が下張りとして残っているはずはないと思い、江戸時代の元号で良く似た字面である元禄ではないかと私は聞き返したが、「いや文禄です。間違いありません」という。通常、絵画は200年くらいに1回は修理をしないと糊の粘着力がなくなり使用に耐えなくなることから、400年も昔の古文書が残されているはずはないと思ったのである。そして実は半信半疑でその工房に向かったのである。
修理中の解体された襖絵を拝見すると、下張りに使われていた古文書には確かに「文禄」や「天正」という文字がいくつも確認でき、そうした古い古文書は何層にも重なる下張りの中でも骨縛、蓑張、蓑縛といった木部に近い最深部に用いられていた。古文書の詳しい内容は専門外の私には理解できなかったが、当時の洛中の町名を記したものも数多く認められたことから、京都の歴史にとって何かしら役に立つものではなかろうかと思い、以前から仕事上でもお世話になっていた京都市歴史資料館の学芸員の方にその古文書の写真を見ていただいたのである。
結果、古文書に記されている年代は天正15年(1587)から文禄3年(1594)に及ぶ8年間に限られ、内容は、洛中各町の間口、奥行を記した「軒別各坪数書上」、町内住人の職業、出身地などを取り調べた「人別書上」、斬殺犯人の探索を請け負った各町内からの誓約書、豊臣秀吉による寺町・寺之内造成に関わる諸寺院造営の資材購入に関する文書など、豊臣政権期の洛中支配に関わって京都代官が受理した系統的な一群の公文書であるということが判明した。こうした古文書は一部の町内に控えとして残されているものはあるが、公文書の実物が現存する例はないという。
発見された古文書の内容や襖絵の伝来などを勘案すると、これらの古文書は前出の奉行人松田政行が華溪院を創建するにあたり、自らが勤める役所の不要となった公文書を襖の下張りとして用いたものが、江戸時代の修理においても取り換えられることなくそのまま用いられたということであろう。これらの古文書166点はその後、その重要性から平成4年に「大中院文書」として京都市指定有形文化財に古文書として指定されている。

襖絵の制作年代はいつ?

ところで、この古文書は当時の京都の庶政や庶民の生活を知る貴重な資料となっただけでなく、海北友松筆の襖絵の制作年代を知る手がかりともなったのである。つまり、襖絵の下張りに用いられていた古文書の年代が天正15年(1587)から文禄3年(1594)のものとすると、余程イレギュラーな事態を考えない限り、その襖絵の制作年代も文禄3年以降となる。当時の公文書が反故となる期間については定かではないが、庶政に関する内容のものを長期にわたって保存したとは考えにくいことから、古文書が発見された大中院の海北友松筆「山水図」の制作年代は早くて文禄3年ということがいえよう。これは先に記した『東山建仁禅寺幷諸塔頭略記』が華溪院の創建年代とする「慶長初…開創…」とも符合するのである。ちなみに慶長元年は1596年である。慶長2年制作の建仁寺禅居庵の友松画よりも古様を示す大中院書院障壁画の制作年代としては、文禄から慶長に移り変わる頃合がいかにもふさわしいように思われる。

今回は海北友松の作品をご紹介するとともに、思わぬかたちで貴重な資料が発見された経緯を記させていただいた。こうした新たな発見の余地がまだまだ京都には残されている。京都のこうした奥深さが魅力となり、それが私も含め多くの研究者を京都に集め、そして育ててくれているということがいえるように思うのである。

成安造形大学教授
小嵜 善通
(会報116号より)