歴史的建造物の修理と新たな発見 「史跡本願寺境内 旧仏飯所 -建物の概要と屋根の推山技法-」

①旧仏飯所 外観(北西面) ②旧仏飯所 板間 ③旧仏飯所 台所

①旧仏飯所 外観(北西面) ②旧仏飯所 板間 ③旧仏飯所 台所

はじめに

浄土真宗本願寺派本願寺(西本願寺)には、御影堂及び阿弥陀堂を中心に対面所等多くの歴史的建造物があり、また境内の主要部分は史跡に指定されています。
本願寺境内の南東角には名勝滴翠園があり、園内に国宝の飛雲閣があることで有名です。その名勝滴翠園の西北部に位置しているのが、今回ご紹介する旧仏飯所ぶっぱんじょです。
旧仏飯所は、かつて御影堂及び阿弥陀堂へお供えする御仏飯を炊事していた建物でしたが、現在は炊事機能が西側の建物に移っています。本願寺境内の歴史と由緒を特徴づけるものといえます。この建物は平成19年2月から同20年11月末にかけて保存修理工事が行われ、その工事に伴う調査によって、他に例のない大変珍しい屋根の技法が明らかとなりました。

建物の概要

旧仏飯所の建築年代は、寺伝によると「貞享2年(1685)11月21日創建。宝暦年中(1751~)再修」とありますが、現在の建物はおそらく宝暦年間(江戸時代中期)のものと思われます。
建物は、桁行4間、梁間3間、屋根は寄棟造の本瓦葺で、花崗岩切石積みの基壇上に建っています。内部の西半は板間とし、南東に坥段、北面に押入を設け、南面西寄りに渡り廊下が接続しています。東半は台所土間とし、南東隅に井戸、東面中央に流し、西面の板間境には上り段を設け、かまど2基を備えています。
渡り廊下は2階建てで現在は途中で切断されていますが、かつては西側にある書院と接続されていました。

屋根の形状

図1 旧仏飯所 屋根断面図(照り起り)

図1 旧仏飯所 屋根断面図(照り起り)

旧仏飯所の屋根は、寄棟造の本瓦葺で、屋根の流れは上方で凸形に膨らみ、軒先では凹形に反っている、いわゆるむくり屋根(図1)となっています。この優美な形状も比較的珍しい技法ですが、さらにこの建物では隅棟に曲がりがあることが判明しました。
修理前の調査では、隅棟が横方向に曲がっているのを見て、建物の歪みによる破損と思われました。しかし、解体が進み小屋組の実測など各部の調査を行なった結果、当初から計画された曲がりであることが判明しました(図2)。

図2 旧仏飯所「推山」摸式図

図2 旧仏飯所「推山」摸式図

従来、寄棟造の野屋根は建物をより大きく見せる意図からでしょうか、大棟の長さを真隅より長くして隅を振らせる形式が一般的であります。また、隅の振れを軒先の隅部では真隅とし、やや登った辺りから折り曲げ振隅として直線で大棟まで引き通す「くの字振れ」に造った隅棟の例があります。しかし、この旧仏飯所のように隅棟が曲って造られた事例は聞いたことがありません。そのような事例があるのかと、いろいろ資料を探したところ、中国にその例があることがわかりました。
中国の古建築では、”隅棟の通りを棟際で曲線状に妻の方へ押し出す“という「推山すいざん」の技法があると紹介されています。

「推山」の技法

この「推山すいざん」の屋根造り技法については『建築大辞典』に、
中国建築の屋根の納め方で、寄棟造りの屋根で隅木を妻側に一定の率で振って納める仕方。中国では、隅木を日本の場合のように直線にはせずに、隅棟の途中までは真隅とし、次第に妻側に振らせながら棟木先端に到達させる。軒反りを強調するために採られた手法であろう。
とあります。また、竹島卓一著『中国の建築』では、紫禁城の太和殿の解説のなかで、
大棟の両端には日本でいうしゃちに似た飾りをのせる。これを正吻という。(中略)正吻の位置は寄棟造の屋根の正常の位置より一定の率で左右によせられる。したがって大棟が通常の長さより長くなるわけである。これを推山(妻の方におしだす意)という。(中略)日本の振れ隅(唐招提寺金堂の隅棟が有名)とちがって、軒の隅に向けて一直線には降らず、はじめ正面の方に強く傾いて降りはじめ、しだいに真隅になるように曲線を描かせる。間口の広い建築の場合、そういう手法をとる方が、屋根の形がよくなると考えたもののようである。
と説明されています。中国の建築は、特徴として隅軒・隅棟に強い反り上げがあり、その反りを強調するように、隅棟の大棟際にもそれに対応する強い反りを造る手段として、隅棟を妻の方に押し出すという巧妙な「推山」の技法が採られ、隅棟に見事な反りを造っています。
この旧仏飯所では、中国建築のような強い反り上げはないので反りを強調するという意味ではありません。屋根の南面に煙出しの小屋根があるので、それを納めるために棟を長くしたのかとも考えましたが、調査によって煙出しは当初にはなく、後世に付け加えられたものであることが判明しましたので「推山」の理由にはなりません。
では、なぜこのような技法を用いたのでしょうか。考えられるのは、大棟を長くして意匠を整え、照り起りとあわせてなめらかな曲線になるように工夫されたものと推測されます。

おわりに

旧仏飯所 本瓦葺屋根

旧仏飯所 本瓦葺屋根

この「照り起り」と「推山」の技法を複合させた形は、他に例がなく非常に珍しいものであります。当時の大工の技術と工夫により、用と美を兼ね備えた特徴的な屋根の形状となっています。
御影堂や阿弥陀堂などの巨大な建造物とは対照的に、規模は小さいですが優美な姿でひっそりと佇んでいます。


特集 京都の近代仏堂 その1「近世の継承と昇華」

はじめに

このたび,当財団の機関紙「会報」への執筆機会を,今後約1年間にわたり,4回与えていただくことになりました。この4回を通じては,『京の近代仏堂』と題し,概ね明治から昭和戦前期までの京都の近代寺院建築に焦点を当て,その特質を取り上げてみようと思います。
周知のように京都市中の社寺は,元治元年(1864),蛤御門の変に端を発する火災により,大部分が被災しました。諸寺院がここから回復を果たし,堂舎の再建を果たすのは明治10年ごろを待たなくてはいけませんが,この時期以降に再興された寺院建築では近世までにはなかった特異な現象がいくつかみられます。なかには西洋建築技術を導入したり,19世紀後期以降に成立しつつあった建築史学の応用がはかられたものなど,いくつかの近代ならではの特質がみられます。
今回はこれらのうち,当時最も一般的な造営ケースであったもの,つまり「近世の建築形式や意匠を継承するもの」に焦点を当ててみようと思います。
この種の代表遺構としては,頂法寺六角堂,東本願寺御影堂・阿弥陀堂,清涼寺弁天堂,南禅寺法堂,知恩院阿弥陀堂等があります。これらの建物は様式的にも近世末期の建築として,京都の古建築リストからは漏れてしまうことが多いのですが,近世以前の蓄積に立って,極めて高い技術的水準を誇る建築が少なくありません。
本稿ではこれらのうち,東本願寺御影堂,仏光寺本堂(阿弥陀堂),法輪寺多宝塔の3件を取り上げ,具体的にその特質についてみていきたいと思います。

東本願寺御影堂ひがしほんがんじごえいどう 京都市下京区烏丸通七条上ル常葉町

図1 御影堂正面全景(写真提供:東本願寺)

図1 御影堂正面全景(写真提供:東本願寺)

慶長7年(1602),徳川家康が教如上人に六条烏丸の土地を寄進し,御堂が建立されたのが真宗大谷派本願寺(東本願寺)の起こりです。江戸時代を通じて境内の同舎は火災と造営を繰り返し,元治元年(1864)の蛤御門の変ではほぼ全伽藍が焼亡します。その後再建がはかられ,現在の御影堂,阿弥陀堂はいずれも明治28年(1895)に竣工しています。
御影堂は,宗祖親鸞聖人の御真影を安置する建物で,真宗大谷派の崇敬の中心であります。正面13間,側面8間,屋根は重層の入母屋造いりもやづくりとしています。正面幅が約63mもあるこの建物は,世界最大級の木造建築物であり,それゆえ技術的にも困難なところがあるにもかかわらず,入念な仕上げ,周到な設計により,それをみごとに克服しています(図1)。
御影堂の建築技法として,特筆すべきことは数限りなくありますが,近代ならではの技法として,この建物が内包する大空間を実現する構造技法の一端を紹介しようと思います。御影堂の内部は前後3列,左右5列に区画されます。特に左右方向中央の柱間は48尺(約14.5m)もあり,御影堂における最大スパン箇所となっています。構造的に安定させるためにも天井の上部でこの中央間に5本の大梁を架ける必要がありますが,いずれの材も長さが十分でなく,一部の梁には耐力的な欠陥がみられるものが用いられています。注目されるのは,この5本の大梁のうち4本に斜材を配したトラス構造に似せた架構形態がみられ,それぞれ異なった斜材配置構成とされていることです。いずれも現在のトラス構造と比べると,節点の閉じていない不完全な形態ではありますが,当時としては補強の意味合いを持たせた実験的な試みであったものと予想されます。

図2 参詣席上の大梁(写真提供:東本願寺)

図2 参詣席上の大梁(写真提供:東本願寺) 天井下の大虹梁を網棒で釣り上げ,上部にはトラス状架構を組んでいる

なかでも参詣席上の大梁は直径が1.5mほどの大断面をもちますが,天井下の大虹梁だいこうりょを鋼棒で吊り上げる必要もあり,やはりトラス構造に似せた架構を組んでいます(図2)。当時として珍しいこの工法の採用は,工事直前に上海に留学して当時の新建築技術を実見した棟梁伊藤平左衛門(第九代)の工夫とみられます。
御影堂では近代ならではの建築技法がほかにもいくつか確認できます。当時の工匠たちが日本の伝統建築技術の練磨とともに,洋風建築をふくめた当時最新の建築技術にも敏感であり,臨機応変にその応用をはかっていたことがわかります。

仏光寺本堂ぶっこうじほんどう阿弥陀堂あみだどう) 京都市下京区高倉通仏光寺下ル新開町

図3 本堂正面全景

図3 本堂正面全景

仏光寺は浄土真宗仏光寺派の本山です。建暦2年(1212),親鸞聖人が山科の地に草庵を結んだのがその草創と伝えられ,寺基は山科の地から今比叡汁谷(現在の東山区),その後,豊臣秀吉の懇請により天正14年(1586)に現在地(下京区新開町)に移転しています。
現在地に移転してからは,慶長元年(1596)の山城大地震,天明8年(1788)の大火,元治元年(1864)の兵火などによって幾度も堂宇の被災・焼失に遭いますが,その都度再建がはかられており,現在伽藍の中心を占める大師堂(御影堂)は明治17年(1884),そして本堂(阿弥陀堂)は同37年にそれぞれ再建遷仏式を行っています。

図4 本堂軒裏

図4 本堂軒裏 三段の垂木で構成されている軒

本稿ではこのうち本堂に焦点を当ててみようと思います。本堂は正面7間,側面7間,屋根は一重入母屋造とし,向拝(こうはい)三間,本瓦葺としています(図3)。平面は真宗仏堂としてはほぼ通規のものですが,上質な材料や高い彫刻技法など総じて緻密で手のこんだ建築であるといえます。
本堂の建築技法として注目されるのが,軒のつくりです。一般に日本建築では垂木(たるき)が1段または上下2段に並びます。これらをそれぞれ一軒ひとのき二軒ふたのきと呼んで区別しますが,仏光寺本堂では垂木が3段に並んでおり,三軒みのきとなっています(図4)。これは事例として極めて少ないものです。当然ながら垂木の段数が増すと,軒は深くなり構造的に不安定になります。

図5 本堂小屋組

図5 本堂小屋組 扇状に敷き並べた桔木材を基盤に小屋組が構成される

一般に社寺建築等では軒先を支えるために,軒裏から小屋組内(天井と屋根との間の空間)に桔木はねぎという材を取り付け,梃子てこの原理を利用して,長く突き出ている軒先を支えるようにしていますが,当本堂では建物の中心付近まで達する長大な桔木材を扇状に敷き並べ,この上に屋根を支える小屋組を載せています。つまり桔木自身が上部小屋構造の基盤となることで,軒荷重と釣合いをとるよう組み立てられているわけです(図5)。この種の構造は社寺建築では塔建築によくみられるものですが,当本堂のような大規模仏堂建築で採用されるのは稀であるといえます。
本堂の棟梁は「市田重郎兵衛」という大工であることが判明しています。彼のいくつかの遺作からみる技術者としての傾向は,江戸時代以来の伝統建築技法に則りつつそれに改良を加え,仏堂建築技術のさらなる高みの実現に寄与した工匠であるとみられます。
仏光寺本堂は市田の思想,そして近代ならではの仏堂建築技法の進化がよくみてとれる好例といえます。


法輪寺多宝塔ほうりんじたほうとう 京都市西京区嵐山虚空蔵山町

図6 多宝塔全景

図6 多宝塔全景

法輪寺は嵐山の渡月橋を見おろす虚空蔵山こくぞうやまに位置する真言宗御室派の古刹です。応仁の乱による衰退後,江戸時代初期に入り堂舎が再建されますが,元治元年(1864)に蛤御門の変に係る戦闘により堂宇の大半が廃燼に帰することになります。
伽藍の再興は明治17年の本堂再建以降順次進められ,多宝塔はこの再建事業の最後を飾るもので,昭和11年に竣工しています。閑院宮の発議により,公爵一条実孝らを再建願主とし,京都出身の堂宮大工佐々木岩次郎の設計,京大工三上吉兵衛の施工によるものです。
多宝塔のつくりですが,下層は方三間,柱間装置は四面とも中央間に扉を構え,両脇間を連子窓(れんじまど)とします。内部には四天柱してんばしらを立て,南を正面とし仏壇を設けます。上層は12本の柱で円形の軸部をつくります。軒は下層を平行垂木,上層を禅宗様ぜんしゅうようの扇垂木としています。屋根は銅板葺です(図6)。
江戸時代を通じて社寺建築では建物を合理的に,また巧みに組み上げるという目的,そして建築デザインの指標として,一種の設計基準が生まれます。しかしこの多宝塔は,必ずしもそれに囚われない方針をとることにより,さらに安定した構造,外観の比例,軒廻りの軽快な収まりを実現させていることがわかります。いくつかの注目技法のうち,2点について紹介しようと思います。
まず構造的なことでは,多宝塔の一般的な組上げ構造は,下層の地垂木じだるき地隅木じすみぎの尻に盤を置いて上層の柱を立てるというように,下層の上に上層を積上げる方式ですが,この塔では下層の組物くみもの(柱上にある軒の重荷をささえる部分)の上に柱盤を架渡して上層柱を建てる方式をとっています。この方式では複雑な軒廻りの工作を上層の組上後に施工することが可能です。おそらく工法的な利点を考慮したものとみられます。

図7 多宝塔上層組物

図7 多宝塔上層組物

次に意匠的なこととして,一般に多宝塔の上層は平面が円形で構造的に不安定なため,十分に組み固める必要があり,「四手先組物よてさきくみもの」という壁から前方へ大きくせり出した組物を軒廻りにぎっしり並べますが,この塔の上層組物はより簡素な組物(「三手先組物みてさきくみもの」)とし,塔身から放射状に持ち送る組物の配列も減じています(図7)。これは組物や肘木ひじきの重複による繁雑な意匠を嫌い,軒を軽快に納めようとする意匠的な意思があったと考える他ありません。結果,軒廻りを見ますと緩やかな軒反りと相まって,すっきりした納まりになっています。
近世までの規範を土台としつつも,必ずしもそれに囚われないこれらの構造・意匠方針は,この塔の安定した構造や外観を実現するのに,きわめて成功したように思われます。
近代京都の和風建築史において重要な役割を果たした佐々木岩次郎,三上吉兵衛の優れた意匠感覚と確かな技による優品といえるでしょう。

京都の近代数寄屋

京都の近代数寄屋きんだいすきやについて語るとき、明治5年(1872)の第一回京都博覧会についてはじめなければなりません。このときに建仁寺正伝院に抹茶席、知恩院三門上に煎茶席が設けられました。このうち建仁寺では椅子に腰掛けての茶、すなわち立礼の茶が行われたのです。これは慶応3年(1867)、パリで行われた万国博覧会の影響なのです。このころヨーロッパでは茶の消費量が多くなり、博覧会でも茶の展示とデモンストレーションが行われていたといいます。一方日本では、文明開化の時代、伝統文化である茶の湯は大きく衰退しはじめました、人々の関心が西洋的なものへと向かい、また茶を支えていた武士や寺院の勢力の衰えも大きな要因です。そして起死回生を願っての策が、博覧会における茶の湯だったのです。もっともその効果がすぐに現れることはなかったようですが、東京をはじめ全国各地の博覧会へも波及しました。江戸時代の茶室は通常、屋敷の奥まった所に位置していましたが、ここで表、つまり晴れの舞台に引っ張り出されたのです。それは新しい数寄者たちの目に留まるところともなりました。このことはのちの彼らの活躍には少なからぬ影響を与えたのです。

ここで茶室と数寄屋、そして数寄者について簡単に触れておきましょう。茶室は言うまでもなく茶の湯を行うための部屋です。そしてその影響を受けた建築が数寄屋です。また数寄者とは芸道に熱心な人をさし、とりとは別に茶の湯に熱心な人のことをいい、多くの茶道具を所持し、場合によっては茶室を収集したり、あるいは普請道楽といって数寄屋建築を次々に建てた人もいました。

廣誠院

廣誠院

さて、京都における近代の数寄者といえば、まず伊集院兼常いじゅういんかねひろが挙げられるでしょう。伊集院は薩摩藩士であって、維新後には官僚から会社社長を歴任した人物で、「近代の(小堀)遠州」とも呼ばれています。高瀬川一の舟入に建ち、現在「廣誠院こうせいいん」と呼ばれている屋敷は伊集院の代表作で、明治25年(1892)頃の建築です。さまざまな趣向を凝らした数寄屋建築ですが、ここでは遣水の上に茶室を配した造形に注目したいと思います。壁面がカーブした変形三畳の茶室の下を水が流れ、そのせせらぎは十三畳半の書院座敷の縁先をかすめ、苑池を構成しています。茶室には円窓が設けられ、室内からはその流れを望むことができます。一般に茶室は、景色を眺めるようにつくることは希です。しかし近代には、外を眺めるようになったものも多くみられますが、それは数寄者たちによる自然との一体感の演出なのです。

伊集院はのちに南禅寺近郊にも屋敷をつくります。この周辺には琵琶湖疏水の水を利用した邸宅が数多く建てられました。早い時期のものとして、明治29年(1896)に竣工した山県有朋やまがたありともの「無鄰菴むりんあん」があります。伊集院の屋敷も同じ頃だと考えられますが、のちに所有者が代わり、明治35年(1902)に「對龍山荘たいりゅうさんそう」として市田弥一郎が増築をはじめます。池に張り出した座敷の下に小さな滝が造られるなど、水の流れを建物に組み込んでいます。その後、疏水の水を利用した屋敷づくりは南禅寺周辺に拡がり、「清流亭せいりゅうてい」や「野村碧雲荘のむらへきうんそう」などの邸宅群が築かれるようになりました。

白沙村荘

白沙村荘

銀閣寺の参道にある「白沙村荘はくさそんそう」は、橋本関雪はしもとかんせつが大正5年(1916)にこの土地を入手して以降、徐々に整備したものでした。庭には茶室や寄付として使用される四阿が建てられています。茅葺の寄付は池に乗り出した形式で、円窓を変形させた大きな開口部が池に向かっています。やはり縁を池に張りだした広間の茶室へは、池の中に打たれた飛石を伝ってのアプローチが組み立てられています。この広間には二方向に小縁が付き、庭に対して開放的な茶室となってます。小座敷の茶室では古材を用いたり床脇に持仏堂を設けるなど、自由な発想で造られた茶室となっています。

京都は山紫水明の都と呼ばれています。この言葉は頼山陽らいさんようがつくった言葉だといわれており、山陽が鴨川べりに建てた屋敷にその名をつけています。日本において水や自然と建物との深い関係は、奈良時代にはすでにあったと考えられ、平安時代の寝殿造やそれ以降、連綿として続いてきたものでした。一方、近代のヨーロッパの建築は、人工的な空間を自然から分離したものが主流でした。しかし新しい建築の考え方として、彼の地においても自然との一体感が求められるようになりました。それは昭和になって来日したドイツの建築家ブルーノ・タウトの桂離宮賛美に代表されます。彼は、飾らぬ意匠への興味と共に、自然との関わりに着目したのでした。数寄屋建築を代表とする日本建築はこの時代、大いに外国人達に注目され、そして新しい建築の参考にされたのです。その意味で近代においての数寄屋は、ヨーロッパに救われ、やがて彼らにご恩返しができた、と言ってしまっては少し大げさでしょうか。

特集 知られざる京都の文化財 4「賀茂季鷹の蔵書」

はじめに

図1 賀茂季鷹肖像画(個人蔵)

図1 賀茂季鷹肖像画(個人蔵)

上賀茂神社の東には、かつて社家(神社の神職の家系)が集住して社家町を形成していました。その景観は現在もよく残っており、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。江戸時代後期、その一角に賀茂季鷹(1754~1841、図1)という祀官が住居を構えていました。季鷹は上賀茂神社の祀官であると同時に、少年期から有栖川宮家に仕えて、職仁(よりひと)親王に歌道を学び、歌人としてその名を知られていました。当時の都の紳士録である『平安人物志』には、文化10年(1813)版から「歌」の部に名前が挙げられ、文政5年(1822)版以後、トップに挙げられています。絵画調査の折にも、季鷹が賛をした掛軸などをしばしば目にすることがあり、季鷹が名声を得ていたことがうかがえます。季鷹が『古今和歌集仮名序』にちなんで「雲錦亭うんきんてい」と名付けた別荘は、文化サロンとして機能し、京都はもちろん、本居宣長などを筆頭に地方からも訪問客が絶えなかったといいます。訪れた文人墨客は、季鷹の蔵書をお目当てのひとつとしていたことでしょう。季鷹は京でも指折りの蔵書家であったのです。季鷹が蒐集した大量の典籍は、ほぼまとまった状態で季鷹の家系に残されていました。今年の4月に、それらは「賀茂季鷹関係典籍類かものすえたかかんけいてんせきるい」と命名され、京都市の文化財として指定されました。

指定に至るまで

近年まで季鷹の蔵書は、季鷹が暮らした場所で、子孫の方に大切に保管されていました。しかし、一般の家庭で大量の典籍を、状態良く保存するのはたいへん難しいため、所有者のご判断で九州大学に寄託されることになりました。しかし、寄託を受けられた教授の退官や様々な事情で、京都市歴史資料館に移管されることになり、季鷹の蔵書は京の地に戻ることになりました。
段ボール箱にして60箱以上に上る蔵書には、季鷹の没後、子孫が集めた書籍も含まれていましたが、典籍研究の第一人者である藤本孝一氏が1年以上かけて全点の目録を作成されました。この成果を受けて、京都市が指定に向けて再調査に取りかかりました。具体的には、本の採寸、丁数(1冊を構成する紙の枚数)の確認、奥付の採録などの作業があり、これに2年を要しました。また、内容を吟味して、全部で1400件以上に及ぶ蔵書を、江戸時代までの典籍1269件、冊数にして3100冊余りまで絞り込みました。季鷹の生涯や人となりを知る上で重要な資料である季鷹の墓碑には、「和漢の書籍数千巻を蔵す」というくだりがあります。調査によって、これが決して誇張された数字でないことが証明されたわけです。歌人として一家を成し、国学も学んだ季鷹が自分の勉学のため、また好奇心を満たすために蒐集した蔵書は貴重かつ膨大で、散逸せずその家系に伝えられたのは、たいへんに意義深いことです。文化財保護審議会でも重要性が認められ、京都市の指定文化財となりました。また、当初書物が納められていた倹飩式の書籍箱も現存しており、季鷹の蒐集の実態を示すものであるので、附として指定を受けました。

「和漢の書籍数千巻」~季鷹蒐集の本

近世までは、「本」と言えば人が筆で書きうつした写本が主たるものでしたが、江戸時代に入ると1枚の版木に文字を刻んで印刷する版本文化が隆盛を迎え、多くの版本が流通するようになりました。しかし、出版に乗らない本は依然として多く、江戸時代の愛書家にとって、筆写は書籍蒐集の重要な手段であり続けました。季鷹の蒐集品にも多くの版本が含まれていますが、件数でいくと全体の6割程度が写本で、季鷹も同様にして本を集めたことが見てとれます。季鷹自筆の写本も多く、奥書きに「ある人物から借り受けた本を浪花の客舎で筆写した」と記すものもあり、旅先でも熱心に書籍を求めた季鷹の姿が浮かび上がります。

図2 季鷹の蔵書印「歌仙堂記」

図2 季鷹の蔵書印「歌仙堂記」

また有名、無名に関わらず、蔵書家たちは自らの所蔵品であることを示すために蔵書印を作り、愛書に押していました。そのため、蔵書印でその本がどういう人物の手を渡ってきたのかがわかります。季鷹も書籍に「季鷹」「賀茂県主」「雲錦」「生山書庫」「歌仙堂記」「上賀茂歌仙堂」(図2)といった蔵書印を押しています。「雲錦」「生山」はそれぞれ季鷹が名乗った号であり、「歌仙堂」は、邸内に柿本人麻呂と山辺赤人を祀った御堂「歌仙堂」を設けたことに由来します。季鷹本人の蔵書印の他にも、様々な蔵書印が見出せます。
書籍箱には源氏物語の巻名が与えられています。残念ながら傷みがきつく、中の書籍はすべて取りだされていますが、多くの本の表紙に源氏物語の巻名が記されており、当初の収蔵の姿をうかがい知ることができます。加えて、書籍から知りえない情報が記されている点も貴重です。例えば、蓋に記された墨書銘「今昔物語 参拾冊(蓋表)/天明三年於江戸新写 季鷹(蓋裏)」から、季鷹が明和9年(1772)から寛政3年(1791)の間、遊学していた江戸でも意欲的に書籍を蒐集していたことが見て取れます。同じく江戸での蒐集を示す墨書に、「日本事纂 四十二冊(蓋表)/在江戸中高松候御蔵書を奥州棚倉小笠原佐渡守殿もて令拝借令冩畢 季鷹(蓋裏)」というのもあり、季鷹が大名とも身分を越えて書籍のやりとりをしたことを示しています。
それでは、蔵書の内容に移りましょう。蒐集品は分野で言うと、叢書、目録、神道、仏書、思想、辞書、物語、随筆、日記文学、歌書、懐紙、音楽、芸能、美術、故実、儀式、記録、地誌、医書、教科書、漢籍と多岐に渡ります。歌人であった季鷹らしく、歌書の割合が最も多く、物語や日記文学などの日本の古典作品も多数に上ります。季鷹による朱筆の書入れがびっしりと入ったものも多く認められます。源氏物語関係の写本も多く、季鷹の書込みがある『源氏物語』写本45冊からは、季鷹の研究の様子がうかがえます。他方、漢籍には全く書入れがありません。一般教養として備えていたものでしょうが、季鷹の興味のあり様が如実に表れていて、興味深い点です。

図3 『清輔朝臣片仮名古今集下』

図3 『清輔朝臣片仮名古今集下』

蒐集品の中でも、特に重要な典籍は、鎌倉時代の古写本『清輔朝臣きょすけあそん片仮名古今集下』1帖(図3)です。『古今和歌集』の伝本にはいくつかの系統がありますが、清輔本は原型を想定できる伝本のひとつに位置づけられています。季鷹が所蔵していた清輔本の古写本は、添状によると、文化8年(1811)の歌仙堂落成を祝って知人から贈られたもののようですが、静嘉堂文庫に所蔵される模写本によって、その存在が知られるのみで、幕末から現代に至るまで、実物を見た人がほとんどいないという稀覯本でした。同書は列状装大和綴という綴じ方をされていますが、紙の折り目の部分が切り放たれているので、裏(紙背)が見られる状態になっており、一旦使用された紙の裏を利用して書写されたことがわかります。従来、平安後期の歌人藤原清輔筆の写本とされていましたが、紙背文書の書体などから鎌倉時代中期頃に筆写されたものと見られています。

図4 『蜻蛉日記』

図4 『蜻蛉日記』

他に、特徴的な書物を挙げていくと、目録部では『歌仙堂書籍目録』があり、季鷹蒐集の全容がうかがえます。また、『歌仙堂書籍出納録』は、季鷹蔵書を借用した人物が記されており、季鷹の交友関係がしのばれて貴重です。神道部は、神職にあっただけに部数も多く、130点余に及びます。中でも『賀茂競馬記』は上賀茂神社の競馬について記したもので、注目されます。これに対して、仏書・思想・辞書部は少ないのですが、辞書である『慶長版節用集』は、古活字版の貴重な版本です。古活字版とは、近世初頭の半世紀の間に行われた、木活字を組んで印刷した版本のことです。他にも日記部に、珍しい『蜻蛉日記かげろうにっき』の古活字版があり、季鷹が書入れをしています(図4)。懐紙・音楽・芸能・美術部はそれぞれ少ないものの、正倉院宝物を江戸時代に写した『東大寺三蔵什物写』は淡彩を施してあり、入念に写された巻子本(巻物)です。記録部では、大黒屋光太夫が漂着先のロシアから生還し、11代将軍徳川家斉に拝謁した折の記録『寛政五年将軍家漂民御覧記』が、挿絵入りで興味深い写本です。季鷹は、寛政5年(1793)には京に戻っていましたが、このセンセーショナルな出来事に同時代人として関心があったのかもしれません。この他にも重要な書籍、未紹介の書籍も多く含んでおり、貴重な文化遺産と言えるでしょう。

おわりに

季鷹の蔵書は個人の所蔵品であることに加え、全容が不明であったため、これまで公開されることはありませんでした。しかし、京都市の文化財として指定されたことを受け、今秋、京都市歴史資料館の特別展「賀茂季鷹の文学」(会期:平成23年11月19日~平成24年1月11日)でお披露目される運びとなりました。実物を見るまたとない機会ですので、是非お運びいただければと思います。

特集 知られざる京都の文化財 3「祇園祭保昌山前懸胴懸下絵」

はじめに

7月になると、京都は祇園祭で賑わいます。7月1日の吉符入きっぷいりに始まり、くじ取り式、山鉾建てと行事は次々に続き、7月17日には山鉾巡行を迎えます。きらびやかな装飾品で飾られた32基の山鉾が、都大路を巡行するさまは壮観です。
「京都祇園祭の山鉾行事」は平成21年9月に、日本を代表する無形文化遺産ということで、ユネスコの無形文化遺産に登録されました。日本の三大祭にも数えられ、これほど、「知られざる」という言葉がそぐわない祭礼も少ないのではないかと思います。しかし、山鉾を飾る装飾品の数々が何を表わしているのか、現代人の目にはわからないことも少なくありません。ここで、御紹介する円山応挙筆「祇園会保昌山前懸胴懸下絵ぎおんえほうしょやままえかけどうかけしたえ」も、祇園祭に関連する作品としては、すでに良く知られたものですが、描かれた主題について、知られていなかった点があります。今回はそこに焦点をあてて、主題探しの面白さ、もどかしさなどを追体験していただければと思います。

1 見事な応挙の下絵

図1 保昌山

図1 保昌山

保昌山は、東洞院通松原上る燈籠町から出される舁山かきやま(図1)です。御神体人形は平安中期の貴族の平井保昌ひらいやすまさで、武勇で知られた保昌が恋人のために紫宸殿に忍び入り、紅梅の枝を持ち出した姿を表しています。応仁の乱以前から巡行に参加していたと記録される由緒のある山で、古くは「花盗人山」の呼び名でも親しまれました。他の山鉾から少し離れたところに位置しているため、観光客の喧噪はそれほどではありませんが、この山のちまきは縁結びの御利益があるということで、若い女性には人気があります。
祇園祭の山鉾の多くは、江戸時代に天明の大火(1788)、元治の兵火(1864)という二度の大火で、本体や道具類を焼失しています。保昌山も同じく、多くの道具類を失いましたが、辛くも火災を免れ、今日まで伝えられたものの中に、緋羅紗地に豪華な刺繍で唐人物を表した前懸、胴懸があります。裏地は修理などのために取り外され、現在は別保存されていますが、「画工 圓山主水まるやまもんど(中略)安永二癸巳歳六月日」の墨書があり、応挙が下絵を手掛け、安永2年(1773)6月に完成したことがわかります。そして、幸いなことに、応挙が描いた下絵も保昌山に伝えられています。
応挙の下絵は、前懸分1枚、左右胴懸分2枚で、現在はそれぞれ2曲と6曲の屏風に改装され、6曲屏風の方は、中央の4扇に本紙が貼られています。下絵らしく折り畳まれた跡があり、表面には擦れもありますが、おおむね保存状態は良く、美しい淡彩が残っています。下絵ながら描写の精度は高く、人物、動物とも、本画を彷彿させるほどで、壮年期の応挙の力量が十分にうかがえます。一方で本画と異なり、応挙の繕わない、生の筆使いが見てとれるのは、下絵ならではの面白さと言えるでしょう。また、背景に紅が刷かれており、応挙が刺繍の下地である緋羅紗を想定していたことを示していると思われます。絵師の創作過程がしのばれて興味深い点です。

2 伝承された主題の謎

図2 前懸「蘇武牧羊図」

図2 前懸「蘇武牧羊図」

それでは、描かれた内容を見ていきましょう。
前懸(図2)に描かれているのは、岩場に座る年老いた唐人物です。右手に雲気の立ち上る宝珠を乗せて、顔の前にかざしています。老人の傍には霊芝が生え、隣には茶と白の羊が2頭寝そべっています。
左(西)側の胴懸(図3)には、波の上に乗る壮年の人物と従者、虎2頭が描かれています。長い豊かな髭を蓄えた人物は、風に衣服をなびかせながら、後方の虎と従者を振り返っています。2頭の虎のうち、手前の虎は通常の毛皮ですが、奥の1頭は白い毛皮をしています。

図3 左(西)側の胴懸「張騫に虎図」と言われていましたが…。

図3 左(西)側の胴懸「張騫に虎図」と言われていましたが…。

右側の胴懸(図4)も同じく波上の人物です。先頭は白い髭の福々しい相好の老人です。両手で杖をつき、傍らには鳳凰が寄り添っています。後ろの流木には女の子と見える可愛らしい容貌の唐子と従者が乗っています。唐子は巻物を握り、従者はザクロを捧げ持っています。流木は枯れている様子ながら、枝の先に桃色の可憐な花をつけており、尾の長い鳥も止まっています。

図4 右(東)側の胴懸「巨霊人に鳳凰図」、果たして…。

図4 右(東)側の胴懸「巨霊人に鳳凰図」、果たして…。

町内では、前懸の主題が「蘇武牧羊図そぶぼくようず」、左側は「張騫ちょうけんに虎図」、右側は「巨霊人きょれいじんに鳳凰図」と言われていました。しかし、残念なことに主題を記した同時代の文書類は残っておらず、裏地の墨書にもタイトルは記されていません。
伝えられる主題は、現代人にはなじみが薄い人物ではないでしょうか。蘇武は中国前漢の人で、西域の匈奴に使者として遣わされましたが、敵の手に落ち、北海(現在のバイカル湖)のほとりに流され「雄の羊が乳を出したら帰してやる」と言われても、決して節を曲げず、抑留後19年で帰国を許され、漢に戻った歴史上の人物です。張騫も前漢の人物で、やはり西域の大月氏に使者として派遣され、西域の知識を持ちかえった功績で博望候となりました。巨霊人は、岩を砕いて水流を通したとされる伝説上の人物です。
しかし、応挙の下絵は、仙人を描いた、いわゆる群仙図の要素が多く、蘇武や張騫といった歴史上の人物が主題というのは、どうもしっくりこないのです。それでいて、八仙図のようによく知られた仙人の図様でもありません。そこで、改めて調べ直してみると、次のようなことがわかりました。
主題に関する最も早い記録は、山鉾の装飾などを詳細に筆記した文化11年(1814)序の『増補祇園御霊会細記』で、「胴幕 三方共猩々緋仙人のぬい」とあり、江戸後期には群仙図と見られていたことがわかります。個別の主題が文献に記されるのは、明治8年(1875)、京都府の「八坂神事山鉾錺具取調」に対して燈籠町から上げられた「保昌山飾付」で、「一 前懸 猩々緋/羊ニ蘇武之図縫/一 両横懸 左同白鳳凰ニ張騫之図縫/右同虎巨霊人之図縫」とあります。制作から百年を経ても、町内では主題が伝えられていたわけですが、重要なのは「張騫」と「鳳凰」が、「巨霊人」と「虎」が組み合わされている点で、現在のペアとは異なっています。この組み合わせは、同時代の複数の文献に見られるので、少なくとも明治期にこの題名だったことは確かです。一体、どこで入れ違いが起こったのでしょう。
さらに時代を下り、昭和に入ると、若原史明(わかはらしめい)(1895~1949?)の『祇園会山鉾大観』に行きあたります。若原史明は祇園祭の山鉾の歴史と装飾品を詳しく調べた在野の歴史家で、克明な調査ノートを残しました。それが、史明の没後まとめられ、『祇園会山鉾大観』として昭和57年に刊行されます。その中で、保昌山の懸装品について2回触れ、その片方が「張騫に虎」「巨霊人に鳳凰」となっています。単純な錯誤ですが、『祇園会山鉾大観』の影響力は大きく、これ以後、「張騫に虎」「巨霊人に鳳凰」が定着し、現在に至ったと思われます。
では、「巨霊人と虎」「張騫と鳳凰」の組み合わせで先行作はあるでしょうか。

図5『絵本写宝袋』巨霊人

図5『絵本写宝袋』巨霊人

まず、巨霊人と虎を描いた作品は複数挙げられます。例えば、橘守国たちばなもりくに絵本写宝袋えほんしゃほうぶくろ』(享保5年〈1720〉明和7年〈1770〉再板版)には、巨霊人と虎が挿絵に描かれ、本文にも「巨霊人(中略)白虎を愛す」と記されています(図5)。
他方、張騫には浮き木に乗って黄河を遡り、天の川に至ったという不思議な伝説があり、17世紀の画題集である『後素集こうそしゅう』の神仙の項目にも「乗槎図じょうさず 張博望ちょうはくぼう(張騫のこと)漢人 浮木に乗、こき行て牽牛げんぎゅう織女しょくじょに逢也」と記されています。流木に乗る張騫図の作例も複数指摘されており(杉原たく哉「張騫図と乗槎説話」〈松枝到編『象徴図像研究―動物と象徴』言叢社、2006年〉)、「舞踊図屏風」(京都市蔵、図6)の画中画にも描かれています。また、張騫はザクロを東方にもたらしたとされ、応挙の下絵のザクロはこれを示すと思われます。唐子の持つ経巻は、漢に多大な恩恵をもたらした西域の知識を暗示するものではないでしょうか。

図6「舞踊図屏風」(上下反転)張騫

図6「舞踊図屏風」(上下反転)張騫

そして、張騫と巨霊人に共通することは、水に深く関わりがある点で、両者が波上に描かれたのはそのためでしょう。つまり、胴懸の二人物は、明治8年の書上げのとおり、「張鶱と鳳凰」「巨霊人と虎」とみなせます。
しかし、いろいろな問題が残っています。その最たるものは、前懸の主題です。江戸後期の人々が仙人と見たように、前懸の人物については、武人の蘇武よりも、岩を羊に変えた仙人の黄初平こうしょへいを充てたほうが適切かとも思われますが、応挙が描いた他の「黄初平図」では、黄初平を青年の姿で描いており、老人の例を見いだせていません。「蘇武牧羊図」という伝承を積極的に訂正する材料がないため、現状では主題の特定は保留ということになります。

おわりに

応挙の下絵の主題探しは、町内の伝承が「不可解だ」というところから始まりました。調査当初は、別の「正解」があるだろうという思い込みで、仙人の図様を求めて右往左往しましたが、行き着いたのは伝承通りの人物だったわけで、不可解であろうと町内の伝承を軽視すべきではないという、ごく当たり前の教訓を再認識しました。このケースと同様、不思議な題名が伝承される山鉾の装飾品は他にもあります。のみならず、各山鉾の名前の由来となっている御神体人形ですら、現代人からすれば「何故これを選んだのか」というものがあります。当時の常識や感覚と、我々のそれとの間には、想像以上に大きな溝が横たわっています。その溝を少しずつ埋め、一歩、また一歩と向こう側へ近付く手ごたえが調査の醍醐味でもあります。応挙の下絵も、ようやく細い道が途中までついたところ。今後も調べ続けたいと考えています。

特集 知られざる京都の文化財 2「久多の大般若経」

はじめに

図1 久多地域(赤枠内)

図1 久多地域(赤枠内)

京都市左京区の北部、滋賀との県境に位置する久多くたは、五ヵ町からなる山あいの集落です(図1)。その歴史は古く、康平7年(1064)に法成寺領であったことが知られています。現在は過疎化が進み、住民の多くが高齢者となっていますが、古くからの習俗や儀礼は今に至るまで受け継がれています。とりわけ良く知られるのは「久多の花笠踊」(図2)でしょう。国の重要無形民俗文化財にも指定されている久多の花笠踊は8月24日の夜、志古淵神社しこぶちじんじゃに奉納される盆踊りの一種で、暗闇にゆらゆらと揺れる花笠が幻想的な風情を醸し出します。また、志古淵神社本殿や岡田家文書など、市の指定・登録となった有形の文化財も伝えられています。


図2 久多志古淵神社と「久多花笠踊」

図2 久多志古淵神社と「久多花笠踊」

今回は、これら同様久多に伝えられ、今年新たに市の文化財に指定された大般若経だいはんにゃきょう(図3)についてご紹介します。


図3 久多の大般若経(巻1)

図3 久多の大般若経(巻1)


長きに渡る調査

大般若経(「大般若波羅蜜多経だいはんにゃらみたきょう」)は唐の玄奘三蔵げんじょうさんぞうが訳した600巻からなる大部の経典です。日本では奈良時代以降、国家安泰、除災招福などを祈願した転読が盛行し、現在でも広く行われています。
志古淵神社の宝蔵に納められていた久多の大般若経(以下、「本品」と略します)も、毎年8月10日に中の町の観音堂(通称普門閣)で転読されていました。「千日参り」と称して行われる転読の様子は、地元の女性たちが執筆した『京都・久多―女性がつづる山里の暮らし』(久多木の実会編、ナカニシヤ出版、1993年)で、次のように記されています。「当日(筆者注:8月10日)、町内の人たちはお菓子や煮物などのお供えを持って、2時頃にお参りします。その時は600巻ある大般若経の中から40巻くらいの読経があります。(中略)読み終えた巻物を巻き返すのもたいへんでしたが、お参りの人たちが拝んだ後で有難く巻かせてもらいます。読経の後は、お参りの人たちの持ち寄った物を広げ、お酒もあり、子どもにはお菓子があり、とても賑やかです。」この行事は現在も続いています。私は今年初めて拝見したのですが、読経後の雰囲気は和やかでうちとけたものでした。

図4 志古淵神社宝蔵内の経櫃

図4 志古淵神社宝蔵内の経櫃

京都市文化財保護課が初めて本品を調査したのは2003年のことでした。きっかけは本品を所有する久多自治振興会から受けた、大般若経の保存に関する相談でした。実物を確認するため久多に赴き、志古淵神社の宝蔵と観音堂を調査しました。宝蔵内には経櫃きょうびつ4合があり、これらに大般若経が納められていました(図4)。この時、建保2年(1214)の年記を発見し、他にも鎌倉時代の奥書がある筆写本であることがわかりました。そのため、2回目の現地調査では、経典類に詳しい京都国立博物館の赤尾栄慶氏に同行、調査をお願いしました。その結果、本品は文化財として貴重であり、全巻に渡る詳細な調査が望ましいという所見を得たのです。しかしながら、本品は膨大な量で、長期の現地調査は様々な面から困難でした。また、志古淵神社の宝蔵は湿気が多く、文化財を保管するには問題のある状態でした。そこで、調査と保管を同時に行ってくれる博物館等へ寄託してはどうか、という話が持ち上がりました。ただし、本品を寄託することで、最も懸念されたのは千日参りの存続でした。それも地元の理解と協力の元、8月10日に里帰りさせるということで折り合いがつきました。その後、地元が独自に働きかけて、近在の寺院から大般若経を借りられる目途がたち、千日参りが続けられることになりました。
調査込みの寄託を受け入れてくれる博物館を探し、赤尾氏のご紹介もあって、2004年12月に大谷大学博物館への寄託が実現しました。大谷大学博物館では、宮﨑健司教授が主体となって全巻の詳細な調査を行って下さいました。2007年秋には、調査の中間報告に当たる「久多の大般若経」という展覧会が開催されています。その後も調査は続き、博物館への寄託から4年を経て、本品の全容が明らかにされました。

興味深い奥書~「久多の大般若経」の特徴

それでは、宮崎教授の報告書をもとに、本品の特徴を述べていきたいと思います。
本品は1巻(巻159)を欠くものの、599巻が伝存しています。書写奥書は鎌倉から室町時代のもので、年記がないものも、多くは本紙の様子から鎌倉時代と考えられます。料紙にしばしば押されている多宝塔印は大中小の3種類があり、それぞれの印が押された時代には隔たりがあるようです。

図5 巻1 奥書

図5 巻1 奥書

志古淵神社の宝蔵では、本品と木版摺の五部大乗経(巻子装)約200巻とが混交した状態で、経櫃4合に納められていたこともわかりました。経櫃4合のうち3合が白木、残りが塗りのものであり、白木のものにはすべて貞和2年(1346)の墨書が確認されています。すなわち、白木の経櫃が当初のもので、本品はこれらに納められていたと思われます。

本品の最も早い書写奥書は、巻1の建保2年(1214)のものです(図5)。そこには慶顕なる僧が九条高倉で書写したことに加えて「焼失本寺已後六十二日愁歎之中執筆」と記されています。ここで言う「本寺」は三井寺のことで、「焼失」は建保2年4月15日に比叡山の衆徒が三井寺に焼討ちをかけ、129宇を焼失したことを指しています。つまり、慶顕は三井寺の僧ということになります。この他にも「三井良俊」や「智証門人天台末学」を名乗る長俊、「三井僧正道珎」という名前が記される奥書があり、本品の書写に三井寺の僧たちが深く関っていることがうかがえます。

図6 巻102 奥書

図6 巻102 奥書

また、建保4年(1216)の書写奥書では、顕祐という僧が、「八幡御宝前」安置として東山馬場辺りで書写したとありますが、この八幡宮がどこにあたるかは、はっきりとしません。他方、同年には清水寺の少別当や松尾寺(京都府舞鶴市)の覚命という僧も書写しています。
建治2年(1276)や建武4年(1337)、永正14年(1517)など、のちの年記のある書写は補写と考えられ、奥書のあり様からほぼ建保2~5年(1214~17)に書写が終了したと思われます。
また、底本として法成寺本、対校本として阿弥陀峯本、八幡宮本が挙げられています。このうち巻102で法成寺本を底本にしたと記す僧は「聖覚」と署名しています(図6)。

この人物が、平治の乱で打ち果たされた信西(藤原通憲)の孫であり、「安居院法印」と称された聖覚(1167~1235)ならば、本品は摂関家とも何らかの関係があったと想像されます。「安居院法印あぐいのほういん」聖覚は浄土宗の開祖法然の高弟で、洛北の里坊安居院に住いしたことからその名で呼ばれます。法然には貴賎の隔てなく、多くの帰依者がありましたが、その中には九条兼実もいました。兼実の帰依は深く、自身の出家の戒師として法然を請じており、聖覚との交流を示す逸話も残っています。法成寺は周知の通り藤原道長が建立した摂関家ゆかりの大寺院です。一介の僧に法成寺本の筆写は許されなかったでしょうが、九条家との交わり浅からぬ聖覚なら、それもできたと思われるのです。
このように三井寺の僧や「安居院法院」聖覚とおぼしき人物などが筆写に関わった本品が、なぜ久多に伝わったのでしょう。残念ながら、奥書にも久多伝来について記すものはありませんでした。ただ、経櫃には「奉施入山城國久多庄奉社 貞和二年九月四日」と記されており、少なくとも貞和2年には久多に納められたことが判明します。久多は貞和2年には足利家領でしたが、康平7年 の時点では法成寺領であったことが知られています。法成寺との縁が久多伝来に作用したのかもしれません。
ところで、鎌倉時代に成立した本品を守るため、久多庄では適宜修理を行ってきたようです。本品には、その修補銘も豊富に記されており、延慶2年(1309)、永正14年(1517)、天文19年(1550)、天和3年(1683)の修理が確認できます。特に永正14年の修補銘には細かな修理費用が記されており、当時の修理のあり様がうかがえて興味深いものです。また、天和3年の修補銘は複数の巻に記されており、久多挙げての修復事業だったことが知られます。内容も多岐にわたっており、「ナニコトモ修行ト思イシフリセバ心ニかカル事ノ葉モなし」などという道歌的な文言も見られ、当時の人々の心象も吐露されているようです。大社寺ではなく、山あいの集落の人々が私財を投じて、本品を修復し守ってきたことには大きな意義があります。

おわりに

調査を終えた本品は、現在も経櫃とともに大谷大学博物館に寄託されています。ずいぶん傷みも出ており、紙継ぎ部分の糊が離れて断簡化が進むなど、状態は決して良好とは言えません。久多に伝来して650年余り、地域で大切に守り伝えた文化財をできるだけ良い状態で後世に渡すことが今後の課題と言えるでしょう。

後世への史跡継承のために「落柿舎の平成大修復」

去来と落柿舎

嵯峨野の中心に位置する落柿舎らくししゃは、元禄の俳人向井去来むかいきょらいが閑を養うために営んだ草庵であり、日本文学史上の大変重要な史跡として知られています。
去来は、京における松尾芭蕉門下の中心人物として、俳諧の古今集とも称される『猿蓑』を編み、また蕉風俳諧の真髄を伝える『去来抄』や『旅寝論』を遺すなど、大変活躍した人でした。
去来は慶安四年(一六五一)に長崎に生まれました。青年時代には剣術・柔術・馬術・軍学を学び、武芸の名声は九州に知れ渡るほどでした。遠祖が南朝の皇子に従ったという誉れ高い武門の出として、その血脈は去来の中にも息づいていたものでしょう。さらに京にあって学芸にも親しみ、有職故実、神道を学びました。
三十歳を過ぎた頃から俳諧の世界に入りましたが、すぐにその才覚をあらわし、蕉門第一の俳士として知られるようになりました。芭蕉も、その篤実真摯な人柄を深く愛し、「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」と称えて門人のなかでもとりわけ信頼をおいたのでした。

元日や家に譲りの太刀はかん
鎧着てつかれためさん土用干
鴨鳴くや弓矢を捨てて十余年

このような句に、勇士去来というにふさわしい面目がうかがわれます。
芭蕉の没後、一家を構えて名利に走る門人もあったなか、去来はそれを深く厭い、一人の門人も求めず、ひたすら師より伝えられた風雅の道を一身に保ったのでした。まことに高潔の人でした。
さて、去来先生の落柿舎は、今から三百年以上も前、貞享二年(一六八五)の頃に構えられました。芭蕉も計三度ここを訪れ、嵯峨野の風情に寄り添い、くつろいだのでした。二度目はおよそ二週間も滞在して、名作『嵯峨日記』をしたためましたが、これが主人である去来の人物とともに落柿舎の名を高らしめたのです。現在の庵は、去来の没後六十余年後に再建されたものを濫觴らんしょうとしますが、長く「俳諧道場」として世々の俳人に愛され、大変重きを置かれました。その歩みは、初代庵主去来から現在の十五世庵主、伊藤桂一先生まで続いています。
現在も、芭蕉や去来を慕って、あるいはその萱葺き屋根の閑寂な風情と懐かしい趣きに誘われ、全国から人の訪れが絶えません。

落柿舎修復のあらまし

組上げられる新旧の木材(写真:上)と萱替えの様子(写真:下)

組上げられる新旧の木材(写真:上)と萱替えの様子(写真:下)

落柿舎は昨年平成二十一年九月、修復工事を無事竣工しました。当財団では、かつてない規模の大修復となりましたが、そのあらましは以下のとおりです。
落柿舎の庵は、全体的な緩み、柱や床の傾斜、壁の剥落などがみられ、萱葺き屋根の傷みも近年とみにはげしくなっており、このままでは倒壊の危険もあるという専門家の指摘さえありました。
そこで、財団法人落柿舎保存会では、さまざまに検討した結果、その閑寂な趣を変えることなく修復を施すことを条件に、工事実施を決意しました。施工は、寺社建築において信頼と実績のある株式会社奥谷組、そして、萱葺き屋根の葺き替えは、先代から落柿舎の屋根を葺きつづけている萱金に依頼しました。工期は十カ月と長く、園内は狭いので、その間は閉門とさせていただきました。これも、保存会発足以来初めてのことでした。
着工の前に、落柿舎の立地や建物の構造上、風致や文化財保護に関する課題も山積していましたが、関係官庁と協議しながら一つひとつ解決しました。さらに、奥谷組と綿密な協議を重ねた結果、①茅葺き屋根はすべて葺き替える ②柱や梁、壁などはできる限り現在使用されているものを残す ③朽ちた床下の木材などは取替え基礎部分を補強する、という修復の方向性をしっかりと定め工事に取りかかりました。

修復された萱葺きの屋根組(写真:左)と内部座敷(写真:右)

修復された萱葺きの屋根組(写真:左)と内部座敷(写真:右)

こうして一昨年(平成二十年)十二月一日に着工、年内に測量や足場工事、萱葺き屋根の解体を終え、明けて平成二十一年正月早々、土壁を落し本格的な修復工事に入りました。
ところがその時、玄関入口付近から江戸末期の釘やカンナの跡が見つかり、現在の庵の建築年代が推定できたことは、歴史的建造物の観点からも画期的なことでした。これが、財団法人京都市文化観光資源保護財団から助成をいただくことにもつながり、まことに有難いことでした。
それ以後、基礎工事を念入りに行い、五月に壁土・竹組みと荒壁の工事、六月には茅葺き工事と順調に修復は進行。梅雨の時期も素屋根で覆っていましたので大過なく工事は行われました。八月末には建具も入りほぼ完成に近づき、庭園の復元や修繕を行い、平成二十一年九月二十八日、無事竣工に至りました。
材木や壁土などを可能な限り再利用し、従来の趣を変えることなく復元するという当初の目的を、匠の技術により実現することができました。庵は、以後百年は問題なく保存できるとのことです。大切な史跡を後世に遺すという平成大修復の本願はこうして果たされました。
今後も閑寂を旨とし、日本文学の大切な心を伝える地として、落柿舎護持に努めてまいりますので、ご協力のほどよろしくお願い申し上げます。