学ぶ

特集 京都の彫刻・工芸品 -2- 「岩戸山の四本柱金具来立像 -千家十職 金物師 中川浄益の仕事-」

京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課技師
山下 絵美

はじめに

祇園祭の季節がやってきました。山鉾を飾る装飾品は、祇園祭の最大の見どころであり、普通ならば美術館のガラス越しに鑑賞するような貴重で美しい品々が、祭の期間は市中に溢れています。
今回は、山鉾の装飾品のなかでも、懸装品の色彩と鮮やかなコントラストを成し、金色の輝きを放つ錺金具のひとつ、岩戸山の四本柱金具をとりあげます。

1.祇園祭・山鉾の錺金具

山鉾の装飾品は、梅雨の明けきらない不安的な気候や、巡行時の振動などを受け、傷みが生じるたびに修復と新調が繰り返され、今日まで大切に受け継がれてきました。錺金具においては、変形や折れなどの損傷が少なくなく、現状の記録や保存の必要から、近年本格的な調査が実施されました。平成13年から27年まで、じつに15年にわたる調査からは、各山鉾町が所有する錺金具の詳細がわかっただけでなく、関連する古文書を調査からは、その制作や購入・奉納などの記録が明らかになりました(※1)。
錺金具のほとんどは銅製で、鍍金(いわゆる金メッキ)がほどこされています。それらは、制作技法や文様の図様、箱書や古文書などの情報から、制作年代や作者などを知ることができます。今回とりあげる四本柱金具は、山鉾の屋根を支える四本柱を装飾する金具です。つまり屋根のある山鉾にしかない錺金具で、現在巡行する33基のうち、長刀鉾・函谷鉾・鶏鉾・菊水鉾・月鉾・放下鉾・岩戸山・北観音山の8基に見ることができます。うち最も古いのは鶏鉾のもので、文政11年(1818)の箱書が添います。菊水鉾・放下鉾・岩戸山の四本柱金具は、昭和期に制作されたことが知られています。

2.金物師 中川浄益家

[写真1]四条通を巡行する岩戸山

[写真1]四条通を巡行する岩戸山(平成23年) 京都市文化財保護課撮影

[写真2]四本柱に付く十代中川浄益の刻印

[写真2]四本柱に付く十代中川浄益の刻印 筆者撮影

岩戸山[写真1]の四本柱には、山の前方の2本に金具が付きます。うち西側(つまり正面から向かって右側)の金具に付く、縦3.5㎝、横1㎝ほどの小さな銀板[写真2]に「大日本中川十世浄益造」と刻まれていることから、茶道・三千家の好み道具を制作する千家十職のひとつ、中川浄益家の十代(明治13-昭和15/1880-1940)の制作になることがわかります。
中川浄益家は、金物師とも錺師ともいわれ、京都を拠点とし、茶の湯に向いた金属製品を手がけてきました。天明の大火により、それまで所有していた古文書等を焼失してしまいますが、七代浄益ののこした「中川家系図」から、歴代の足跡を知ることができます。それによると、初代は越後高田佐味郷えちごたかださみごうの出身で、天正時代のはじめに京都に移り住んだとされます。金属加工を生業とし、もとは甲冑などの武具類を制作していたようですが、千利休の指導により、薬缶を手がけたのが家業の始まりと伝わります。千家との交流は、表千家に残る史料からもうかがうことができ、代々がその技を継承するだけでなく、茶の湯に親しんできたことも知られます(※2)。
茶道具を制作する職人が、いったいどのようないきさつで、祇園祭の錺金具を制作したのでしょう。残念ながら、それを直接知ることのできる史料は今のところ確認することはできませんが、いくつかの資料から、その背景を少し考えてみることにしましょう。


3.岩戸山の四本柱金具

[写真3]四本柱金具

[写真3]四本柱金具

[写真4]四本柱金具(部分)

[写真4]四本柱金具(部分)
写真提供/公益財団法人祇園祭山鉾連合会(3・4とも)

岩戸山は、京都市下京区新町通仏光寺下ル岩戸山町を本拠とする、前祭に出る曳山です。天岩戸の神話に材を取り、天照大神・手力雄尊(戸隠大明神)を舞台上に、そして屋根の上には、岩戸山の姿を強く印象づける伊弉諾尊いざなぎのみことの三体の御神体をのせます。舞台上の朱塗の鳥居には「岩戸山」の扁額を掲げますが、これが『祇園会細記』(宝暦7年〈1757〉)に記された扁額に該当するだけの古様な技法と図様が見られる、岩戸山で最も古い金具です。また、天明の大火後、どの山よりも早く、大屋根を新設して巡行復帰しており、3基の曳山のなかでも最も古い木部構造を残していることが、近年の調査でわかっています(※3)。
ほかの山鉾と同様、岩戸山は天明・元治の大火と度重なる災難に遭いますが、そのたびに復興を遂げ、現在に至ります。そのなかで四本柱金具は、昭和期に制作された新しい金具ではありますが、今やそれを一目見れば岩戸山とわかるほどの、重厚で独創的な意匠がほどこされています[写真3・4]。
金具の寸法(㎝)は、東に付くもので長さ121.8、幅14.5、奥行14.3、厚さ2.2、西に付くもので長さ122.0、幅11.2、奥行11.5、厚さ1.8を測ります。金具は柱に固定されていて取り外しができず、制作の情報が残る裏面を見ることができないため、技法の詳細を知ることができませんが、おそらくは、銅板を金槌で叩いて文様を浮き立たせる鎚起の技法を用いて、葦に霞文様を立体的に表現し、鍍金をほどこしたものと思われます。ほかの山鉾の四本柱と比較すると縦の長さがあり、天水引から欄縁まで、四本柱の見えている部分がほとんど金で覆われた、重厚で絢爛な印象となります。また葦の意匠ですが、『古事記』には冒頭から登場する植物であることから選ばれ、さらに葦の成長力に重ねて、町の繁栄が願われたものなのでしょう。


4.十代中川浄益の仕事

岩戸山の四本柱金具の作者である十代中川浄益は、昭和15年(1940)に没しているので、作られたのは昭和のはじめ頃であることが推測されます。十代の長男である十一代浄益は、平成14年に表千家北山開館で開催された展覧会「千家十職 中川浄益の金工 −茶の湯工芸の伝統と創造−」に際して行われた対談のなかで、岩戸山金具のことを以下のように語っています。

—どういう関わりでそういうことになったのか私は判りませんが、京都の祇園祭の
山鉾あるでしょう。岩戸山というのがあるんですが、その四本柱のうち、二本を
作ってるんです。芦と水とをあしらってね。日支事変(昭和12年開戦の日中戦
争)のため資材に事欠き、後の二本は未完成のままやったと聞いてます―
(※2からの引用)

また、十代浄益の時代には、職人を工房で5人ほど、さらによそにも下請けの職人を抱えていたそうで、この時代、金属加工に関するさまざまな技術を持った職人が揃っていたことがうかがえます。それを物語るかのように、十代浄益の作品には、有線七宝の技法を用いた「直斎好じきさいごのみ 七宝火焔馬文水指しっぽうかえんうまもんみずさし」(武者小路千家官休庵蔵)や、三井高棟(北三井家十代)が作らせた「黄金富士釜おうごんふじかま 象嵌入南鐐鳳凰風炉ぞうがんいりなんりょうほうおうぶろ」(三井記念美術館蔵)など、さまざまな材質・技法を巧みに用いた、色彩豊かな茶道具が見られます。その流れは父である九代浄益の「青磁累座三足二見香炉せいじるいざさんそくふたみこうろ 二見ヶ浦夫婦岩南鐐火屋ふたみがうらめおといわなんりょうほや」(三井記念美術館蔵)などの造形性豊かな作品からも垣間見えますが(※4・5)、この柔軟な発想と技術は、八・九代の過ごした明治期における、茶の湯文化の衰退などの困難を乗り越えたからこそ得ることのできたものなのかもしれません。

5.九代浄益がのこした襖の引手金具

[写真5]「金像嵌入四季草花模様引手」(芒に鈴虫)

[写真5]「金像嵌入四季草花模様引手」(芒に鈴虫)

[写真6]「金像嵌入四季草花模様引手」(柳に千鳥)

[写真6]「金像嵌入四季草花模様引手」(柳に千鳥)

明治期における浄益家では、金属の置物や、袖香炉(袖の中で燻らせる携帯用の小さな香炉)など、茶道具以外の品々を手がけています。家業である茶道具制作が滞る一方で、海外向けの工芸品の需要が高まる時代であったのでしょう。そのなかで九代浄益は、たいへん洒落た引手金具なども手がけていたことを知る人は多くないかもしれません。
下京区にある個人宅の広間では、浄益作の揃いの引手金具が現在も使われています。引手金具は銅製のものを多くみかけますが、これらは鉄製の四方形で、金象嵌で四季折々の花鳥草虫が繊細にあらわされています。襖に10㎝四方のものが4点[写真5]、地袋の小襖に6㎝四方のものが2点、天袋の小襖に5㎝四方のものが4点[写真6]とりつけられ、それぞれに1点ずつ、「浄益」の刻印が押されています。当宅は明治35年(1902)の建築で、さらに「九世浄益」の印が押された、浄益から家主に宛てた寅年(おそらく明治36年)の書状がのこっていることから、これらは九代の制作であると考えられます。書状は、浄益が注文を受けていた金具類の納品に関するもので、「大方 鉄四方角 金象嵌入四季草花模様引手 四個」など、大・中・小それぞれの引手金具の意匠や個数が記されています。現在使われている引手金具に該当する可能性が高いもので、施主と作者のやりとりのわかるたいへん興味深い記録です。


おわりに

中川浄益家の茶道具制作以外の仕事について、あまり多くは知られていませんが、岩戸山四本柱金具や引手金具からは、中川家の多様な技術と交流を知ることができます。それは近代京都における工芸界の動向を知るうえでも貴重な資料といえます。
中川浄益家は、家業を営むなかで築いた縁、そして困難の多かった時代のなかから、こうした新たな制作の道を広げていったにちがいありません。豊かな発想と技術をもって作られた品々は、高い美意識をもつ京都の人々の目にかない、こうして現在も町のなかで息づいています。

参考文献
(※1)公益財団法人祇園祭山鉾連合会編・発行
『祇園祭山鉾錺金具調査報告書Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』平成28・29・30年
(※2)表千家北山会館編・発行
『千家十職 中川浄益家の金工 -茶の湯工芸の伝統と創造-』平成14年
(※3)公益財団法人祇園祭山鉾連合会編・発行
「放鷹 −祇園祭 鷹山 復興のための基本計画書」平成30年
(※4)世界文化社発行『千家十職 手業の小宇宙』平成24年
(※5)林屋晴三監修・青幻舎発行
『茶の湯の継承 千家十職の軌跡』平成28年

(会報122号より)