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特集 京都の初期障壁画 3 「等持院方丈障壁画と狩野興以」

成安造形大学教授
小嵜 善通

京都市北区に所在する等持院の由緒は、現在の同市中京区柳馬場御池付近に建立された等持寺にさかのぼる。等持寺は足利尊氏あるいはその弟の直義により14世紀前半に建立された寺院である。等持院はその別院として現在の地に康永2年(1343)、別院北等持寺として建立されたと伝える。延文3年(1358)の尊氏の死後、別院北等持寺が尊氏の墓所と定められ、尊氏の院号である等持院と改称され、さらに、等持寺が応仁文明の乱により焼失してのち、別院であった等持院が本寺となった。
今回はその等持院方丈の障壁画をご紹介したい。同障壁画は毎年10月に期間を限って公開されている。現存するだけでも襖絵48面、杉戸絵18面を数える規模の大きな障壁画群であるが、一般的にはほとんど知られていない。その理由はひとえに公開される機会がなかったことにあろう。国内に現存する襖絵の最も古い作例は15世紀末にさかのぼるが、そののち17世紀初めに至るまでの襖絵は残存数が少なく、そのほとんどが国宝や重要文化財に指定されている。しかし、17世紀初めの制作になるにもかかわらず等持院方丈障壁画は戦後、傷みが著しいことから建物から取り外され、研究者も含め人々の目に触れることがなかった。ゆえに詳細な調査が行われないままに長く未指定の状態に据え置かれてきたのである。
その後、等持院方丈障壁画は昭和59年に京都市指定有形文化財に指定された。それを機に昭和60年から4か年にわたって修理が行われ、修理完了後の平成に入ってから現在のように期間を限って公開されるようになったのである。

方丈障壁画について

二十四孝図

二十四孝図

方丈とは禅宗寺院の本堂のことを指し、客殿と呼称されることもある。前庭に対して南面し、玄関方向から下間二之間、室中、上間二之間が南側に並び、下間一之間、仏間、上間一之間が北側に並ぶ6室構成を採るのが一般的である。等持院方丈の場合は通常よりも少し規模が大きく、6室の東西それぞれに鞘の間と称する部屋が付随している。
本障壁画を初めて紹介したのは、近世絵画史研究の泰斗土居次義氏(1906~1991)である。土居氏は恩賜京都博物館(現京都国立博物館)館長や京都工芸繊維大学教授を務めるなか、実証的な研究方法で画家の基準作例を確定させるなど、近世京都画壇研究の基礎を確立した研究者である。なかでも長谷川等伯や狩野山楽・山雪の研究が特に知られている。その土居氏が昭和10年(1935)に「等持院の障壁画と狩野興以」という論文を発表されたのが本障壁画の存在が知られるようになった最初である。
土居氏はその論文のなかで、各室の障壁画を紹介するとともに、『等持院小史』の記載から、本方丈は元和2年(1616)に建立された妙心寺海福院の方丈を江戸時代後期に移築したものであること、また『都林泉名勝図会』(寛政11年・1799)の記載からその筆者が狩野興以(?~1636)であることを指摘されている。
ここで余談であるが、土居氏とお会いした際のことを記しておきたい。晩年の土居氏は学会にも出てこられず、私は氏の論文のみでその厳格な研究者像を想像していた。そんな私が初めて土居氏宅を訪ねたのは、本障壁画を京都市の文化財に指定するための調査を行っていた昭和58年の秋であった。戦前における障壁画の状況や、その際に撮影された写真数葉を拝見した後、私は土居氏に本障壁画の存在をどうしてお知りになったのか尋ねると、土居氏は「チャンバラ映画を見ていて知ったのです」とおっしゃったのである。厳格とばかり予想していた私はその意外なお返事に驚いたことを今も忘れることができない。また土居氏は昭和20年には京都市文化課長として、二条城の襖絵など市内の文化財を空襲に備え北山の寺院などへ疎開させる仕事も担当されているが、「あの時は辛かったなあ」と初対面の私にしんみりとおっしゃられたことも懐かしい思い出である。
さて、その土居氏が戦前に紹介された時と現在とでは、本障壁画の状態は大きく変わっている。襖絵の面数が激減しているのである。土居氏が調査をされた戦前には、仏間以外の各部屋は四周すべてに障壁画が描かれており、総数約100面もあったのであるが、私が調査を行った昭和58年には外回りの戸襖部分の障壁画はすべて失われ、本稿冒頭に記したように襖絵48面、杉戸絵18面となっていたのである。戸襖部分の断片24図が2曲屏風3隻に貼り残されていたのは、わずかながらも幸いであった。当時の同寺執事の方によると、戦中戦後にかけて方丈には疎開をしていた方々が生活をされていたとのことであった。襖の開閉などにより、温湿度の変化が著しくなり、外気の影響を最も受けやすい戸襖の障壁画がダメージを受けたのであろう。

牧牛図

牧牛図

牧牛図

牧牛図

現在は、下間二之間の北及び東面に「二十四孝図」(図1)が8面、室中の東西及び北面に「牧牛図」(図2)が16面、上間二之間の北及び西面に「山水図」(図3)が8面、下間一之間の南面に「夏秋草図」が4面、仏間の南面に「稚松図」が8面、上間一之間の南面に「唐子遊図」が4面、このほかに杉戸絵と前記の2曲屏風3隻が残されている。「二十四孝図」と「牧牛図」、「稚松図」は墨画、「山水図」は墨画淡彩、「夏秋草図」と「唐子遊図」は著色である。なお、戦前の状態を推測すれば、「山水図」は西湖図であった可能性が高く、また「二十四孝図」も24場面すべてが描かれていた可能性が高いが、現在は11場面に止まる。


狩野興以と本障壁画の意義

山水図

山水図

本障壁画の筆者である狩野興以は狩野永徳の嫡男光信の高弟として知られるが、その出自は定かではなく、武蔵や伊豆、足利など諸説がある。諸資料からうかがえる作画歴としては、師光信のもとで参加した慶長11年(1606)の高台寺方丈障壁画、光信没後にその嫡子貞信が率いた元和5年(1619)の東福門院(後水尾天皇中宮・二代将軍徳川秀忠の娘和子)女御御所障壁画、狩野探幽(1602~1674)らによる寛永3年(1626)の二条城障壁画、同6年の台徳院(徳川秀忠)霊廟などが確認される。桃山時代後期から江戸時代初期にかけての、狩野派にとって重要な障壁画制作の多くに参加していることから、光信の弟孝信が率いた慶長19年の内裏障壁画制作や同20年の名古屋城本丸御殿障壁画制作にも参加していたことが予想される。
こうしたことから彼は弟子筋ながらも狩野派内において枢要な地位を占めていたことがうかがえる。これを裏付けるものとして、元和9年の狩野貞信臨終の際に狩野宗家を探幽末弟の安信に譲るという相続誓約書に、彼は血縁者と並んで末尾ながら弟子としてはただ一人署名をしているのである。また、彼は晩年紀州徳川家の御用絵師となり、彼の3人の息子も長男の興甫が父の跡を継ぎ、次男の興也は水戸徳川家、三男の興之は尾張徳川家と御三家に仕えている。尾張徳川家の興之のみ一代限りであったようであるが、他の紀州、水戸では興以の家系が代々御用絵師を務めており、興以が狩野派内において他の弟子たちとは一線を画する存在であったことは確かなようである。
最後に、本障壁画の意義について触れておきたい。結論から先にいえば、本障壁画には桃山時代の様式と江戸時代初期の様式が併存しており、その江戸時代初期の様式が探幽によって後に二条城障壁画などで展開する新様式につながるという点にある。例えば本障壁画のうち「牧牛図」には柳や槙、松などの樹木が描かれているが、それらはいずれも樹木全体を画面内に納めるのではなく、樹木上端は画面外に消え描かれない。こうした描き方は桃山時代に通有の描写である。それに対して、「二十四孝図」では画面内に全体を納める樹木が顕著である。また、幹を逆S字状にくねらせた松樹(これは「山水図」においても認められる。)や、枝をΩ型に屈曲させた樹木が描かれるが、こうした特徴が狩野派内において一般的な描法となるのは江戸時代に入ってから、寛永3年の二条城二之丸御殿障壁画に認められる探幽様式完成以降のことである。
狩野興以は江戸時代の資料によると、孝信の子探幽、尚信、安信3兄弟の養育をしたと伝えられる。養育というと現代では相当幼い時期に対して用いる言葉であるが、興以の狩野派内での立場を考えると、ここでは画家としての基礎や方向性を指導したと捉えるほうが適当と考えられる。興以の作風が若き探幽に伝えられ、それが探幽によって見事に江戸時代の到来を告げる探幽様式の完成に結び付いたと考えれば、興以や彼の息子たちが弟子筋としては破格の待遇を受けたことも納得できるのである。
等持院方丈障壁画は、狩野派において桃山時代を代表する永徳様式と江戸時代の新様式となった探幽様式との間の過渡期的な時期に描かれた一見地味な作例に見えるかもしれない。しかし、その細部を検討していくと、当時の狩野派の世代交代のありさまや、徳川幕府による新体制に即した新しい絵画様式の樹立に向けた狩野派の状況が垣間見えてくるのである。

写真提供/京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課

(会報117号より)