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京都の文化遺産を守り継ぐために 「近代京都の名建築 同志社のあゆみと近代建築」

同志社大学社史資料センター社史資料調査員・博士
小枝 弘和

同志社英学校創立から141年

同志社大学のルーツは1875年(明治8)に開校した同志社英学校にあります。以来、141年の歴史を有する学校となりました。現在、学校法人同志社には5棟の国指定重要文化財、5棟の国指定登録有形文化財、1棟の京都市指定有形文化財があります。これらの11棟の建物は明治期から昭和初期に建設された建築物で、客観的に歴史上、学術上の普遍的な価値を付された文化財です。一方で、同志社という特定の限られた枠組みの中においても、これらの建築物は同志社の歴史上で重要な役割を担い、その存在自体が現代、そして未来にその建築物特有の普遍的意義を有しています。ここ近年で国や地方自治体から指定を受ける建築物を有する学校が増えてきました。同志社をそうした学校の事例のひとつとして紹介します。

教学施設の充実のためのレンガ建築物

同志社の歴史における建築物の意義を考えるものさしとして、同志社創立期から昭和初期までの在学生増減の推移をグラフにまとめました。


1875年、同志社英学校が開校した時には8人の生徒で始まったといわれています(この年の在籍者数は12名)。その後、10年単位で在籍者数を見て行きますと、1885年(明治18)252名、1895年(明治28)595名、1905年(明治38)492名、1915年(大正4)1171名、1925年(大正14)3351名と変化しています。一時期、在籍者数の増加が停滞しますが、全体的には右肩上がりで学生数が増加したことがわかります。創立から新島襄が永眠する1890年(明治23)までの15年間でも増加傾向が顕著です。同志社英学校が今出川の地に移転してきたのは1876年(明治9)で、そのときの最初の校舎は木造2階建て校舎兼寄宿舎が2棟と食堂があるだけでしたが、とても激増する学生数に対応できる収容能力はありません。そのため、教学施設を充実させる必要性があったことは言うまでもありません。そうした状況下で、生徒数が創立当初の約20倍になった1884年(明治17)に建設された建物が、同志社で最も古い教室棟である彰栄館(国指定重要文化財)でした。

教育理念を可視化するシンボルとしての建築物

彰栄館(明治時代)

彰栄館(明治時代)

在籍者数の増加は学校の発展を示す一つのバロメーターでもあります。彰栄館が完成する頃は生徒数が急増しつつある時でした。同志社英学校は現在で言うところの中等教育機関に該当すると考えられますが、同志社の創立者である新島襄は更に高いレベルでの教育を実施することを考えていました。彰栄館が完成する2年前から、新島はまだ法的整備もなされていない社会状況の中で大学を創設するために募金運動を始めます。そして、同時に、同志社を教育機関としてふさわしい体裁や施設を備えた学校とするべく学内の整備を進めました。なかでも、現在の教育理念でもあるキリスト教主義を可視化する建築物の存在は、新島が見てきた海外のキリスト教主義大学のいずれにも存在する、学校教育を構成する重要な要素でした。そして、1886年(明治19)同志社においてもチャペル(国指定重要文化財)が完成しました。現存する最も古いプロテスタントの教会といわれています。この前年に行われた定礎式で新島はチャペルを「我同志社ノ基礎トナリ又タ精神トナル者ナレバナリ」(『新島襄全集』第1巻、同朋舎出版、1983年、105ページ)とたとえました。チャペルの存在そのものが、同志社の教育理念の体現であり、表明でした。

アカデミズムの表徴としての建築物

ハリス理化学校(1890年)

ハリス理化学校(1890年)

クラーク記念館(明治時代)

クラーク記念館(明治時代)

チャペル完成の1年後に、同志社では書籍館(初代図書館、国指定重要文化財)が建設されました。現在は有終館といいます。新島は大学設立に関する文章に、見聞した諸外国の大学図書館の蔵書数を事例として書き込んでいました。蔵書の数がその学校の学術レベルを保証するひとつの指針になる時代において、高等教育を備えた学校としてふさわしい体裁を整えるために、書籍館は不可欠のものでした。
同志社において大学が誕生するのは新島が永眠した後になりますが、新島は在世中に中等教育を越えて専門教育を実施する学校を創設しようとしました。その学校がハリス理化学校(国指定重要文化財)であり、その専用校舎がハリス理化学館です。同志社で最初の専門的な理化学教育の拠点であり、シンボルでした。また、新島の永眠からまもなくしてクラーク神学館(国指定重要文化財)が建設されました。その名にあるように、神学専門教育を象徴する建物です。現在はクラーク記念館と名称が変わっています。
創立者の新島が同志社に関わった時期はわずか15年でしたが、その間に重要文化財に指定されている建物5棟のうち4棟が建設され、各々が同志社の歴史において、その存在に重要な意義があります。そして、これらは歴史の浅い学校が、その品格と主義と理念を可視化する対外的なアピールとなり、アカデミズムを備えた最新の設備を具備したという実態を備えた学校であることを示すこととなりました。

同志社大学開校とレンガ建築物

啓明館竣工直後の本館2階大閲覧室

啓明館竣工直後の本館2階大閲覧室

創立者の永眠後、1890年以降の同志社の学生数をグラフで辿っていくと1910年代前半を境目として、学生数の伸びがそれまでとはことなることがわかります。その主要因のひとつが、同志社大学の開校です。1912年(明治45)、専門学校令によって認可された同志社大学が開校しました。さらに、その8年後の1920年(大正9)、大学令によって認可された同志社大学が開校しました。これらが示すことは、学園としての同志社の中に純粋に2つの学校が増加したことを意味します。また、この2つの学校が開校するまで、同志社には高等教育機関が存在しませんでした。こうした事実に伴い、発生する問題が教学施設の拡充と高等教育に適した教学施設の整備です。そのために、新たにレンガ建築物が建設されました。こうした課題に適応した建築物として、1916年(大正5)大教室を備えた致遠館、1920年2代目となる図書館本館(現・啓明館、国指定登録有形文化財)が完成します。これらの建物を設計したのが、数多くのレンガ建築物を手がけたことで知られるW.M.ヴォーリズ設計事務所でした。このほかにも、1932年(昭和7)には同志社アーモスト館(国指定登録有形文化財)も設計しています。致遠館や図書館は同志社の高等教育の始まりを象徴する建物ですが、同志社アーモスト館は、その名にあるアーモスト大学とは創立者新島襄の母校で有り、太平洋戦争に突入する前の日米交流を象徴する建築物で有り、同志社の国際交流の象徴する建築物です。

おわりに

同志社に残る国指定のレンガ建築物を事例として、学校の歴史に照らし合わせながら話を進めてきました。日本の各学校に残る古い建築物は、一般的には歴史的価値を有する建物として主に認識されますが、各学校の歴史と合わせてその価値を相対化することで新しい発見が出来ると思います。各学校の建築物は伝統や存在意義、アイデンティティーを表徴しています。同志社をひとつの事例として、今後学校の建築物との向き合い方をお考えいただけると嬉しく思います。

タイトル写真:神崎順一(写真家)撮影
文中写真提供:同志社大学同志社社史資料センター

(会報119号より)