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京都の文化遺産を守り継ぐために 「壬生寺と地蔵信仰」

壬生寺副住職
松浦 康昭

壬生寺の創建と本尊・地蔵菩薩

壬生寺本尊

壬生寺本尊

律宗りつしゆう壬生寺みぶでら正暦しようりやく2年(991)、園城寺の僧侶・快賢かいけんが亡き母の供養のため、仏師・定朝じようちように命じて延命地蔵菩薩像を造らせ、これを本尊として坊舍を建立したのが始まりです。寛弘2年(1005)には、堂供養も行われ、この時小三井寺と名付けられました。その後、本尊の霊験はあまねく広まって、承暦年間(1077~81)には白河天皇の行幸もあり、地蔵院の寺名を賜ったと言われます。爾来、明治維新まで勅願寺でしたが、延命地蔵菩薩を本尊とするため、皇族のみならずひろく庶民からも信仰を集めていたのです。
本尊の霊験が大いに流布する契機となったのが、『太平記』にも収録された壬生地蔵の霊験譚です。南北朝時代、香匂高遠こうわのたかとおという南朝方の武士を、壬生寺の本尊が身代わりとなって縄を打たれることに依って、高遠の危機を救ったといいます。本尊は「縄目なわめ地蔵」と呼ばれ、語り継がれました。


現代へも続く地蔵菩薩の信仰

しかし、その本尊は、昭和37年、本堂と共に不慮の火災によって烏有に帰します。そこで昭和42年に律宗総本山・唐招提寺から重要文化財の地蔵菩薩像が、新たな本尊として遷座されました。幾度の災禍に遭っても、壬生寺の地蔵信仰は途絶える事無く、今日に至っています。特に毎年2月の壬生寺節分会は、壬生寺が京都の裏鬼門を守護する位置にあり、古来から続く伝統行事で、期間中は数万人の参詣者で大いに賑わいます。片や小さな行事では、毎年8月下旬の京都市内各町内で催される地蔵盆において、地蔵の無い町内に壬生寺の石地蔵を貸し出す「貸し出し地蔵」は、壬生寺独特の風習になりました。
また、壬生寺の近隣は幕末に新選組が駐屯した地であり、境内にある隊士の墓所には、訪れる若者があとを絶ちません。境内には地域福祉に貢献すべく、保育園や老人ホームも併設されています。時代により変遷を遂げた壬生寺ですが、その信仰の支えにあるものは、親しみを込めて「壬生さん」と呼ばれるような、庶民大衆から愛される地蔵菩薩を祀る寺であるからなのです。
昭和の火災で失われた旧本尊・縄目地蔵は、昨年平成29年7月、滋賀県山東町の仏師・中川大幹氏に依頼し、復刻に向けて鑿入のみいれ式が執り行われました。完成の暁には、縄目地蔵が再び新たな信仰を築くものと思っております。

中興の祖・圓覚上人と壬生狂言の起源

圓覚上人

圓覚上人

壬生寺は、鎌倉時代に伽藍の全てを焼失しますが、信者の平政平たいらのまさひらに依って再興されます。この再興にあたり、政平と共に尽力したのが、壬生寺中興の祖である圓覚上人です。圓覚上人は東大寺で出家し、唐招提寺の證玄長老の弟子となりました。上人の初めての事業が、この壬生寺再興でした。その後も京都では法金剛院、清凉寺、奈良では法隆寺・法起寺など各地の寺院を復興しました。その復興の傍ら融通念仏を人々に広めました。特に壬生寺においては、正安しようあん2年(1300)に「大念佛会」という融通念佛の法会ほうえをひらいたのです。壬生寺をその法会の場に選んだのは、ご自身が復興した寺である事と、庶民が集う地蔵信仰の場であったからでしょう。
当時、上人の教えを来聴する大衆が数万人にも及んだので、上人は人々から「十万上人」と呼ばれて崇敬されていました。拡声器とてない時代、上人は群衆を前にして、最もわかりやすい方法で、仏の教えを説こうとされたのです。そして、里の人に無言劇に仕組んだ所作をさせて、仏の教えを説く方便としました。これが現在、壬生寺で伝承されている伝統芸能の壬生狂言の始まりです。

壬生狂言の公開と伝承

壬生狂言「炮烙割」

壬生狂言「炮烙割」

壬生狂言は、正式には壬生大念佛狂言と言い、「カンデンデン」の愛称とともに京都の庶民大衆に親しまれてきました。宗教劇から起こった壬生狂言ですが、近世になると演劇的に発展を遂げ、現在演じる演目は30番あります。しかし、能狂言と異なり、全ての演者が仮面を付け、セリフを用いず無言で演じるその形は今も変わらず、その伝承形態が高く評価されて、国の重要無形民俗文化財に京都府下では第1号に指定されたのです。また、壬生寺境内にある狂言を演ずる舞台「大念佛堂」は、安政3年(1856)の再建ですが、その特異な構造から重要文化財に指定されています。さらに、狂言に使用する仮面・衣裳・小道具は数百点を数え、貴重なものが数多くあります。
壬生狂言の定例公開は、春・秋・節分の年3回、計12日間です。特に春の公開は、「壬生大念佛会みぶだいねんぶつえ」という壬生寺の法要であり、狂言は期間中、夜・早朝・昼の勤行のうち昼の勤行として、壬生大念佛講が本尊の地蔵菩薩に奉納するものです。この法要は正安2年の創始以来700年間も途絶えることなく続けられています。また、公開以外にも「すねきり会」「面棒まき」「開白式」「結願式」など狂言を行う上での宗教儀式があり、すべてに「講中」が参加するのです。その講中とは、壬生狂言の伝承団体「壬生大念佛講」に所属する人のことです。講中は壬生狂言を演じることが職業ではなく、各自の本職の傍ら、壬生狂言の伝承に努めておられます。

文化財保護とその現状

このように壬生寺は有形・無形の貴重な文化財を有しています。地蔵信仰から生まれた壬生寺の文化財は、寺の力だけではなく、多くの篤信の人々に依って守り伝えられて来ました。また、京都市文化観光資源保護財団様など、公的なご支援も頂けるようになりました。しかし、昨今の日本の情勢を鑑みると、宗教離れや少子化、文化財の保存維持のための伝統技術や産業の衰退など、文化財保護を取り巻く状況は厳しいと言わざるを得ません。古来より地蔵菩薩は、地獄など苦難の世界にも現れ、我々を救って来られた仏です。今こそ我らがご本尊の信仰を守り、さらに広めねばと決意を新たにしています。

(会報122号より)