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特集 伝統建築工匠の技の保存と伝承 ~世界無形遺産登録の技術~ 「『建具製作』技術 その③」

写真1 当初舞良戸(左)と新調された舞良戸(右)

写真1 当初舞良戸(左)と新調された舞良戸(右)

寺院建築の方丈や書院の多くには、内部の壁面や襖に様々な絵画が描かれています。それらは単なる装飾という意味だけでなく、室の用途に応じて、豪華な金地著色画や落ち着いた墨画に描き分けられたり、中国故事や花鳥などの画題が選定されるなど、建築構成上でも重要な役割を担っていることがあります。
室町時代から江戸時代にかけての狩野派等の優れた絵師によって描かれた障壁画や襖絵の中には、建造物の一部でありながら絵画としての価値が評価され、美術工芸品として重要文化財に指定されるものがありますが、この場合に気をつけなければならないのは、絵画の修理を行う際に、美術工芸品の専門家だけの指導の下で修理が行われると、建具は絵画の単なる下地という扱いで判断されてしまうことです。実際、過去には絵画の修理時に古い傷んだ建具は絵画の保存上好ましくないとの判断から安易に新調され、さらにその建具の形式も変更されてしまったことがありました。これによって残念ながら建立当初の建具は解体されてしまいました。また美術工芸品の絵画が嵌め込まれた建具の外部に、直射日光除けのため新たに養生用の簡易な形式の舞良戸建具が立てられたようで、これに合わせて絵画のない当初舞良戸が簡易建具に取り替えられてしまった(写真1)ため、文化財建造物のオリジナル部材の喪失とともに景観的価値も大きく損なわれることとなりました。

これは行政等でよく言われている、分野や専門性が細分化されることによって発生する縦割り構造が、文化財の世界でも行われてしまっていることを如実に表す事象でした。この問題が発生したことを契機に、絵画修理専門技術者と建造物修理専門技術者の交流の必要性が重要であることが認識され、文化財である絵画の貼り付いた戸襖や障壁画の修理に当たっては、建造物の修復専門家も加わって協議し、建造物と美術工芸品の価値が両立できる修理方針を検討する機会が徐々に設けられるようになり、古い建具も価値が認識され、文化財的な修理をして保存や再用されるように意識が変わりつつあります。

そこで今回は、絵画として重要文化財に指定された戸襖絵の修理について紹介します。
対象は、重要文化財建造物の戸襖に描かれた絵画で、制作されて400年以上経過しており経年劣化が見られるほか、日常的に開閉されることから絵の摺損劣化が甚だしく、また亀裂等の破損も大きい状態でした。戸襖は建造物の一部ですから、建物と一体的に保存するのが最も望まれますが、絵画が現況の保存管理状態ではさらなる劣化が免れないことから、建具は絵画とともに修理を施した上で博物館施設に保管し、必要に応じて当初の場所に戻して建造物としてのオリジナルは復旧できることとしました。その代替として、建造物には復原建具を製作して模写絵を貼り付け、建造物としての価値も損なわないようにすることとなりました。

写真2 舞良戸

写真2 舞良戸(禅宗方丈でよく見られる)

写真3 綿板用の椹板

写真3 綿板用の椹板

復原されたのは舞良戸まいらどと呼ばれる建具(写真2)で、製作に当たっては当初建具の技法に倣うこととしました。当初の建具は、外見上は一般的な形式とほとんど変わらないのですが、いくつかの質の高い特徴が見られました。一点目は材料です。綿板が椹の木目が詰まった柾板材で、しかも長さが2m以上、幅が25㎝以上の良質な材料が用いられていました。今回の製作ではこの板材が30枚以上必要となり、様々な材木店に問い合わせてみましたが、すべて調達が困難とのことでした。そこでこけら葺板製造を専門に扱う長野県の業者に照会したところ、特別に保管してあった椹丸太材を挽いていただき、当初の材料ほどではないですが何とか良材を確保することが出来ました(写真3)。

写真4 杓子枘

写真4 杓子枘

写真5 杓子枘を斜めに差し込みながら入れ 込むと、枘穴が中で広がっているのでまっすぐに納まる

写真5 杓子枘を斜めに差し込みながら入れ
込むと、枘穴が中で広がっているのでまっすぐに納まる

二点目は技法で、舞良子まいらこの両端に斜めに折れ曲がる杓子枘しゃくしほぞという特殊な仕口を造り出していました(写真4, 5)。この仕口は、框側も斜めに穴が彫られているため、一度枘穴に入れ込むと引き抜けないようになります。両端に杓子枘があるため、組み立て時には舞良子を撓わせて慎重に1本ずつ差し込んでいきます。強度的には非常に優れた組手ですが、非常に手間がかかることから、国宝や重要文化財などの歴史的建造物でもこれまで使用事例は数例しか確認されていません。この技法が今回復原される建具に用いられていることは、約40年前に実施された本堂解体修理の際に、絵画のない両面舞良子付の建具修理で判明していました。この技法を用いて現在の職人が新たに製作する機会が得られたことは非常に良かったと思います。

写真6 形式の変更に伴って欠き取られた鎌首部分

写真6 形式の変更に伴って欠き取られた鎌首部分

写真7 框部分に残る作業半ばの仕口穴

写真7 框部分に残る作業半ばの仕口穴

写真8 稲妻型の合釘

写真8 稲妻型の合釘(使用されていたものと今回新調したもの)

三点目は、絵画を貼り付けるための複雑な加工です。これは今回既存の建具を修理するために解体したことにより新たに判明したことですが、当初は両面舞良子付の舞良戸を製作していたのが途中で内側の面に絵画を貼り付けることとなり、急遽製作工程を変更して苦肉の策で実施されたものでした。框の仕口枘が部分的に再加工されたと思われる箇所は、鎌首が削られて構造的には明らかに不利になっており(写真6)、一度組み込まれてから変更したものであることは明らかで、職人としては止む無く施した様子が伺えます。また現在絵画が貼られている面には、框に舞良子の枘穴の加工途中の痕があります(写真7)。しかし、絵画を貼り込むために、稲妻型の釘(写真8)を使用して框の一部を矧ぎ合わせる施工技術等は精度が高く、非常に優れた職人が携わったことがわかります。

写真9 合釘の挿入状況

写真9 合釘の挿入状況

写真10 板傍に施された合决りと合釘穴

写真10 板傍に施された合决りと合釘穴

施工にあたっては、現状の建具を細かく実測し、基本的は忠実な復原製作を行いました。綿板の継目には、長さ約57mm、直径3mmの竹製の合釘を、厚さ6mmで合欠きの加工を施した部分に挿入されていますが、この施工は非常に高度な技が必要です(写真9, 10)。また、矧ぎ合わせた木肌が柔らかい椹板を一面平らに鉋かけするのは、少しでも手元が狂うと板の表面に傷がついてしまいますから、とても慎重に神経を集中して行わなければなければならない作業でした。

写真11 強度を考慮して改良した框の仕口

写真11 強度を考慮して改良した框の仕口

なお、当初の建具は途中で形状の変更をしたため、框の仕口が一部削られている状況でしたが、この部分は将来的な保存を考慮して、鎌首を若干細くする、枘元部分に補強の突起を設ける等の改良を加え、構造的な欠陥を補うことにしました(写真11)。その他、貼紙の将来の張替え修理を実施する際に框の取り外しが行い易くなる細かな修正なども行っています。
この度の製作には、国の選定保存技術保持者である鈴木正さんが中心となり、国選定保存技術団体の一般財団法人全国伝統建具技術保存会の石山孝二郎会長と会員数名が参加して、伝統建具技法の継承となるよう少人数で丁寧に実施されました。またこの作業工程は、選定保存技術伝承事業の一環として記録保存されました。

写真12 金閣の蔀戸

写真12 金閣の蔀戸(実物の10分の1)

写真13 格子組子の先端には枘がつくられ、框には1mmに満たない枘穴と板决り溝が彫られている

写真13 格子組子の先端には枘がつくられ、框には1mmに満たない枘穴と板决り溝が彫られている(スケールは尺目盛り)

写真14 金閣内部の須弥壇

写真14 金閣内部の須弥壇(スケールは尺目盛り)

これまで、文化財建造物の保存修理に長年携わってきましたが、驚いたのは古い建具が修理できるということを文化財の関係者ですら知らなかったことでした。確かに、現在の建具業界を見ると建具は消耗品として扱われ、手間をかけて直すより新しいものに取り替えることが一般的になってしまっていますので、修理の出来る技術者がほとんどいなくなっているのが現状で、おそらく修理を依頼しても大半の建具屋さんには断られてしまうでしょう。このままでは、修理をすればまだまだ活かせる建具が失われてしまうとともに、伝統建具技術がますます衰退してしまうのではないかと危惧されます。そのためには、この素晴らしい技術を多くの人々に知っていただくとともに、伝統技術を生かした修理や新調製作の機会が増えることが最も大切です。良い建具を見極める目を皆さんもどうぞ養っていただき、建具をはじめとする世界に誇れるわが国の伝統建築工匠の技術を未来に伝えていきましょう。

最後に、この度の伝統建具技術の連載でお世話になりました鈴木正さんのすごい技を紹介させていただきます。これは約60年前の鹿苑寺金閣の再建工事後に10分の1模型も製作することとなり、その時作られた須弥壇と蔀戸です。模型と言いましたが、実際には枘の仕口や板决りも精巧に加工されており、建具職人さんの施工精度の高さを改めて実感することができます(写真12, 13, 14)。


 

特集 伝統建築工匠の技の保存と伝承 ~世界無形遺産登録の技術~ 「『建具製作』技術 その②」

日本の伝統建築工匠の技について、前回に引き続き「建具製作」について取り上げます。今回は具体的な伝統建具の製作技術として、日本家屋に多く用いられ親しまれてきた障子について紹介します。

1 「地獄」に組む=木の性質を最大限生かす技

地獄枘じごくほぞ

図1 地獄枘

図1 地獄枘

「地獄」は一度行くと元へは戻れない、あるいは拘束されて自由が奪われるなど、恐ろしい場所が連想されますが、伝統建築の用語で「地獄」という言葉を使ったものがあります。それは建築の組手で一度組むと二度と外せない(木を割るか切断しないと外れない)加工を表す言葉です。その代表的なものに「地獄枘じごくほぞ」と呼ばれる仕口があります(図1)。枘の先端に切り口を入れ、その先に楔を据え付けた状態で、あらかじめ奥方の幅を広く彫った枘穴に差し込んでいくと、楔が枘に設けた切り口に入り込んで枘の先端部が広がり、一度打ち込んでしまうと抜けなくなります。
この組立は職人さんにとって緊張する作業で、差し込み方がずれたりしても引き戻すことは出来ず、失敗すれば再び部材の製作からやり直さなければなりません。

図2 障子の構造と桟の仕口

図2 障子の構造と桟の仕口

写真1 左が蟻枘、右が通常の枘

写真1 左が蟻枘、右が通常の枘

この考え方を応用したもので、木を知り尽くした職人ならではの素晴らしい技が伝統的な障子の仕口(木と木を交差させて繋ぎ合わせる加工技術)で用いられています(図2参照)。
桃山時代に製作された障子を例に紹介すると、わずか1.8㎝幅の障子の中桟(枠組材以外の桟。縦桟3本、横桟13本)の両端に、枘の先端の幅を広くする蟻と呼ばれる加工を施しています。通常の枘は真っすぐ差し込まれるだけなので、その形状は単純な平枘です(写真1)。

写真2 蟻枘と框の枘穴

写真2 蟻枘と框の枘穴
枘の先の幅の方が枘穴より大きい。

写真3 枘の木殺し

写真3 枘の木殺し
枘の広がった部分をつまんで凹ませる。

写真4 枘差し

写真4 枘差し
凹ませた枘を手早く仕口に挿入する。

見ていただければおわかりのとおり、そのままでは枘穴に入りませんが(写真2)、木材は叩いたり押さえると凹み、時間が経つと元に戻るという性質を利用して、枘の広がった部分を組立前につまんで凹ませ(このような作業を木殺しと言います)、手早く枘穴に差し込んで組み上げるという構造になっています。また枘穴は蟻の形状の枘と全く同じ形に精巧に彫られており、当時の加工技術の高さがうかがえます。
さらにこの構造は、材料の加工だけでなく組立時の施工にも技術が必要です。実際組み立てる際には、枘と枘穴にあらかじめ糊(昔は米糊)が付けられますが、そうすると糊の水分を木材が吸収して早く膨らみます。多くの枘を凹ませて糊を塗って差し込む作業を手際よく一斉に行わないと、枘が膨らんでしまい組み上げきれないことも考えられますから、吸水による木材の変化状況を熟知していなければなりません。組み上がった後に、筆等で継手部分から水分を与えると、木はスッと水を吸い込んで直ぐに元通りの枘の形状に戻りますが、この作業も職人さんの長年の経験による智恵です。

■地獄組(網代組、捩子組)

写真5 地獄組

写真5 地獄組
桟を撓わせる作業は慎重さと大胆さが必要。

図1をもう一度見ていただくと、中桟が布糸のように1本おきに交互に通って組まれているのがおわかりでしょうか。桟の交差部分は合欠き(互いの材を半分ずつ欠き込んで組み合わせる仕口の工法)になっていますが、それらの欠き取る面を表裏で交互にして組み合わせると、このような形状になります。ただし、桟が細いと言っても簡単に布を編むように組めるものではありません。
組み立ての様子を写真5に示していますが、縦桟(写真では横向き)が通る幅まで横桟を交互に強く撓わせて仮の定規を嵌め込み、その状態で縦桟を通し、最後に定規を取り除いて組み立てる工法です。
慎重且つ大胆に力を加えて木を撓わせる作業は、力加減や材質のわずかな差で桟が折れてしまうことがあり、現場では真剣勝負の緊迫感が張り詰めます。
桟を撓わせる作業は慎重さと大胆さが必要。この工法は、厳選された良質の木材と高度な技が相まって可能となる技術で、まさにわが国木造伝統建築工匠の代表的な技の一つと言えます。
この型式の建具は全国的に希少で、現在では文化財修理でも製作されることがないため、残念ながら技術伝承の機会がありません。

2 その他のこだわりの技術

■鎌枘

写真6 框と上下桟の仕口

写真6 框と上下桟の仕口
鎌枘と呼ばれる形状の仕口加工

写真7 上下桟の仕口

写真7 上下桟の仕口
框への挿入方向が異なるため、鎌首の形状が上下で
異なる。

障子の上下の枠(上桟及び下桟と呼ぶ。)は、中桟と框が組まれた後に取り付けられる部材で、その両端には鎌枘と呼ばれる仕口が施されています(写真6.7)。よく見ると、鎌首のつくりが上下で異なっているのがおわかりかと思いますが、枘を仕口穴に入れ込んでいく際に、最初は鎌首を小さめにして入り易くし、最後にしっかり嚙み合って締まるようにしており、枘穴も鎌首と同様の形状で奥が細く窄まる繊細な加工が施されています。


紙决り

写真8 紙决りを施した障子

写真8 紙决りを施した障子
木部の濃い色部分は古色を付けた部分で、素木の部分が紙决り部分。1㎜にも満たない僅かな厚みを削ることにより、木部と紙の段差がない美しい仕上がりとなる。

障子の片面には和紙が貼られます。和紙は非常に薄いですが、それでもわずかな厚みがあります。その厚みを考慮して、和紙が貼られる部分を紙の厚さだけ木部を削ることを紙决かみじゃくりと言います。上質の建具にはこのような繊細な加工が施されていますが、ここに紙を貼る際には表具師の意識と技術も重要になります。障子紙は何度も貼り替えられていきますが、安易な貼り替え作業で紙決り部分を傷つけてしまうと、建具職人のこだわりが台無しになってしまいます。

普段何気なく見ている障子ですが、文化財建造物などに用いられている伝統建具をよく観察すると、昔の建具職人の意気込みや情熱が伝わってきます。現在は機械化が進み、見た目は同じような建具が安価で大量に製造されています。これに伴い建具職人が培った技を発揮できる仕事は著しく減少し、若い技術者が技を習得する機会もほとんど失われています。

このたびの障子製作の紹介に当たっては、国の「建具製作」選定保存技術者である鈴木正さんから建具資料の提供並びにご教示をいただきました。

特集 伝統建築工匠の技の保存と伝承 ~世界無形遺産登録の技術~ 「『建具製作』技術 その①」

伝統建築工匠の技とは

令和2年12月17日、「伝統建築工匠の技 木造建造物を受け継ぐための伝統技術」が世界無形文化遺産に登録されました。この登録は、日本の伝統的な木造建築を支えてきた技術が世界で認められただけでなく、日本国内の多くの人々に対して周知され、衰退しつつある伝統技術への関心と理解が深まるメッセージとして発信されたことに大きな意義があると思います。
今回登録された「伝統建築工匠の技」とは、文化財を保存していく上で欠くことの出来ない技術として文化庁が選定している保存技術のうち、建造物に関連する17種類の技術を指します。具体的には「建造物修理」、「建造物木工」、「檜皮葺・柿葺」、「茅葺」、「檜皮採取」、「屋根板製作」、「茅採取」、「建造物装飾」、「建造物彩色」、「建造物漆塗」、「屋根瓦葺(本瓦葺)」、「左官(日本壁)」、「建具製作」、「畳製作」、「装潢修理技術」、「日本産漆生産・精製」、「縁付金箔製造」です。今回は、これらの保存技術の中から、その技の特徴や保存継承の現状と取組をいくつか紹介していきたいと思います。

伝統建具とその現状

図1 建具の種類と名称

図1 建具の種類と名称(筆者撮影:以下記載のない写真は筆者撮影)

図2 継木された古材

図2 継木された古材

図3 同左の継手

図3 同左の継手(複雑な加工がされている)

わが国の伝統建築に用いられている建具には、今日一般的にみられるドアのように回転して開閉する「板扉・唐戸」のほか、上から吊り下げて跳ね上げ式で開閉する「蔀戸しとみど」、スライドして開閉する「襖・障子」など様々な形式や構造があります。日本の伝統的な住まいは、夏の暑さや梅雨の湿潤を凌ぐために通気性の良い開放性に富んだ造りになっており、先に紹介した建具も戸締りと開け放ちの両立が可能な形式として、先人が試行錯誤の上考案し、今日まで発展しながら受け継がれてきたものです。
しかし、建具は出入口や部屋の間仕切りとして用いられますから、日常的に頻繁に使用される過酷な環境にあります。しかも軽量で高い強度が要求されるため、細く薄い材料を使用しますから、その製作技術の優劣が建具の耐久性に大きく影響します。ただ表面からだけではその加工技術が見えないことが多く解体修理等によって構造が明らかになることも少なくありません。文化財建造物の中には千年以上前の建具も現存し、修理や調査によって、古くから複雑で堅牢な継手や仕口加工技術が用いられていることが分かり、その技術の高さには驚かされることがしばしばあります。
近年、建具の需要は木製からアルミ製サッシュに変わり、また木製建具も機械化され工場で大量生産されるようになりました。これに伴い伝統的な技術を用いて製作する機会が著しく減少し、従事する技能者も激減してしまいました。このことにより、非常に質の高い古い建具で、修理をすれば十分再使用できるものであっても、修理技術を持った技能者の不足から、処分されてしまうことも多々見受けられ、勿体なく残念でなりません。

建具製作の選定保存技術保持者

図 4 研修課題の桟唐戸見本を製作する鈴木正さん

図 4 研修課題の桟唐戸見本を製作する鈴木正さん
(全国伝統建具技術保存会提供)

図 5 古い材料を最大限生かすために修理の箇所 と方法を指導する様子

図 5 古い材料を最大限生かすために修理の箇所
と方法を指導する様子

建具技能者の減少は、文化財建造物を保存していく上で非常に危惧される問題です。修理をするには、まずその伝統技術が備わっていることが前提ですが、建具については先述のとおり、特に後継者の育成や技術の継承が難しくなっています。
京都市在住で建具職人の鈴木正さんは、伝統建具製作や文化財建造物の建具修理に70年以上携わってこられ、「建具製作」技術の国の選定保存技術保持者に認定されています。鈴木さんは、鹿苑寺金閣の再建工事(昭和30年(1955)竣工)にも携わられるなど、古代から近代に至るまでの様々な伝統建具の復原や修理に従事され、今日では全国の文化財建造物建具の修理指導や復原製作などに精力的に取り組んでおられます。
先ほどの説明でも触れましたが、建具には軽さと丈夫さが求められますから、木細い材料で高精度な加工技術を駆使して製作されています。文化財の建具を調べると、その材料と施工技術の高さに驚かされます。まず使用される材料は厳しく吟味され、年輪幅が細かく木目の通った良材が選定されています。年輪幅が広いと年数とともに木が痩せ(細く縮む)やすく、痩せると木組みが緩んで建具が傷んでしまい、また木目の悪いものは割損の原因になるからです。修理に際しても、補足する材料は厳しく検査され選定されます。特に鈴木さんの検品する目は鋭く、木目の通り具合など木の素性を見極めて少しでも歪みなどの欠点があれば取り替えるように指示されます。そこには、修理後これから何百年も使用し続けてもらうためにやるべきことに妥協は許されないという強い使命感が伺えます。鈴木さんは、「修理はパッと見た目ではわかりにくいが、いい仕事をして施主の方が納得して喜んでもらえることが自分自身もうれしい。そのことで建具が大切に末永く使ってもらえることにも繋がる。」と話されます。

伝統建具技術の保存団体とその活動

図 6 研修で製作した桟唐戸模型

図 6 研修で製作した桟唐戸模型

図 7 割罫引き(わりけびき)

図 7 割罫引き(わりけびき)
木材に線を引いたり薄板を割ったりする道具
(研修の最初に製作する)

図 8 研修で加工中の部材

図 8 研修で加工中の部材

図 9 桟唐戸下面の格狭間文様加工中

図 9 桟唐戸下面の格狭間文様加工中
(正確な作業を行うための道具も作る)

図10 完成した格狭間文様

図10 完成した格狭間文様

一般社団法人全国文化財建具技術保存会は、全国から約100社の建具業者が参加して平成14年に発足し、同20年に国の選定保存技術保持団体として認定されました。会の目的は、伝統的木製建具技術の保存・継承と向上、後継者育成、文化財建造物の保存修理事業への寄与を掲げています。発足時の参加者の中には、販売と建て込み仕事が中心で建具製作の経験が全くない人も相当数おられたようです。活動をしばらく進めていく中で、研修では当初修理現場の見学や講義等が大半であったことから、知識の習得はあるものの実際の技術向上を図る実務研修の必要性が望まれてきました。一方参加者の中に、保存会に所属していることで知識と信用を得て受注が増えることのみを求めている人が少なからず見受けられることも顕在化し、保存会の将来の進むべき方向性について大きく議論されました。
そこで開始されたのが、桟唐戸製作の実習研修です。選定保存技術保持者の鈴木正さんが実際に修理された文化財建造物の桟唐戸を、2分の1の大きさで新調製作するという課題の実技です。この研修では、罫引けびきと呼ばれる線を引く道具作りから始まり、墨付け、加工、組立と進んでいきますが、実技研修を開始して徐々に本当に技術を学びたい人とそうでない人が明確となり会員も淘汰されていきました。また研修内での加工はすべて手作業で行うため、日頃機械で作業することが多かった人達には、当初その意義が理解できなかったようですが、鈴木正さんの技術を目の当たりにして、機械では成し得ない高度で緻密な技に出会い、また作業内容を厳しく指導されることにより、改めて建具技術の奥深さを認識し、現在では緊張感のある熱心な研修が行われています。
この桟唐戸の製作研修においては、熟練者も若手も関係なくすべての研修生が同じ作業(熟練度や参加回数により工程は同一でなくなります)を同じ部屋で行っています。建具職人の大半は、日常の仕事場では個人あるいは数名程度のみで作業をしており、また機械作業が主ですから、人の手仕事を見たり教えてもらったりする機会がほとんどありません。したがって、この研修に来て技術を学ぶだけでなく、技術を盗むことや反対に教えることも会員相互の中で行われるようになり、技術習得とともに技術伝承の場としての機能も生まれています。
桟唐戸製作が完了し伝統的な加工技術の習得が認められれば、次に古い建具の修理研修へと続きます。文化財修復は、伝統技術の基礎がしっかり備わってこそ可能な技であること、そして技は直接見て盗むことが重要であることを、若い技能者さん達はこの研修を通じて肌で感じてもらえているのではないかと思います。


 

京都の文化遺産を守り継ぐために 「京都五山の送り火の保存と継承」

はじめに

昭和35年頃まで京都三山で灯されていた送り火「大文字・妙法・船形・左大文字・鳥居形松明」の五つが京都市の提案で連合会を設立して60年に成ろうとしています。各山の送り火には様々な成り立ちがありましたので設立当時も大変だったと思います。
それでは、各山の送り火の保存と継承、課題等についてお話いたします。

1. 大文字送り火

大文字送り火 『花洛名勝図会』

大文字送り火 『花洛名勝図会』(元治元年)東山之部 四
(以下筆者撮影)

大文字保存会は、明治維新当時の廃仏棄釈によって旧浄土寺村「村民」に寺領地「相国寺」の土地家屋はじめ田畑・山林が払い下げられた事で、それまでの寺領地での行事までも受け継ぐ事になり、その中には送り火行事も含まれていました。
江戸時代に東山山荘が復興されて相国寺に下げ渡され、名称も東山山荘から足利義政公の法名慈照院義政から「慈照寺」と名称を変えられ、足利義政公の菩提寺とされたようです。江戸時代中期の頃より慈照寺裏山「月待山」の上で大の文字を灯すようになったようです。当初は手松明を寺の境内の住人に持たせて山に登らせ、過去に義政公の嫡子義尚公が病死されたときに義政公が横川和尚に嫡子を弔う事を相談されて、和尚によって東山山荘から月待山を望む如意ケ嶽中腹に大の文字を和尚の筆画によって指示し白布を張らせた跡に立たせて焚き上げたのでしょう。その後は切り竹を山腹に立ち付けその先に薪を差し掛け、また、石柱の上に立て掛けたりしていたが、山腹に棚田の様に火床を作り井形に組み上げるようになりました。これが「現在の原型」です。
但し、明治・大正期以前は慈照寺の行事であって、現在の様に先祖供養になったのは日清・日露戦争で身近な人たちが戦死された事により、送り火事態を庶民の送り火としたのではないかと思われます。現在の大文字山「浄土寺七廻り町」が慈照寺境内で暮らしていた村民に払い下げ通知が届いたときに、当時の庄屋はじめ名主さんたちが京都府知事に払下げ辞退の申請をされたのですが、即座に却下されて帰ってこられたようです。払下げ後は山林12haを村民共有林として登記し、送り火はその時の登記名義人(48名)によって銀閣寺保存会として継承する事になりました。
赤松や松葉は共有林で伐採採取し、小麦は村人全員で畑で作付けし、刈取りも村人で行っていました。昭和20年頃までは半農・林の村生活であったので、祭りや寺行事には村民全員で行っており、各行事に対しても現在と違って一致団結する事にあまり抵抗感がなかったのでしょう。送り火行事に関しても、私自身も祖父や父だけでなく村の先輩たちに10月の村祭りが終わると11月に畑に駆り出されて小麦の作付けを手伝わされます。12月から翌年の2月頃に山へ赤松の育成作業、伐採作業の手伝い、松葉の集積作業を教えられました。中学生ぐらいになると力仕事をさせられました。2月頃に伐採した赤松木を3月頃から玉切りにして下木を並べて積み上げ2・3週間林内乾燥して置く、その後4月から5月頃には大割り・小割り作業をして薪に仕上げて往く、6月から7月の梅雨入りまでに倉庫に収納する作業と小麦の刈取り作業を終えます。

資材の準備の様子

資材の準備の様子

このような作業も第二次大戦後の昭和25年頃から徐々に大人の仕事がサラリーマン「給与生活」になり、田畑はアパート「マンション」駐車場に変貌して往きました。山には人が入らなくなって松林も雑木林に変貌し、送り火に使う赤松も伐採採取するだけで植栽する事を忘れていた為、平成12年頃には共有林内での赤松採取は出来なくなりました。そして平成15年ごろから此れまでに約1.5haに赤松850本を植栽し、現在は育成作業を行っていますが、数年前からマツノザイセンチュウ「マツノカミキリムシ」による松枯れ被害で多数が枯れてしまいました。しかし、その後も薬剤注入など予防をしながら約250本を植樹して30年後を楽しみにしています。
後は後継者と執行資金の問題ですね。

令和2年度の大文字送り火の様子。

令和2年度の大文字送り火の様子。新型コロナウイルス感染症拡大により規模縮小の上実施。

これまでは旧村社会で各家の長子継承として伝承されてきましたが、仕事関係などで核家族世帯が多くなり、また少子高齢化と子供が姉妹であって各家に後継者が定まらなくなってきています。10年単位で実施している保存会の後継者調査では、10年前の調査時は会員数が48家族でありましたが、今回は42家族に減少しており、5年後には6家族が退会すると伺っています。原因は子供がいない家庭であって親族等に相談されているようですが後継者は未定との事です。
また、送り火執行の資金調達も護摩木奉納金や記念扇子などを販売していますが、割り木資材や桧護摩木資材の高騰で将来的には山の整備費や管理費だけでも多額の費用が嵩む為に如何に寄付行為金を求めるか、また、クラウトファンディングなどを利用する事も考慮して行かなければなりません。
多くの方々から伝統行事の継続を要望されます。私たちは出来うる限り京都に数百年続いたご先祖を送る送り火を灯し続ける覚悟ではあります。しかし、今回の新型コロナウイルス感染症拡大の影響により規模を小さくしても送り火を灯しました。今後、様々な障害にも考慮して市民の皆様と共に、ご先祖を敬い、必ず西方浄土「冥府」に送る火を焚かせて頂きます。
大文字保存会としては以上の様に継承していますが、以降の伝承はまだまだ課題を残しています。

2.松ヶ崎妙法送り火

松ヶ崎立正会さんの「妙」は萬灯篭山麓の西五町(53世帯)によって火床103基に火を焚かれています。また「法」は大黒天山麓の東一町(20世帯)によって火床68基に火を焚かれています。
事前作業は7月初旬から登山道や火床の整備に73世帯の会員によって執り行われます。資材の赤松は毎年春先に林業者に委託し、8月初旬には役員宅に納品され、その後各会員に配分され、送り火点火時まで会員宅で乾燥保管されます。点火当日、早朝に会員によって赤松は持ち場の火床に運び込まれ、正午までに組み上げを完了しておきます。点火時間まで自宅で待機され、点火時間前には山頂の火床に集合し、点火時間になると住職の読経が始まり火床に点火されます。
会員は立正会の信徒さんで組織されている事から、継承者は充実している事と思われます。

3.船形萬灯篭送り火

船形萬灯篭保存会は西方寺さん所有のお山「妙見山」で船形を捩った108の火床に火が焚かれています。開祖慈覚大師円仁さんによって「国家安泰・五穀豊穣」を祈願して灯されたようです。
火床は79ヶ所あって、会員の組織は西賀茂の総門町はじめ鎮守庵町・今原町の三町内に住まいする世帯で構成され、その家族の18歳以上の若中18名とそれ以上の中老36名が点火作業に従事されています。
事前作業は松ヶ崎妙法と同様ですが、8月1日に西方寺の総門に高灯篭が掲げ立てられます。その後お寺の門前等で護摩木奉納の受付をされ、点火当日に役員によって山麓に運び込まれ、会員によって各火床に配分・組み上げ作業をされます。点火時刻になると、役員が打ち鳴らす鐘の音に合わせて18名の若中が決められた火床に走り、79ヶ所の火床すべてに火が焚かれます。

4.左大文字送り火

左大文字保存会は衣笠街道近くの地域寺である浄土宗西山派「法音寺」に於いて送り火の灯明を頂いています。
毎年7月になると業者に委ねている赤松が搬入されてきます。搬入後、保存会員の手によって小割りされ薪に仕上げ、倉庫で乾燥させておきます。8月に入ると青竹を切り出し、灯明道中用の大松明を作り上げる作業が始まります。送り火前日から金閣寺境内で護摩木奉納の受付を行い、点火当日の早朝に山頂へ搬送し、会員全員で火床まで運び上げ組み上げ、作業後に一時下山して各家庭で待機します。夕刻に役員・会員は法音寺に集合し、点火1時間前には中庭に移された灯明台からまず大松明に移され、その後会員が持つ手松明約60本にも移されます。同時刻、衣笠街道沿いの会員宅前(24ケ所)には篝火が焚かれています。年男が担ぐ大松明を先頭に約60本の手松明を持つ会員が続き、送り火を灯す大北山山頂を登って往かれるのです。点火時刻になると保存会長が打ち鳴らす太鼓によって各火床に火が焚き上げられます。
左大文字の送り火は化野などで葬送された方々の霊を弔ったであろうと伝わっています。

5.鳥居形松明送り火

大文字送り火の点火の様子

大文字送り火の点火の様子

鳥居形松明保存会は嵯峨鳥居本町「旧葛野郡」の地域住民によって行われています。京都三大葬送地の化野に弘法大師が立ち寄られ、遺棄された死者を祀るために如来寺「後の化野念仏寺」を建てられ、その供養に賛同した葛野郡村民有志12名が手松明を持って萬燈会を行ったようです。
しかし、その後の鳥居形が記されているのは慶長8年(1603年)舟橋秀賢ひでかたが「山々に火を焼く見物に東河原に出でおわんぬ」と日記に書いていたり、万治3年(1660年)の洛外図には「大文字や妙法と共に鳥居形松明が描かれています。現在の鳥居を描いて灯したのは江戸時代初期の事で、化野での萬燈会を曼荼羅山に一の鳥居を捩って鳥居を描き、葛野郡村民によって火を焚かれたのでしょう。ただし、火床で薪を突き立てる手法は古来の手松明を差し上げた名残かと思われます。
会員数は45名ですが、点火執行者は20数名の若者によって行われるために、夕刻山頂に集合し持ち場の火床確認や順序の確認をして置きます。点火時間になると会長が打ち鳴らす太鼓を合図に親火で炙り灯された薪を肩に担ぎ、一目散に走り火床に差し込んで行きます。これを遠望している庶民は「走る送り火」とも呼んでいます。鳥居形が赤々と燃え上がる時刻になると、最初に焚かれた大文字をはじめ、妙・法、船形、左大文字は火を落としています。

おわりに

このように各山の送り火は独自に保存・継承しています。京都五山送り火連合会としては、お寺・信仰・地域性などそれぞれ継承の仕方が違っていますが、庶民の安泰や無病息災・先祖供養など世の中が平穏であることを願って灯される火であることは間違っていないと思います。これからも後継者に対してすべての人々の願いを灯し続けるように伝承して往きます。

特集 京都の文化遺産の保存と継承 4 「京都市指定有形民俗文化財 伏見の酒造用具」

はじめに

写真1  濠川からの月桂冠内蔵

写真1 
濠川からの月桂冠内蔵 
月桂冠大倉記念館 提供

伏見の酒造業は、昭和30年代後半から導入されはじめた機械化により、従来の酒造用具は急速に姿を消した。今回紹介する京都市指定有形民俗文化財「伏見の酒造用具」6,120点(指定年月日:昭和60(1985)年6月1日 月桂冠株式会社所蔵)は、酒造業の近代化以前のものを中心に、桶、樽つくり用具や、印ごも等の出荷用具、信仰儀礼用具、杜氏をはじめ蔵人たちが寝起きする会所場の道具を含めて、酒造にかかわる工程のすべてにおよんでおり、かつて伏見で行なわれていた酒造りを知るうえで貴重な資料である。これらの資料は、月桂冠大倉記念館(京都市伏見区南浜町247番地)で展示・収蔵されている(写真1)。
酒造りは各蔵において「杜氏」を頂点とした技能集団である蔵人によって行われ、その技量は、酒の出来栄えや味に大きく影響する。杜氏は、自身のもとで作業を行う蔵人を連れ、農村や漁村から農閑期、漁閑期に蔵元に赴き、酒造りに携わるのである。その季節は、ちょうど酒造り(寒造り)に適した時期でもある。月桂冠では、山内(秋田)・南部(岩手)・越前(福井)・丹波(兵庫)・但馬(同)・広島と、最大で六流派の杜氏が在籍し、それぞれの蔵で酒造りを行っていた。そのため、「伏見の酒造用具」とはいえ、各流派が行っていた酒造りに関する道具が収蔵されており、同じ名称でも微妙に形の違いがある。しかし、名称に大きな違いがないことが興味深く、その量と種類の多さは、作業の内容によって使い分けられているためである。
現在、国指定重要有形民俗文化財として、「灘の酒造用具」 566点(菊正宗酒造所蔵 兵庫県神戸市)、「肥前佐賀の酒造用具」 2,334点(大平庵酒造所蔵 佐賀県多久市)、「南部杜氏の酒造用具」 1,788点(南部杜氏伝承館所蔵 岩手県花巻市)がある。また各地には、県指定や市町村指定の酒造用具があるが、月桂冠の6,120点という指定点数は、類を見ない収蔵点数である。しかし実際は、これ以上の点数を保有している。

1.酒造工程に見る酒造用具

酒造用具は、それぞれの工程ごとに細分化され、文化財指定では、A~Pに分類している。同じ形の道具が別の作業工程で使われているものもあり、特に桶類については多く見られる。一方、転用がなされていたのではないかと思われる用具もあり、常に新しい用具を使う工程から、それを必要としない工程へと合理的な序列があったとも考えられる。いずれにしても工程ごとに決まった道具があり、兼用はされていなかったようである。

A:精米工程 32点
玄米の外層部を削り取って、白米にする工程をいう。これによって酒造に適さない蛋白質や脂肪分などを取り除く。
B:水汲み工程 22点
酒造りに最も重要なのは、仕込水である。良質の水が沸く井戸は蔵人たちによって管理されていた。この工程で用いられる道具に「ぐり桝」がある。ぐり桝は、水を汲みながら計量するために酛(もと)つくりや醪(もろみ)つくりの工程でも同じ形のものがある。桶の把手が円筒形で、自在に回転することができることによって、常に水平を保つため、正確な容量を計りながら「担い桶」に入れることができる。
C:桶洗い工程 26点
「仕込桶」や「貯蔵桶」など、木製の桶の洗浄は、酒造りにとって重大な影響をおよぼす作業である。これを怠ると、酒が腐ってしまうからである。大桶に熱湯を入れ、蓋をして“湯ごもり”した後、「ささら」を用いて洗浄する。この工程を何回も繰り返し行った後、庭で天日乾燥いわゆる日光消毒を行うのである。
D:洗米・漬米工程 52点
白米を洗い、表面に付着している糠などを取り除く工程である。洗米には、両手を使用して巴形に洗う“手洗い法”と、踏桶を用いて素足で洗う“足洗い法”がある。洗い終えた白米は、呑穴(のみあな)をあけた底部内側の隅に金網を張って水を流す際に米が一緒に流出しないよう、工夫された「漬桶」で米を漬ける。それぞれの米の産地や品種、精白度、収穫年度により、吸水時間が異なるため、水に漬けた後、“水切り”には、熟練の技術が必要であり、その際に「水切り札」に時刻を記す。
E:蒸し米用具 169点
水切りをした白米を「甑(こしき)」に入れ、「大釜」で沸騰させた蒸気で蒸し上げる。この蒸気を均一に回すため、甑の底に空けた穴に「さる」を置く。甑には、保温を目的として筵(むしろ)と縄を巻き付けているが、杜氏の流派で異なる美しい飾り縄が施されている。蒸しあがった米は、「飯試(めしだめ)」で運び、杜氏や頭が、「櫂割(かいわ)り」で「筵」に広げ放冷を行う。
F;麹作り用具 611点
「麹室(こうじむろ)」に冷ました蒸し米を広げ、もやしと呼ばれる種麹を散布し、麹菌を付着させる。その後、「盛桝」を用いて「麹蓋(こうじぶた)」に入れ麹菌の繁殖や育成をさせる。
G:酛つくり用具 185点
醪(もろみ)つくりの元になるものを酛(もと)といい、いわゆる酒母である。優良な酵母を大量に培養したものである。30℃くらいに冷ました蒸し米を「酛半切」に入れ、「麻布」で包み込んでしばらく保温したのち、そこに麹と水を入れ、3~4人で「酛櫂(もとかい)」を用い、蒸し米を摺りつぶす。摺りつぶした酛は、「酛卸桶(もとおろしおけ)」に入れ、育成させる。酛の加温や糖化をはかるため、湯を入れた「暖気樽(だきだる)」を酛卸桶の中に入れ、温度の調整を行う。暖気樽や「酛御桶」、「半切」、「櫂」などに付着した酛や醪を掻き落とす際に用いる「箒(ほうき)」は、蔵人たちがコウヤボウキの枝を束ねて作った。
H:醪つくり用具 189点
醪(もろみ)とは、約7%の酛の上に冷ました蒸し米と水を加えて混ぜ合わせ、醗酵させるものである。蒸し米のでんぷんが麹菌によって液化ならびに糖化され、この糖を酵母菌の働きによってアルコールに変化する二つの作用が同時に並行して行われる工程である。醗酵が盛んになると、大量の泡が発生する。泡が「大桶」や「三尺桶」からあふれ出ないよう、桶の上縁に「泡笠」を継ぎ足し、同時に「泡消し」を用いて泡の流出を防ぐ。
I:酒しぼり用具 3206点
醗酵が完了した醪を「きつね」や「たぬき」などの小型の桶で「酒袋」に入れ、「酒槽」の中に積み上げて搾る。酒袋の中のもろみは最初は自重で自然に絞られるが、袋の中身が少なくなると、「押蓋」を乗せ、その上に「りき」や「盤木」を置き、圧力をかけて搾る。「酒袋」は、木綿に柿渋加工を施したものである。「酒槽」から出てきた酒は、肩部より下を地面に埋められた「垂れ壺」にたまる。
J:滓引(おりび)き用具 17点
酒槽から出た酒は、まだ白く濁っている。それを細桶に入れ数日間放置し、底に混濁物を沈殿させ、上部の上澄み酒を別の桶に移す。上澄み酒を移す際にも沈殿物が混じらないよう、「すずめ」を用いで流量の調整を行う。
K:夏囲い用具 123点
濾過後の新酒を殺菌するため、熱湯を入れた桶の中で管をコイル状にした「蛇管」に酒を通しながら加熱する。62℃~ 65℃に加熱し、「貯蔵桶」に入れる。火入れした酒は「貯蔵桶」に蓋をして密閉するため、桶と蓋の間を和紙で目張りする。各貯蔵桶の酒は常に品質管理のため、「検酒びん」に入れ、確認する。
L:蔵内用具 69点
一つの道具で特化した工程で用いられるものではなく、酒造りの中で常に用いられるものを、文化財指定では蔵内用具と分類している。大型の桶などを移動する際に用いられた「阿弥陀車」や、様々な工程で用いられた「担い桶」、また、「蔵あんどん」や「庭箒」である。
M:会所場用品 2点
杜氏をはじめ蔵人たちが寝起きする場所を会所場といった。会所場は、休憩や食事を行う場所でもあったので、「箱膳」や「飯台」がそろえられている。
N:印こも等出荷用用具 1214点
出荷用の酒樽に巻く「菰」に商標などを渋塗の「型紙」を用いて「丸刷毛」で色や文字を刷り込んだ。印を押す場所によって、「朱印」、「うた」、「うた下」、「まくら」、「中押し」など、それぞれ決まった名称がある。「木箱用」としては、「焼き印」や「刷り込みの型金」がある。
近辺への出荷のには「籠」を用いており、その際壜(びん)の割れを防ぐため麦藁で「苞(つと)」被せていた。「酒壜」には、初期の「口金付き清酒壜」や実用新案登録を持つ「駅売り用の猪口付壜」がある。また、出荷作業や販売に従事していた人たちが着用する「前掛け」や「印半纏」は、時代によって、デザインが異なっている。
O:桶・樽つくり用具 197点
酒造りの工程や出荷にはさまざまな種類の桶・樽が用いられていた。伏見においては、近隣の濠川沿いに桶屋や樽屋が軒を連ねていた。酒樽の場合、清酒特有の香りを持たせる必要から、杉の中でも香り、色、木目がよい、奈良県の吉野杉が用いられた。吉野からは規格に沿って板として切断され束になった樽丸を購入し、樽職人によって樽に仕上げられる。
樽と桶は、蓋の有無のほか、樽は板目を用い、桶は柾目といった相違点があるものの、使用する道具については、同じ形のものも多い。

写真2 酒林

写真2 酒林 月桂冠大倉記念館 提供

P:信仰儀礼 6点
酒蔵では、入口に杜氏によって作られる注連縄を張り、軒には酒林が飾られている。このように酒造りに関わる人たちは信仰心が篤く、酒蔵内の神棚では、神札が納められている。京都市の松尾大社、奈良県の大神神社が名高く、「酒林(さかばやし)」(写真2)は、三輪明神の杉の葉を球状に束ねたもので、毎年新酒ができたころに取り換えられる。

2.酒造用具の名称について

酒造用具には、動物や生き物、食物の名前が付いたものがある。きつね、たぬき、さる、さるのべべ、ねこ、かえる、つばめ、すずめ、とんぼさし、きゅうり、ごんぼ、かぶら櫂、まんじゅうなど、それぞれの道具の形状をうまく表現している。これらの名称は、伏見に限らず、各地の酒造用具にも用いられている。

写真3

写真3

〇きつね(写真3)
酒袋にもろみを詰めるのに用いる。口の部分が注ぎやすいよう細く工夫されており、また口の方が高くなっているものもある。内側の両側(場合によっては片側)の上部に、握りやすいよう突起した部分がある。きつね一杯が酒袋一杯の分量となる。


写真4

写真4

〇たぬき(写真4)
きつねと同じ用い方をする。


写真5

写真5

〇さる(写真5)
蒸米を行う際に、甑穴から上ってくる蒸気を甑内に均等に分散させるために、下部の中央部から放射状に排気口(溝)が出ている。その角度や数はさまざまである。上部は山形状になっている。


〇さるのべべ
甑桶で米を蒸す際に、さるの隙間に米粒が、入らないよう、さるの上にかぶせる粗目の綿布。


写真6

写真6

〇ねこ(写真6)
酛造り等の作業をする時、足場用に使用する


写真7

写真7

〇かえる(写真7)
桶洗い、蒸し取り、醪仕込などで使用する傾斜のついた足場台である。傾斜面に垂直にすべり止めが付いている。大きな桶に上る際に用いる。使用する桶の大きさにより、蛙の大きさも変わる。


写真8

写真8

〇すずめ(写真8)
滓引き工程で用いられる。細桶の上呑口に差し込み、上澄酒を半切に受ける際に呑口から出る酒の量の調節を行う。


〇とんぼざし
ヒズミのない8cm角程度の横棧にT字型の目盛がついている。桶の中央の両縁に横棧を掛けて液面までの距離を計測することによって中の酒の量を計る。


写真9

写真9

〇きゅうり(写真9)
上部は山形、下部に曲線の溝がある。湯杓が釜縁に接触して損傷するのを防止するために用いる。釜の湯を汲み出す湯杓の柄が、釜縁に直接当たらないよう釜縁にはめる。


写真10

写真10

〇ごんぼ(写真10)
火入れした後の酒を入れた貯蔵桶に蓋をして、蓋と桶の隙間をふさぐために反古になった和紙を細長い棒状にして、桶の凸凹の箇所に下帖りし、その上から目張紙をふのりで張り付ける。


写真11

写真11

〇つばめ(写真11)
貯蔵用として桶と蓋を密閉させるために目張紙を張る。糊の付いた目張紙を乗せて桶輪に引掛ける。


〇かぶら櫂
醪仕込の様々な工程で、攪拌のために用いられる。


〇まんじゅう
円形の厚板(材)の中心に、蒸気の通る穴があいており、小量の米を蒸す際に、釜の上にまんじゅうを置き、小型の甑を乗せて用いる。

おわりに

月桂冠株式会社は、いち早く近代的な酒造りに移行し、それまで使われてきた道具類は使わなくなった。一般的には道具は使えるまで使い,工程により使えなくなったものから新調するというサイクルで あるが,古式の道具が使用可能な状態でありながら,あえて衛生面を配慮し,道具の素材を新しくした。そのため,各工程に使用された道具がまんべんなく残っていた。
衛生面や品質向上への対策の一つに,昭和2年の鉄筋コンクリートの醗酵蔵「昭和蔵」の建造がある。木造蔵よりも異物の混入の心配が少なく,さらに機械による空調を使用することで,醗酵に最適な環境を作ることが出来た。また,それより以前には、業界のトップを切って防腐剤無添加の壜詰に挑戦する。全国に販売ルートを持つ酒問屋の明治屋の要請で,防腐剤のサリチル酸の添加を廃止する。明治政府は,内務省令で,サリチル酸の食品への添加を明治36年に禁じたが,清酒のみは,暫定的に明治44年まで猶予された。これは,明治政府の歳入の約3割が酒税であったことに対する配慮であるが,暫定使用期限は少しずつ何度か延長され,大正3年に無期限延期とされた。当時の月桂冠のポスターには、「絶対に防腐剤を含まず」の文言が必ず入っており、内務省令の最初の使用期限である明治44年を遵守することの出来たただ1軒の酒造家であった自負が窺える。その後、健康志向の高まりに対応して日本酒造組合中央会として,昭和44年にサリチル酸の使用を自粛して今に至る。
このようにいち早く衛生面や品質向上に取り組んだ結果、京都市指定有形民俗文化財「伏見の酒造用具」6,120点を所蔵する月桂冠であるが、昔の酒造りの技術も継承している。冬のみの出稼ぎの杜氏制度が維持できなくなることを見越して,昭和50年代には、全国の主だった流派の杜氏を雇用することで,昔からの技術の伝承を図った。平成23年3月31日,杜氏制度は終了するが,杜氏の技術は社員によって受け継がれ,今も内蔵では社員により手作業の多い酒造りを行っている。

本稿の酒造工程や道具の使用方法については,『京都市文化財ブックス第2集「伏見の酒造用具」』(1987年発行)京都市文化観光局文化観光部文化財保護課を参考にした。
令和2年8月1日現在、月桂冠大倉記念館は改修工事中につき施設見学はできません。

特集 京都の文化遺産の保存と継承 3 「京都の剣鉾」

はじめに

「剣鉾」が巡行する祭礼行事は、京都とその周辺に多く見られる地域色豊かな貴重な民俗文化です。剣鉾は、祇園祭の山鉾と同じく御霊信仰における呪具であり、また神社の祭具ではなく、鉾町や鉾仲間といった氏子のなかの一部の集団で護持され、巡行に際しては、鉾差しを他所から招くというものです。このような典型的な「剣鉾のまつり」は、上御霊神社、下御霊神社、岡崎神社、須賀神社など、御霊をまつる神社の祭礼が発祥と考えられます。
しかし、本来の目的であった悪霊を鎮める御霊信仰だけではなく、厄神を追い払うための神座として、用いられるようになりました。また、京都の市中や近郊の村落に広がっていったことには、高く差し上げられた棹の先につけられた錺、そして剣がしなりながらキラキラと光り、リズミカルに鳴る鈴、たなびく吹散といった華やかさにあこがれて、自分たちの集落に持ち帰ったものとも考えられています。本稿では、平成22~25年度にかけて、京都市が文化庁の補助を受けて実施した剣鉾調査の成果の一部を紹介します。

1.剣鉾の構成部材について(図1参照)

図1 剣鉾の部材

図1 剣鉾の部材

「剣鉾」は、剣の形をした鉾で、長さ5~6mの棹の先に額や錺(かざり)とともに取り付けられています。剣は、銅と亜鉛の合金である真鍮製のものが多く、地域によって異なりますが、おおよその長さは1.2m~1.5m、厚みは、薄いところで1㎜、厚いところで4~5㎜となっています。剣先が菱形に張り出し、薄く平坦な剣身の中央には縦にスリットが入っています。剣と棹の間には錺受として、社号を表した額やご神体を配置することが多く、その左右には、様々な意匠の錺金具が取り付けられています。剣をきれいにしならせる大切な部材である剣挟は、50~60cmの竹や樫の木で作られており、2本を1セットとし、剣尻部分を裏表の両面から挟み込みます。剣の表と裏、剣に対してどれだけ出すかは、決まった数値はなく、鉾差したちが現場で調整します。それらを受金でまとめ、棹に差し込みます。
錺金具と剣、剣挟の固定には赤や紫に染めたひもを用いますが、これも固定の強弱は剣挟と同様、鉾差しの技量の一つとなってきます。
棹には吹き散りという祇園祭の山鉾の見送りにあたる長い布を下げ、さらに鈴をつけて、棹に取り付けた鈴当てに当てながら巡行します。その重量は30kgにもおよびます。

2.剣鉾の差し方について

写真1 東山の鉾差し

写真1 東山の鉾差し

写真2 梅ケ畑の鉾差し

写真2 梅ケ畑の鉾差し

写真3 嵯峨の鉾差し

写真3 嵯峨の鉾差し

写真4 鞍馬の鉾

写真4 鞍馬の鉾

これらは、「鉾差し」という特殊技能を持った集団によって取り仕切られていました。今でもその一部を垣間見ることができます。現在、京都市内の剣鉾は、鉾の差し方により東山、梅ケ畑、嵯峨、鞍馬、その他に分けることができます。
東山は、前後方向に剣がしなる差し方で、特に前方に大きくしなり、剣のしなりと鈴が同期している動きが特徴的です。現在では、大豊神社、八大神社、須賀神社、新日吉神社、下御霊神社、吉田神社今宮社、西院春日神社、北白川天神宮、粟田神社が該当します(写真1)。梅ケ畑は東山と同様、大きくしならせますが、東山と違うのは、着流し姿であることや草履ばきであること、足を交互に踏み出すなど、普通に歩くように差すということが特徴です。平岡八幡宮の一之瀬町、平岡町、中島町、善妙寺町が該当します(写真2)。嵯峨では、棹を中心として、身体ごと左右に回転させ、棹は抱きかかえるように体に密着して差します。足の運びは、飛び跳ねるようにステップを刻んだり(大門町、中院町、鳥居本町、四区)、すり足で体を沈み込ませるようにしたり(天竜寺地区)違いはありますが、剣のしなりと鈴は同期せず、錺の両端につけられた房が棹の回転による遠心力で水平方向に広がるのが見どころです。嵯峨祭(愛宕神社・野々宮神社)が該当します(写真3)。鞍馬は、四本鉾と一本鉾が存在します。四本鉾とは、鉾頭が付くオヤバシラと左、右、後の3本がそれを支えます。オヤバシラには、下から50cmくらいのところに水平方向に横棒が取り付けられており、それを両手で持ち、棹を斜め方向に肩に当てて巡行します。由岐神社(鞍馬の火祭)の僧達仲間、名主仲間、上大惣仲間、中大惣仲間、下大惣仲間が該当します(写真4)。
一方、鞍馬火祭りに見られる一本鉾(中大惣仲間、下大惣仲間、大工衆仲間)はその他の差し方で、棹や剣が他の地域に比べ短めで、差し革(差し袋)を用いずに両手で持って巡行します。


3、剣の材質について

剣の多くは、真鍮という銅と亜鉛の合金で作られています。銅が多いと柔らかく、亜鉛が多いと硬い仕上がりとなります。剣先をしならせながら巡行するという剣鉾の目的から見ると、柔らかければ差した際にしなりすぎて戻る力がなくなり、逆に硬いとしなりが出ません。筆者が蛍光エックス線分析により、剣の金属配合比を分析したところ、多くの剣は、30~40%の亜鉛を含んだ真鍮が用いられていることが分かりました。この割合は、真鍮として最大の延展性を持ち、色も金色に輝いて美しいものとなります。
このように鉾に用いられている真鍮の銅と亜鉛の配合比を分析することで剣の材質や延展法と、差し方との関係を明らかにすることができます。さらに以前は、鉾差しによる巡行が行なわれていた地域でも現在では居祭りとして、室内に飾るだけになった地域も少なくありません。しかしこれらの中には、当初より、居祭り用として作られた剣鉾や、曳車に載せたり、舁いて巡行することを前提に作られた剣鉾もあると考えられ、その差異も今後の調査から明らかにすることが期待されます。
真鍮は、銅と亜鉛の合金で、銅は古代より使用されてきた金属ですが、亜鉛については、融点が419度と他の金属より低く、923度で沸点に達します。そのため、亜鉛を単体で精錬することは難しく、その技術は15世紀のインドで確立されたといわれ、17世紀になり中国で量産的に亜鉛製造が始まりました。また、銅の融点は1084.6度であることから、液状の銅に亜鉛を投入した時点で、亜鉛は蒸発してしまうということからも、真鍮生産が難しいものであったことがわかります。京都においては、延宝6年(1678)の『京雀跡追』や、元禄2年(1689)の『京羽二重織留』に「しんちうや(真鍮屋)」、「真鍮問屋」と紹介されていることから、江戸中期に入るころには、吹屋による生産体制が整っていたと思われます。
剣自体に製作年が刻まれているものは、筆者等が調査したところ、85本ありました。一番古いものでは、延喜8年(908)の北白川天神宮の壱ノ鉾(黒鉾)ですが、これは鉄製で、使用したことは確認できていません。ちなみに300本あまりの調査を行った中では、唯一の鉄製の剣でした。真鍮製では、正保3年(1646)の長谷八幡宮の扇鉾でしたが、この年号は茎に刻まれています。茎部分は銅に鍍金がされており、真鍮製の剣部分とは明らかに材質が異なり、剣が後補として茎に接合されている可能性が考えられます。
次に古いものは、明暦2年(1656)の北白川天神宮の弐ノ鉾です。しかし、茎に刻まれた製作年は、錺職人が、製作の際に刻んだものとしては特殊な書体であり、後から刻まれたものではないかとも考えられます。
実際に剣に刻まれている年号は、18世紀中ごろから突然多くなります。これは銅と亜鉛の合金を作り出す技術が確立し、真鍮が日本国内で安定供給され始めた年代と重なっています。京都では前述のように17世紀後半には、真鍮屋や真鍮問屋があり、剣に刻まれた年号からもそれらをいち早く祭礼用具に取り入れたことに、京都の町衆の力が感じられます。

以上、京都市の調査事業では、民俗学、民具学、文献史学等の専門家に加え、筆者が専門領域の一つとする保存修復の視点からも科学的な分析を行うことで、剣鉾のまつりを多方向からとらえることができたと思います。

公益財団法人京都市文化観光資源保護財団が設立50周年を迎えられました。財団では、これまで有形無形にかかわらず、様々な文化観光資源の保護に力を注ぎ、支援されてきましたことに、厚く御礼申し上げます。
今回ご紹介しました剣鉾のまつりのような、町衆が守り継承してきた民俗文化にも焦点をあて、保護される取り組みにも引き続きご支援いただきます様、よろしくお願い致します。
なお記念事業としまして、12月15日(日)ロームシアターで「都の賑わい 祭 神人和楽のまつり『祇園祭』が開催されます。記念公演とともに剣鉾も実演されます。

参考文献:
『京都 剣鉾のまつり調査報告書』1論説編・2民俗調査編・3資料編 京都の民俗文化総合活性化プロジェクト実行委員会編 2014年
『京都市文化財ブックス第29集 剣鉾のまつり』京都市市民局文化芸術都市推進室 文化財保護課 2015年
『民族藝術』Vol.31「剣鉾の意匠についての一考察」福持昌之 民俗芸術学会編2015年

財団設立50周年に寄せて 「文化遺産の保護をめぐって」

はじめに

公益財団法人京都市文化観光資源保護財団(以下,保護財団と略します)は,この令和元年(2019)12月に設立50周年という大きな節目を迎えられます。半世紀の長きにわたって文化観光資源の保護と活用の事業に尽力されてこられたことに改めて敬意を表したいと思います。
本稿では,保護財団の足跡の一端に触れながら,近年の文化遺産の保護について,京都市域を中心とした動向や筆者の考えをお話ししたいと思います。

1.過去と現在――文化財をとりまく社会状況

会報創刊号表紙

会報創刊号表紙

さて,保護財団が設立された昭和44年(1969)は,どのような時代だったのでしょうか。前年(1968)には文化財の保護をになう文化庁が設置され,翌年の1970年には6000万人をこえる人々が訪れた大阪万博が開催されています。ちなみに前回の東京オリンピックはその5年前、昭和39年(1964)のことでした。昭和47年(1972)には世界遺産条約が発効し,昭和50年(1975)は文化財保護法が改正されて伝統的建造物群保存地区制度ができ,民俗文化財という用語が定まるなど,大きな展開がありました。
このような一連の大きなできごとは,保護財団が設立されることになった社会的な背景を示しているようにも思われます。
令和元年(2019)の前後も眺めてみましょう。3年前の平成28年(2016)には文化庁が京都に移転することになり,2021年度中には新・文化庁が京都に設置される予定です。また2年前の平成30年(2018)には万博開催地が大阪に決まり,2025年に「大阪・関西万博」が開催される予定です。東京オリンピック・パラリンピックはもう間近に迫っています。
“歴史は繰りかえす”ということわざが思い浮かびます。そこで,あらためて「設立趣意書」を読みなおしてみますと,今でも重要なことが書かれていて,とてもおもしろく参考になりました。いくつかあげてみましょう。
一つめは前述の社会状況にかかわることなので,すこし長いのですが,引用しておきます。
近時,国民生活の飛躍的向上に伴い,古都の文化観光資源を求めて入洛する観光客は年々累増しつつありますが,殊に万博の開催を目前に控えて,この傾向は更に飛躍的に激化するものと予想されます。(中略)。しかも,急速な都市開発の進展にともなって,これら貴重な文化財や,歴史的自然環境などが,ややもすれば破壊損傷を被りかねない現状であります。
ふしぎなほどに今の状況と似ていて,とても50年も前のこととは思えません。文中の「万博」が2025年の「大阪・関西万博」を指しているかのような,あるいは来年の東京オリンピック・パラリンピックのことのような錯覚におちいりそうです。しかし,観光客の激増や過激なまでの都市開発など,今の方がもっと深刻ではないでしょうか。過去を省みて,保護財団の設立に匹敵するようなことをすべきだということなのかもしれません。
二つめは,日本文化の過去と現在と未来をつなぐ「歴史的文化遺産」は京都市民の,日本国民のきわめて貴重な「文化観光資源」である,という大切な主張です。現代の視点からあえて贅沢をいいますと,そこに京都という「地域」の過去と現在と未来をつなぐ「歴史的文化遺産」であるという趣旨を補いたいし,また「世界の人々」の「文化観光資源」であるといった字句を付け加えたいところです。ちなみに「古都京都の文化財」が世界文化遺産に登録されたのは,保護財団設立の25年後,平成6年(1994)のことでした。
保護財団は,その設立以来,① 有形文化財の修理,② 史跡・名勝・天然記念物などの保全,③ 無形文化財,民俗文化財の保存と執行,④ 文化観光資源をとりまく自然環境と歴史的環境の保全、に対する助成事業などをおこなってきています。50年のあいだに事業の名称や種類・数などは多少変化しているようですが,「文化観光資源」の保護が根底にあるのは変わっていません。また,後にも触れますが,助成事業の対象が「未指定」の文化財であること,いいかえると,行政の補助が及ばないものに対して助成をおこない,これらの所有者・管理者とともにその保護につとめてきたことは,保護財団設立の理念を反映した大きな特色であり、貢献といえるでしょう。

2.文化財とその保護

「“京都を彩る建物や庭園”制度」

「“京都を彩る建物や庭園”制度」京都市文化財保護課提供

「“京都をつなぐ無形文化遺産”制度」

「“京都をつなぐ無形文化遺産”制度」京都市文化財保護課提供

この半世紀,国・府・市からさまざまな文化財保護の施策があいついで打ち出されてきました。ざっとみても,国においては伝統的建造物群(1975)と文化的景観(2004)という新しい文化財カテゴリーの創設,また文化財の「選定」制度(1975)と「登録」制度(1996),未指定を含めた文化財の保存と活用を目指す法改正(2018)があります。また京都府は国に先立って登録制度(1982)を始めていましたし,また独自の文化財環境保全地区(1981)や、保護の範囲を大きく広げた暫定登録文化財制度(2017)も実施しています。京都市も一連の独自制度――“京都を彩る建物や庭園”制度(2011),“京都をつなぐ無形文化遺産”制度(2013),“まち・ひと・こころが織りなす京都遺産”制度(2016)――を策定し、活発に運用しています。近年の施策は,文化庁京都移転の決定が大きなきっかけになったともいえそうです。
こうしたいくつもの動きは,従来の指定から選定・登録へという保護対象の選びかたの多様化とともに,文化財として保護すべき対象の広がり,文化財の捉えかたや考えかたの発展を示しています。
文化財保護法は,文化財を有形文化財,無形文化財,民俗文化財,記念物,文化的景観,伝統的建造物群と定義しています。このうち,新しいカテゴリーのふたつの説明をあげますと,伝統的建造物群は「周囲の環境と一体をなして歴史的風致を形成している伝統的な建造物群で価値の高いもの」,文化的景観は「地域における人々の生活又は生業及び当該地域の風土により形成された景観地で我が国民の生活又は生業の理解のため欠くことのできないもの」となっています。
「環境」とか「風致」「伝統」「地域」「生活」「生業」「風土」「景観」といった,現代社会において重要なキーワードがちりばめられていることや,文化財保護法が古都保存法(1966)や景観法(2004),歴史まちづくり法(2008)などと連携していることが注目されます。
文化財というと,古くさく,また変わることがないように思われがちですが,じつはそうではないのです。文化財の考えかたは,人々や社会の価値観にあわせて進化するものと思います。私は,文化財のとらえかたがさらに広がり,充実したものになっていくことに大きな期待を寄せています。

3.「誰一人取り残さない」

平成30年度文化観光資源保護助成事業 大田神社拝殿修理事業

平成30年度文化観光資源保護助成事業 大田神社拝殿修理事業

ところで,文化財を保護するために,国や都道府県・市町村は,それぞれに「価値の高いもの」や「理解のため欠くことのできないもの」を指定・選定・登録をおこなってきました。これにより多くの文化財が保護・助成の対象になりました。一方で,「価値の高いもの」や「理解のため欠くことのできないもの」であるにもかかわらず,指定などがなされていない,それどころか,その存在さえ知られていないものが数多くあるのです。そうしてひっそりと破壊され,消滅しているのが実情であり,大きな課題であるといわなければならないでしょう。
どうしたらよいのでしょうか。さまざまな考えかたや方法があると思います。国や都道府県・市町村の組織・人員・予算などをよりいっそう充実することは,当然なされるべき施策の一つでしょう。それによって指定・選定・登録文化財の質と量がいっそう向上することになるでしょう。
また,指定などの有無にかかわらず,人々の生活,歴史と文化の理解のために欠くことのできない有形,無形のものすべてを文化遺産と考え,大切にすることも必要でしょう。「誰一人取り残さない」ことは,文化遺産の世界でもきわめて大切な理念ではないでしょうか。こうした思いをもっていたので,昨年の京都市文化財保護審議会の「京都市におけるこれからの文化財保護の在り方について」答申書が,「京都の人々の生活,歴史と文化の理解のために欠くことができない有形,無形のものすべてを「京都文化遺産」と位置づける」とされたことはたいへんありがたいことでした。
大切な文化遺産を「誰一人取り残さない」ようにするためには,市民の参加と連携,協働――自発的・自生的・非営利的な活動など――がとても重要な役割を果たすことになります。多くの人々の多様な活動によって文化遺産の発見と維持・継承・活用などにかかわる,さまざまなかたちのしくみを作りあげていくことが不可欠と思います。

おわりに

文化遺産が地域に根づき,生育しつづけるためには,良い土壌や空気とともにさまざまな栄養もまた不可欠です。府や市のいくつかの文化財補助制度がそうした助成をおこなっていますが,十分なものとはいえないでしょう。国・府・市などの補助が及ばない文化観光資源に助成するという保護財団設立時の理念は,今も変わらず大切なことであり,これからも大きな役割を果たされることを期待しています。

特集 京都の文化遺産の保存と継承 2 「京都市左京区久多 -生活文化の継承-」

はじめに

久多は、京都市左京区の最北端に位置し、北は滋賀県高島市朽木、東は大津市葛川地区、西は広河原、南は八丁平を越えて京都につながり、四季折々の豊かな自然に囲まれています。
久多は山城国に属しますが、そこから流れる久多川は琵琶湖に注ぐ安曇川水系であり、久多で切り出された木材は、この水運を介して出荷されていました。つまり、近江国とも結びつきの強い地域なのです。
平安時代以前からすでに木材の供給地として拓かれていたともいわれ、中世においては「久多庄」という荘園村落で、明治時代には、鯖街道と呼ばれる若狭と京都を結ぶ街道の1つである小浜街道の交通の要所でもありました。
上の町・中の町・下の町・宮の町・川合町の5つの集落があり、高度経済成長期までは、農業や林業を中心とした生活が営まれており、この地区に住む人たちは、1年を通じてさまざまな祭礼や行事を現在でも守り、継承しています。

1.久多の文化財

久多には、京都市指定文化財の「志古淵神社本殿」をはじめ、「木製五輪塔」、「大般若経」、京都市登録文化財である「岡田家文書」、「東本家文書」、大川神社に立つ「久多の大杉」などがあります。
木製五輪塔は、針葉樹の芯の部分を軸とした一材から彫成されており、「平治元年」の墨書があることから、平安末期の制作と推定できるものです。木製の五輪塔として最古のもので、納入品が確認できる五輪塔としても最古です。大般若経は、鎌倉~室町時代の書写奥書を持ち、ほぼ600巻が揃っています。経櫃には貞和2年(1346)の年紀があり、久多に伝来した時期が確定でき、さらに修補銘なども豊富で資料的な価値も高いものです。岡田家文書は、久多荘に伝わる文書で、山間荘園村落の構造を知るうえで重要であり、なかでも久多に十人百姓と称される上層農民が存在したことを示す文書等が注目されます。東本家文書は、岡田家文書と同様、山間荘園久多荘に関する文書で山間林業村落の社会組織や経済を理解する上で貴重なものです。また、民俗文化財の領域では、国指定重要無形民俗文化財「久多の花笠踊」、京都市登録無形民俗文化財「久多の山の神・お弓」、「久多宮の町松上げ」、京都市登録有形民俗文化財「久多の山村生活用具」があります。
本稿では民俗文化財を中心に久多の生活文化について述べていきます。

2. 久多の生活文化

久多は、中世に起こった自治的な村の共同体である惣村(郷村)が形成され、宮座組織を中心に村の結束をはかっています。
久多の一年は、志古淵神社の年越し行事から始まります。そして、1月3日には「久多の山の神・お弓」の行事があります。
1月3日、志古淵神社の年占いで、地元の人が神主を務める年番の神主である神殿こうどのがその年の吉凶をヒノキの薄い板で編んだ、直径1メートルほど的を弓で射て占います(写真1)。

久多の山の神・お弓

写真1 「久多の山の神・お弓」京都市北部山間かがやき隊左京区久多担当 南佳孝氏 提供

5月端午の節句は、午祭の日でもあります。今は、2つの行事が習合していますが、この午祭では五穀豊穣の願懸けが行われるといいます。花笠踊りは、その願を解く、願ばらしの踊りといわれています。その後田植えを行います。
7月、虫送りが行われます。上流の上の町と宮の町から太鼓や鉦を叩きながら、たいまつを持ち、「どろ虫出て行け、さし虫出て行け」と唱えながら進み、途中で中の町や下の町と交代し、下流まで害虫を追い払います。どろ虫とは、田んぼの虫で、さし虫とは、人をさす虫だそうです。
8月、久多のお盆は、8月14日に墓参りを行い、その後、家の近くの川に自然石を組み合わせて川地蔵と呼ばれる六地蔵を祀ります。お地蔵さまは、長方形の石を立てて、頭に笠を想定した平たい円形の石を被せ、その上に丸い小石を置き、愛嬌のあるお姿で人工的に作った中洲に並べられています。大きさは様々ですが、高さ15から20センチメートルくらいのものです。川岸と中洲に流れる川を三途の川とし、そこに平たい長方形の石を置き橋とします。8月15日、川地蔵に花やお菓子などをお供えします。8月16日には、川で送り火を点し、先祖を送ります。川地蔵は、盆行事が終わってもあえて取り壊すことはしないので、その後もいたるところでお地蔵様のお姿を見ることができます。
また、この頃になると、それぞれの集落の花宿で花笠踊りの花笠を作り始めます。
8月23日には、宮の町の松上げがあります。かつてはチャチャンコといい、各集落で形は異なりますが行われていました。久多宮の町の松上げは、花脊松上げと広河原松上げとともに、京都市の無形民俗文化財として登録されています。松上げは、火災除け、五穀豊穣、無病息災の祈願を兼ねた愛宕大明神への献火行事といわれています。灯籠木とろぎと呼ばれる高さ15メートル程の木材の先端に取り付けた直径2メートルほどの笠をめがけて、まつを投げ入れるというものです。準備は8月初めころから務めている人が集まりやすいほぼ毎週土日に行われ、笠部分の木材やそれらを結縄する藤の蔓、燃えやすい枯れ葉を長老とともに山に採取に行きます。松上げの当日、材料を組み上げ本番を待ちます。あたりが暗くなると、それぞれ自宅で作った上げ松を手に集まります。上げ松は、小さな松明に藁縄を取り付けたもので、その藁縄部分を握って火のついた松明をぐるぐると廻し、その勢いで笠をめがけて放り上げるのです。「一の松」「二の松」「三の松」と、その入った順番を競い合います(写真2)。

久多宮の町松上げ

写真2「久多宮の町松上げ」京都市文化財保護課 提供

その翌日は、花笠踊りです。
これらの行事のほかにも、様々な行事が行われていますが、それでも数十年前にはもっと多くの行事がありました。少子高齢化とともに、地域の実情に見合った内容にその数は減少しました。

3.花笠踊り

8月24日の盂蘭盆の夜、手作りの灯篭を揺らしながら踊ります(写真3)。灯篭踊りは、かつて洛北一帯の村々で踊られていましたが、今では、八瀬赦免地踊と久多の花笠踊に見ることができます。八瀬赦免地踊は、現在10月に行われていますが、八瀬も、盆の灯篭踊りとして踊られていたものが、秋元但馬守喬知を偲んで報恩感謝する行事に踊られるようになったと考えられます。

久多の花笠踊

写真3「久多の花笠踊」京都市文化財保護課 提供

お盆近くになると、各集落では8月24日夜に行われる花笠踊りの花笠作りが始まります。花笠作りは、各集落が持ち回る花宿に集まって、男衆のみによって作られます。決して女子は作っている空間に入ることが許されず、製作途中の花はもちろん出来上がったものにも触れてはいけないことになっています。製作のため、集まった人たちへのお茶を出すのも男性です。各集落で作る花が決まっているわけではありませんが、得意なものとして、概ね決まっています。材料はほとんどが和紙で、中には地元でハシマメと呼ばれるキブシの髄を薄く切り、先をカーブさせて一枚ずつ芯に貼り付け、中央部分には、キハダを削り黄色く色付けをした菊を作るものもあります。和紙を円錐状にまるめて組み合わせたテンシンボタン、紙を交互に重ねて作る折菊、四角い紙の先を竹筒に巻いて絞って作るむくげやボタンがあります。これらの花は、ほとんどが白色です。これは灯篭の透かし模様から漏れるろうそくの灯りで照らし出された際に暗がりに白色が映えるためで、赤い色などは黒く見えるそうです。
踊りの奉納は、上の宮神社、大川神社、そして志古淵神社の3ヶ所で行われます。各集落からの一行は、上流の上の宮神社に集合し、まず、上の町と中の町の上組が踊りを奉納  し、次の大川神社では下の町と宮の町と川合町の下組が奉納しますが、これは年ごとに上組と下組が交代で奉納します。そして伊勢音頭を唄いながら志古淵神社にやってきます。
志古淵神社での奉納も唄に合わせてゆっくり花笠を揺らし、夜空に幻想的な風景を浮かび上がらせています。踊りの当日に披露されるのは、レパートリー14曲のうち7曲ですが、次の年には別の7曲が唄われます。歌詞のみでは130曲あまり伝わっています。
かつては、翌日に笠やぶりという笠の解体が行われ、その際、意中の女性に花を贈ったそうです。長老の皆さまにうかがっても言葉を濁し、「そんなん聞いたことあるなあ…」と、はにかみながらおっしゃるのみで、定かではありません。

4.久多の山村生活用具

京都市登録有形民俗文化財「久多の山村生活用具563点」は、それらが単体で存在するのではなく、今まで述べてきた有形無形の文化財と大きく関わっています。また、その種類も多岐におよび、衣生活用具、食生活用具、住生活用具、紡織用具、山樵用具、農作業用具、狩猟用具、漁撈用具、諸職関係用具、運搬具、人の一生用具、信仰用具、などに分類することができます。収蔵されている資料は、かつての久多の生活がわかる道具ばかりです(写真4)。

久多の山村生活用具

写真4「久多の山村生活用具」筆者撮影

特に興味深いのは、使ったことがある人たちが身近に存在することです。収集した資料にすべて情報を付加することができます。衣生活用具では、昭和30年頃、久多から久多にお嫁に来た人が、母親が織ってくれた着物を持ってきた、嫁入りした先では仕事着などを姑から織らされたと、日常的に機織りをしていたことがわかります。かつて麻を栽培し、刈り取った麻を蒸す「麻蒸し桶」も多くのお宅で残っていました。また、とあるお宅では、立派なマントがありました。それは、ご主人が京都に行くときに着て行ったもので、帽子とセットでありました。
さらに栃の実は、山間の貴重な食料の一つです。水につけて灰汁を抜く作業は、大変手間がかかるものです。栃餅づくりに使用する道具に「とちへぎ」があります。皆さんとても使い込んだもので、現在も現役で使っておられ、資料としては3点収集しています。基本的には、2枚の板を重ねてひもで固定したものです。その間に栃の実を入れひねって皮をむくというものですが、ひとつとして同じ大きさや形はありません。どの道具も、使い勝手が良いように工夫されていることが見てとれます。
山から枕木の木を伐りだしたり、炭焼きをしたり、久多の人たちは、その時代時代に応じた経済活動をされていたことが、山村生活用具からわかります。
現在、563点の資料は、久多いきいきセンターの3階に収蔵しており、久多里山まつりの日などに地元で公開されています。窓には、遮光カーテンを設置し、外光が入らないよう、また、収蔵棚には、久多周辺で伐採され、十分枯らした杉の木で地元の方が簀の子を作って下さり、空気の流れがある文化財の収蔵環境としましては、非常に良い状態で保管されています。

おわりに

久多で育った人たちの多くは、拠点を市街地に持ちながらも、祭礼や行事、一日講などでは、地域コミュニティの一員として参加され、久多の活性化を目指し、久多の魅力を発信するため、「久多 文化遺産散策マップ」の作成、案内板の設置などに取り組んでいらっしゃいます。
現在では、民宿1軒、農家民宿7軒と、宿泊施設も充実し、京都市の構造改革特別区域計画おこしやす「みやこ」のどぶろく特区(平成29年5月認定)の制度を用いて、どぶろく「久多日和」が販売されています。
私は、久多をフィールドとし、約10年、久多に暮らす人たちと接してまいりましたが、伝統を守り継承される一方、革新にも力を注いでおられることをいつも感じることができます。
7月から8月にかけて、久多の新名物でもある北山友禅菊が満開を迎え、久多の夏を彩ってくれます。

特集 京都の文化遺産の保存と継承 1 「京都市内の小学校に残る生活資料」

はじめに

平成11年(1999)の合併特例法改正により、平成17・18年(2005・2006)には平成の大合併のピークを迎えました。合併において市町村の博物館や歴史民俗資料館では、施設の統廃合により、収蔵資料の廃棄が行われたところもあります。地域が、より大きな単位に再編されることで、地域の特色は稀薄となってくることが懸念されました。筆者は、民具・民俗資料・民俗文化財といった生活資料を「地域の文化遺産」として伝えるために、市町村より小さな「小学校の校区」を単位とした資料の保存と活用が重要であると考えました。
近年、文化財の保存とともにその活用が問われるようになってきました。学校に収蔵されている生活資料、いわゆる民具は、学芸員や研究者が恣意的に収集したものではなく、地域の人たちが自分たちの暮らしの中で伝えたいものを、地域の中心である小学校に持ち寄ったものです。全国的にみても多くの事例が確認されます。
京都の小学校にも学区で使われてきた生活資料を集め、地域学習の教材として授業で活用しているところが多くあります。これらの資料は「地域の文化遺産」であり、それを保存している小学校は、大切な「地域博物館」でもあるのです。本稿では、筆者がかかわってきた、近年の取り組みを紹介します。

1.授業での活用

生活資料、民具は、主に小学校3年生の社会科の単元で取り上げられています。『平成29年度社会科学習指導要領解説』では、「歴史と人々の生活」に区分される内容において、これまでの「古くから残る暮らしにかかわる道具、それを使っていたころの暮らしの様子」に関する内容を「市の様子の移り変わり」に関する内容に改められています。しかし、その中で生活の道具の時期による違いに着目するという箇所では、 電化製品が普及する前と普及した後、および現在の生活の中で使用している道具の使い方や生活の様子について調べることと記述されています。小学校教育での「昔の暮らし」とは、今から50年~60年前の暮らしを想定しています。ちょうど一般家庭に電化製品が普及し始めたころです。炊事や洗濯など家事に使用する道具や明かり、暖をとる道具など、生活の中で使われた道具を取り上げ、それを手掛かりに、市や人々の生活の様子を捉えることができるようにすることを目的としています。
小学校では、学習指導要領を軸に、それぞれの地域の特徴や時代背景をもとに授業での生活資料の活用が行われています。七輪でお餅を焼く、石臼を挽いてきな粉を作る、洗濯板で洗濯をするなど、地域の人たちの協力により、多くの小学校が実践しています。

2.小学校に収蔵されている生活資料

[写真1] 小学校に収蔵されている生活資料

[写真1]
小学校に収蔵されている生活資料
京都市立修学院第二小学校「一乗寺こどもミュージアム」総合的な学習の時間を用いて、学区に関連するテーマを決め、グループごとに調査を行った成果を児童自らが展示という形で反映した。

小学校に収蔵されている資料は、学校教育で使用するだけではなく、地域のコミュニケーションの道具としても活用できるものです。
京都造形芸術大学では、平成19年度(2007)「学校教育の中で地域の文化遺産の保存とその活用法を探る」をテーマに左京区内の全公立小学校22校を対象に、生活資料の保存・活用状況の調査を行いました。また、その結果をふまえ、平成20年(2008)度には、「地域の文化遺産を後世に伝える拠点作り」をテーマに、京都市立明徳小学校「トトロの部屋」の整備を行ないました。
平成19年(2007)度の調査結果では、22校中18校に何らかの形で民具が収蔵されていました。その中で独立した展示室があり、資料を常設展示し、授業において教材として活用している小学校が5校、独立した展示室はないが、他の形で資料を常設展示し、授業で教材として活用している小学校が5校ありました。また、準備室や廊下に資料を保管し、授業で教材として活用している小学校が7校あるなど、資料を収蔵している小学校ではほとんどのところが授業で活用していることが分かりました(写真1)。

[写真2] 京都市立明徳小学校「トトロの部屋」の整備

[写真2]
京都市立明徳小学校「トトロの部屋」の整備
整備後は、児童によって「明徳小さな博物館」と名付けられた。

[写真3] 公開日当日

[写真3]
公開日当日には多くの地域の方が訪れ、実際に使用したことがある年代の方々は、資料を手にとられて想い出話を語り合い、若い世代や小学生に対して道具の使い方などを解説されていた。

翌、平成20年度(2008)には、「効果的な見せ方・伝え方」を実践するため、京都市立明徳小学校をモデルケースとし、「トトロの部屋」の整備を行ないました。収蔵資料の多くは、名称、使用方法、履歴などの情報がない状態でした。そこで1点ずつの写真撮影ならびに名称の付与、使用方法等の聞き取り調査を行い、一覧表と台帳を作成しました。同時にクリーニングおよび防錆処理を進めました。整備の目的は、児童の学びの場であることと、地域の人たちのコミュニケーションの場にすることです。室内に収蔵庫と棚を作り、動線を確保しました。しかし、その際、空間のデザインを重視するのではなく、3年生担当の教員と十分話し合い、授業で使用するものは、児童の手の届く範囲に展示をしました。また、学校教育の中での活用を想定し、展示資料のキャプションにはあえて名称のみとし、付随する情報は、児童自らが調べることができるようにしました。もう一つの目的である、地域の文化遺産を後世に伝える拠点作りということから、地域の方々が「懐かしい」という気持ちのもと、語り合うことができる空間にしました(写真2・3)。整備後は、児童によって「明徳小さな博物館」と名付けられました。


3.学校収蔵民具の再発見事業

[写真4]京都市立岩倉南小学校「みなみ民具コーナー」

[写真4]
新校舎に転じスペースが確保され、常に児童の目に触れるところに作られた。
京都市立岩倉南小学校「みなみ民具コーナー」

本事業は、文化庁の文化遺産総合活用推進事業として、京都市内の市立小学校が収集し保管、活用してきた地域の文化遺産である民具に焦点をあて、保存・活用されていることの重要性を再確認しつつ、学校関係者はもちろん児童や保護者、地域住民に向けてその魅力を発信することを目的とした取り組みです。そして、平成29年度の成果として、「左京区の小学校が伝える生活資料展」と「安寧小学校のたからもの展」のパネル展を2ヶ所で行いました。
「左京区の小学校が伝える生活資料展」は、左京区内の小学校の民具の収蔵状況を紹介したものです。左京区は南北に長く、気候条件や生活様式が異なり、その地域性を民具から読み取ることができます。開催にあたり、平成19年度の調査対象をもとに、各小学校にアンケートで追跡調査を行った結果、収蔵・展示の状況に変化があったと6校から回答があり、再調査を行いました。このうち、岩倉南小学校と花背小学校は新校舎建設に伴う収蔵・展示場所の移動があり、八瀬小学校は校舎の移転・新築によって収蔵・展示場所が変わっていました。しかしどの小学校も移動に伴い資料が廃棄されたのではなく、新しい展示スペースが確保され、常に児童の目に触れるところに作られていました(写真4)。
「安寧小学校のたからもの展」は、元安寧小学校の南校舎2階の安寧資料室の収蔵資料を紹介したものです。「書画骨董ではなく、生活の匂いのするもの」を収集するという方針が掲げられ、安寧学区の住民の暮らしがわかる生活資料が集まりました。幻灯機やカメラなど「ハイカラ」な資料も並び、一方で農具がないというのは、安寧学区が京都駅に近い立地によるという地域の特徴を表しています。
平成30年度の活動として、まず取り組んだのが、京都市内の市立小学校約160校に対し、民具の収蔵の有無や授業での活用、収蔵状況など、多岐にわたる視点からアンケートを実施しました。全校から回答を得たわけではありませんが、多くの小学校が民具を収蔵し、授業で活用されていることがわかりました。また、収蔵状況の改善や、資料整理、リストの作成などの協力も希望されています。

おわりに

民具を収集した時点では、情報が付与されていても、担当した教員の異動や、提供して下さった地域の人たちの世代交代など、時間を経るごとに情報は希薄になっていきます。
また、モノだけを残すのではなく、名称や使用方法など、資料に必要な5W1Hの関連情報を記録し、資料と合わせて保存することが早急の課題と考えます。そのためには、博物館の学芸員、大学の研究者、行政機関の専門家の協力と応援、いわゆる「博学連携」が欠かせないものとなります。
明治以来の伝統の中で、小学校単位で民具をはじめとする歴史資料を学校で保存し、その収蔵施設や展示施設までも設けてこられたことは、これらをさらに積極的に利用していくことによって、これからの双方向の博学連携事業の一つの理想でありモデルとなるものではないでしょうか。

1 平成17年3月までに合併申請、翌18年(2006)3月までに合併をすることで、地方交付税の優遇措置が合併後10年間講じられることになった。
2 京都市立新洞小学校が平成25年度から錦林小学校に統合されたため、現在は、21校である。
3 左京区役所が独自に取り組んだ「大学のまち・左京の推進」における「左京区 大学と地域の総合交流促進事業」の助成を受け、京都造形芸術大学の空間演出デザインを専門とする大野木啓人と、民俗文化財の保存修復を専門とする筆者が大学院生とともに取り組んだ。また、それに加え、地域の方々からの協力もいただいた。
4 トトロの部屋は、地歴クラブの児童と教員が中心となって設立したもので、農具や生活資料、写真パネルなど、岩倉の生活を物語る多数の資料が収蔵展示されていた。
5 学校収蔵民具の再発見事業実行委員会(委員長 用田政晴)

特集 京都の彫刻・工芸品 -4- 「玳瑁貼金銅獅子牡丹文説相箱・玳瑁貼金銅五子文如意 -泉涌寺の美術工芸品から-」

はじめに

[写真1] 玳瑁貼金銅獅子牡丹文説相箱

[写真1] 玳瑁貼金銅獅子牡丹文説相箱 左が香炉箱、右が据箱
(写真3以外は京都市文化財保護課撮影)

[写真2]玳瑁貼金銅五獅子文如意

[写真2]玳瑁貼金銅五獅子文如意

鼈甲べっこう」ときいて思い浮かべるものといえば、眼鏡でしょうか、櫛でしょうか。黄色と褐色のまだら模様がつくりだす、半透明で深みのある風合いは、古来ひとびとを魅了し、多くの工芸品が生み出されました。今回は、最近おこなった美術工芸品調査で出会うことのできた、鼈甲、つまり玳瑁たいまいを用いた泉涌寺伝来の美しい工芸品「玳瑁張金銅獅子牡丹文説相箱たいまいばりこんどうししぼたんもんせっそうばこ」[写真1]と「玳瑁張金銅五獅子文如意たいまいばりこんどうごししもんにょい」[写真2]を紹介します。


1. 泉涌寺の美術工芸品

泉涌寺[写真3]は、京都市東山区に所在する真言宗泉涌寺派の総本山です。建保6年(1218)、俊芿(仁安元−嘉禄3〈1166-1227〉)により、律を中心とした真言・禅・浄土の四宗兼学の道場として開かれました。泉涌寺が「御寺みてら」とよばれるのは、皇室との御縁が深く、歴代多くの天皇の御葬儀がこの地で営まれ、御陵が築かれてきたことによります。よって泉涌寺に伝来する什物は、俊芿やその弟子である湛海たんかいなどの入宋僧が請来したものや創建に関わるもの、そして歴代天皇の宸筆・綸旨・肖像画・念持仏・遺愛品など皇室ゆかりのもの、大きくはこのふたつから成ります。
美術工芸品の指定文化財としては、泉涌寺造営の喜捨きしゃを仰ぐために俊芿が執筆した「泉涌寺勧縁疏かんえんそ」(承久元年〈1219〉・国宝)など国宝2件、湛海が請来したと伝わる楊貴妃ようきひ観音像(南宋時代・重要文化財)など重要文化財6件、京都府指定文化財の木造俊芿律師坐像(鎌倉時代)、京都市指定文化財の「紙本金地著色朝鮮通信使歓待図八曲屏風」(狩野益信筆・江戸時代)があり、このほか山内の塔頭寺院を含めると、多くの文化財が知られています。
泉涌寺は応仁の乱により創建当初の伽藍は全て失われますが、後水尾上皇の要請により寛文4年(1664)から9年(1669)にかけて大造営が行われ、再興が成されます。これ以降の史料や施入された品々、天皇遺愛品も多く、「玳瑁張金銅獅子牡丹文説相箱」「玳瑁張金銅獅子文如意」もそれらのうちのひとつといえるでしょう。

2. 説相箱と如意

説相箱とは、法会のときに必要な品々を入れ、傍らに据え置く箱のことで、据箱・説僧箱・三衣箱などとも呼ばれます。柄香炉・名香・如意を納める香炉箱と、差定さじょう(法会の次第)や説相など法会のための状を納める据箱の2箱で1具として用いられますが、香炉箱・据箱の大小や、1箱単独か、あるいは2箱で1具かなどの形態については時代差があることが指摘されています。現存作例としては、奈良・大和文華館所蔵の銅版地花鳥螺鈿説相箱(平安時代・重要文化財)や、本品と同様2箱1具の京都・醍醐寺所蔵の沃懸地いかけじ螺鈿説相箱(鎌倉時代・重要文化財)箱などがあります。説相箱の材質についてはいずれも木製で、長方形で蓋はなく、下方に格狭間こうざまを透かした床脚がつく構造で、蒔絵まきえ螺鈿らでん・金属などで装飾されます。
如意は、摘爪(爪切り)や耳鉤(耳かき)とともにかつては僧侶の生活具で、骨角・竹木を彫刻して人の手指爪をつくり、手の届かない痒いところを意の如く掻くためのものとしてこの名が付いたようですが、やがて威儀をととのえるための儀式用具になりました。滋賀・聖衆来迎寺所蔵の犀角如意(平安時代・重要文化財)や、奈良・東大寺所蔵の玳瑁如意(平安時代・重要文化財)などが知られます。

3. 玳瑁を用いた工芸品 −正倉院宝物から−

玳瑁というウミガメ科のカメの甲羅を加工したものを、一般的に鼈甲と呼びならわしています。角や骨などとともに、動物素材を用いた工芸品は古代からみられ、正倉院宝物にも複数みることができます。昨秋、奈良国立博物館で催された「第70回 正倉院展」においても、玳瑁を用いた品々が来場者を感嘆させました。仏前への献物箱と推定される「玳瑁螺鈿八角箱」は、木製で底面以外を玳瑁貼とし、花鳥文や連珠文をくり抜き、琥珀や線刻をほどこした螺鈿嵌め込んでいます。「筝柱そうのじ琴柱ことじ)」は木製で、金箔押しの上に墨と絵の具で文様を描いたうえに玳瑁を貼るという、玳瑁の透明感を活かし、下層に金箔や絵を描くといった、伏彩色の技法が用いられています。「玳瑁如意」については、全長50㎝、厚み4㎜ほどの全てを玳瑁から作り出したものです。こうして玳瑁は、熱によって変形するなどの特性や透明感が活かされ、単独あるいは他素材と組み合わせることで工芸品に採り入れられてきました。

4. 玳瑁貼金銅獅子牡丹文説相箱・玳瑁貼金銅五獅子文如意

[写真3] 舎利会での使用例。

[写真3]
舎利会での使用例。導師が着座する礼盤の左に据箱、右に香炉箱が置かれる。
提供/泉涌寺

[写真4] 玳瑁貼金銅獅子牡丹文説相箱

[写真4]
玳瑁貼金銅獅子牡丹文説相箱
金銅獅子形金具

[写真5] 玳瑁貼金銅獅子牡丹文説相箱

[写真5]
玳瑁貼金銅獅子牡丹文説相箱
金銅牡丹形金具

[写真6] 如意枘表面刻銘

[写真6]
如意枘表面刻銘

泉涌寺に伝来する「玳瑁貼金銅獅子牡丹文説相箱」と「玳瑁貼金銅五獅子文如意」は、現在も特定の儀式で使用されています[写真3]。
説相箱のうち、香炉箱は長辺35.2㎝、短辺29.5㎝、高さ10.8㎝を測ります。木製で、角を丸くした長方形で、下半分には、格狭間を透かした床脚しょうきゃくを備えます。口縁と脚の上下には、鍍錫としゃく(スズメッキ)をほどこしたと思われる真鍮製の金具をめぐらせています。側面には玳瑁8枚が貼り合わされ、継ぎ目には金継がされています。玳瑁の下層は、黒漆を下地として金箔が貼られていることが観察できます。
側面にとりつけられた8個の金銅製の獅子形金具は、獅子の姿勢が異なり、正面を向く姿、後ろを振り返る姿、上を向く姿の3種類があります[写真4]。いずれも、銅板を金鎚で立体的に打ち出す鎚起の技法で高肉に形づくられ、表面には数種類のたがねでたいへん細かな線刻や模様がほどこされています。
牡丹形金具[写真5]も高肉に打ち出され、透し彫りがほどこされます。牡丹の弁脈やしべ、葉脈、枝の節や苔など、じつに細かなところまでが表現されています。
胴にめぐらせた金具には、金銅製の小さな出八双金具が配されており、蓮華唐草文の余白には魚々子を打ち詰め、煮黒目にぐろめの技法で黒色をほどこすといった手の込みようです。箱の内面は尾長鳥と花卉文かきもんのある茶地の金襴裂を張り、外底部は畳付きまで金梨地の蒔絵がほどこされています。
据箱は香炉箱に比べて少し小さめで、長辺29.4㎝、短辺25.8㎝、高さ7.5㎝を測ります。口縁が受け口でない以外は、香炉箱とほぼ同形態・同意匠です。
如意は長さ、48.2㎝、頭の幅は20.9㎝を測ります。雲形頭部は銅板製で、金箔を押したうえに玳瑁を2枚継いで貼っています。縁に金銅製の覆輪ふくりんをめぐらし、表面には金銅製の蓮華形金具と獅子形金具を打ちます。
蓮華形金具は高肉に打出し、中心と八葉の蓮弁には、淡く伏彩色をほどこしたうえに水晶を嵌装します。5個配された獅子形金具は説相箱と同技法で、姿勢がそれぞれ異なります。
裏面に付く三鈷杵さんこしょ形金具、柄にかかる魚々子地蓮唐草文入八双形口金具、柄に挿す枘もそれぞれ金銅製で、枘の表面には籠時かごじで「田村因幡作」銘が刻まれています[写真6]。この作者については、現在のところ詳細はわかっていません。
柄は木製黒漆塗りで、尻に向かって弱く反らせ、両端に入八双形金具を嵌めます。金具の表裏には蓮唐草文を彫り表して、余白に細かな魚々子を打ち詰めます。さらに蓮唐草文・蓮肉・三鈷杵形金具には、それぞれごく細かい毛彫りがほどこされています。
説相箱と如意は同時期・同工房の制作とみられ、如意に付く金具の唐草文様の図様などから、これらは江戸時代前期に制作されたものと推定されます。


5. 玳瑁をひきたてる金工技術

本作品は、玳瑁の下層に金箔をほどこす伏彩色の技術のみならず、高肉打出しの華やかな金具、金梨地の蒔絵や金襴の布張りなど多素材を組み合わせており、それだけ多分野の技術が用いられていることがわかります。とくに金銅製金具の、異なる姿勢の獅子たちの動表現は、今にも飛び回りそうなほどにそれぞれが自由快活で、荘厳であるなかにも少しの愛嬌が感じられます。また、数種の鏨を駆使した細密な表現は、よほど接近して見ないと気づかないくらいのもので、施主の高い美意識と、それに応えるだけの高い技術を作者が持っていたことを物語ります。近世には刀装具や祇園祭山鉾の装飾品などにかざり金具が多く見られますが、錺金具にはそれ自体の輝く力のみならず、他素材を引き立てる力があります。

おわりに

玳瑁を用いた工芸品は、かつてのように生産されることはむずかしくなりましたが、それを代替する素材をもって「鼈甲模様」は現代の装身具に引き継がれています。そこには現代の技術が注ぎ込まれているように、近世の工芸品にも、過去の優品の研究・観察の成果がよくあらわれ、当時の技術が発揮さていることがよくわかります。数百年ものあいだ、厳かな場所で用いられてきたものをこうしていま振り返り、鑑賞できることは、たいへんありがたいことに思えます。

※本作品は通常非公開ですが、泉涌寺宝物館の企画展テーマにより公開される場合があります。

おもな参考文献

泉涌寺 『皇室の御寺 泉涌寺』平成3年
鈴木規夫 『供養具と僧具』(『日本の美術』No.283)平成元年
奈良国立博物館  『第70回「正倉院展」目録』平成30年

特集 京都の彫刻・工芸品 -3- 「仏師・清水隆慶のつくった 木造深山正虎坐像-車僧のものがたり-」

はじめに

美術工芸品で「彫刻」とされる分野のなかで最も数が多いのは仏像になりますが、神像や肖像、仮面などがそれに次ぎます。肖像彫刻については、祖師、高僧、天皇、公卿、武将はじめ、その時代や地域に功績のある人物など多岐にわたり、崇敬や追慕、儀式用など目的もさまざまです。仏像に比べてきまりごとが少ない分、個性もよくあらわれます。
今回は、「頂相ちんぞう」といわれる禅僧の肖像彫刻のなかでも、今年新たに京都市指定文化財に加わった「木造深山正虎坐像もくぞうしんざんしょうこざぞう」[写真1・2]についてご紹介します。

木造深山正虎坐像

[写真1]木造深山正虎坐像 所蔵 市川車僧保存会 提供/京都国立博物館

同 面部

[写真2]同 面部 提供/京都国立博物館

1.「車僧」とよばれた深山正虎の足跡

深山正虎(生没年不詳)は、鎌倉時代の禅僧です。この名前に聞きなじみがなくとも、「車僧くるまぞう」のことだといえばわかる方もあるかもしれません。この「車僧」の肖像が、京都市右京区太秦海正寺町に所在する「車僧影堂」[写真3]と呼ばれる小さなお堂に江戸時代から安置され、地元の有志からなる保存会により維持・管理がはかれてきました。像は現在、京都国立博物館に寄託されていますが、毎年9月の第一日曜日には、地元で車僧盆会が行われています。
この地にはかつて「海生寺」という寺院がありました。『雍州府志』などの江戸時代の地誌類によれば、「海生寺」は深山正虎が開いたとも、住んでいたともいわれています。正虎が生きていたであろう時代まで遡ることのできる資料は現在のところ見つかっておらず、その足跡はほとんどわかっていませんが、『延宝伝灯録』(延宝6年/1678)によれば、東福寺開山・円爾の法をついだ直翁智侃じきおうちかん(寛元3年‐元亨2年/1245-1322)と問答を交わし、後に出家します。巷では生まれも名前も知られておらず、常に破車やぶれぐるま(壊れた車)を子どもたちに押し引きさせて道を往来することから、「車僧」とも、また七百年前の昔語りをよくすることから、七百歳とも呼ばれていたといいます。亡くなったときには荼毘に付されたものの、火が尽きた頃にはその骨や灰は全てなくなっていたという不思議な逸話も収められています。謡曲「車僧」[写真3]では、愛宕山の天狗・太郎坊との法力くらべを主題としており、古くから奇僧としてのイメージが強い人物であったようです。

車僧影堂

[写真3]車僧影堂 筆者撮影

2.木造深山正虎像

深山正虎の肖像は、絵画・彫刻のいずれにおいても、この像が知られるのみです。総高(頭頂から衣の裾まで)は61.7cm、等身よりやや小さめの、椅子に趺座ふざする、一般的な姿勢をとる頂相彫刻です。寄木造よせぎづくりで、玉眼が入れられています。前後に二材を寄せた体幹部に、別につくられた首から上の頭部が挿し込まれる構造です。お堂では帽子をかぶり、左手に数珠、右手に払子を握る姿で安置されていました。背中を少し丸め、眉を寄せて口をへの字に結んだ、困ったような表情が印象的です。たいへん写実的な作風であることから、没年からまもないであろう南北朝時代の制作がこれまで有力視されてきましたが、近年の調査で、像内に「清水右近隆慶」の銘記が確認されたことにより、江戸時代の仏師・清水隆慶しみずりゅうけいの制作であることが明らかになりました。

3.仏師・清水隆慶

清水隆慶は、江戸時代に京都を拠点に活躍した仏師で、制作年代や作風、位牌、過去帳写などの資料から、四代にわたる活動が推定されています。清水隆慶の作例は、多くは確認されていませんが、総じて像高30センチメートル前後の、表現にすこし硬さが感じられる、小さな像がほとんどです。そのなか深山正虎像は、等身に近い大きさの像を含めた多様な作例をのこす初代隆慶(万治2年-享保17年/1659-1732)に通じる作風がみてとれるうえ、現在のところ、銘記を「右近」とする作例はほかに、初代制作とされる「髑髏どくろ」(元禄2年/1689、個人蔵)の箱書きにしか確認されていないことをあわせると、正虎像は初代隆慶の制作であると考えらることができます。
清水隆慶の名は、奈良県生駒市の宝山寺を開いた湛海たんかいの造像活動に深く関わったことにより知られており、それら諸像の制作年代には、初代隆慶の活動時期をあてることができます。湛海が図様や彩色を「隆慶」に指図して制作された奈良・元興寺木造不動明王坐像(元禄9年/1696)をはじめ、初代隆慶の関与が推定される湛海作品は、近世を代表する仏像彫刻として評価されています。
また、清水隆慶の銘のある作品のなかで、初代とされる作例では、享保2年(1717)銘の、街ゆく人々をいきいきとあらわした像高6センチほどの小さな群像「百人一衆」[写真4]が知られています。ほか、竹翁坐像(宝永3-7年/1706-10、個人蔵)、初代隆慶半身自刻像(享保11年/1726、個人蔵)など、幅広い題材を、生気に満ちた姿に仕上げており、宝山寺諸仏などの制作で培った確かな技術を基礎とした、柔軟な制作活動をみることができます。

金剛流宗家「車僧」

[写真4]金剛流宗家「車僧」 大神神社(奈良県桜井市)
春の大神祭 後宴能 平成30年4月10日 提供/大神神社

4.清水隆慶の生きた時代

江戸時代のはじめ、諸寺院では戦乱からの復興や整備が進み、仏師たちはそれにともなう仏像や肖像等の修復や新造に従事しました。肖像彫刻においては、栃木・輪王寺の木造天海坐像(康音作、寛永17年/1640、重要文化財)や、京都・長講堂の木造後白河法皇御像(康知作、明暦4年/1658、重要文化財)など、写実味のある肖像彫刻が制作されるなか、禅宗寺院を中心に、祖師・開山等の頂相彫刻が、吉野右京らの仏師のもとで多数制作されています。
正虎像もそうしたなかで制作されたものなのでしょうか。像の仕上がりには一部に形式化が見られるものの、抑揚のある衣文表現や、皺の多く刻まれた顔、頭部に浮き出た血管、肉薄な頬や首元などには、実在の老僧を思わせる、巧みな表現を見ることができます。正虎像の制作時期が、前述「髑髏」制作の元禄2年頃とみた場合、同時期に制作された頂相彫刻を見渡してみても、正虎像の写実表現はたいへんすぐれており、初代隆慶の卓越した技量をうかがうことができます。

5.像内に納入されたもうひとつの頭部

驚くべきことに、像の内部、ちょうど腹部あたりに、正虎像とほとんど同じ大きさの木造の僧形頭部像が納入されています。取り出すことはできないものの、ここまでは過去の調査で知られていましたが、近年の京都国立博物館での調査で撮影されたエックス線CTスキャン画像により、像内に納入された頭部像は、正虎像と構造はよく似ているものの、顔立ちは正虎像にくらべ、たいへん若々しいことがわかりました。例えば近年、建仁寺西来院(京都市東山区)の蘭渓道隆らんけいどうりゅう像の内部に、蘭渓道隆とみられる古い頭部が納入されていることが発見されました。似た事例ではありますが、正虎像内の頭部像は古いものではなく、おそらく正虎像と同時につくられたものと思われます。では一体何のために作られ、納入されたのでしょう。正虎像と取り替え可能な首かと考えても取り出すことができず、挿し首の仕様も異なることから、そうとはうなずき難い。だとすれば、銘記に見られる願主「上月宗全」なる人物や、もしかすると制作者である隆慶本人を模した頭部像を納入したのかという大胆な発想も浮かぶものの、関連する資料は見つかっておらず、納入された理由は現在のところわかりません。

おわりに

海生寺の廃絶後も、長らく地元の人々により守り伝えられてきた深山正虎像は、鎌倉彫刻の写実性を踏襲した、近世における肖像彫刻のありようを示す、すぐれた作例として評価することができます。また、清水隆慶の幅広い制作活動、ひいては時代の求めに応じた近世仏師の制作活動を示す資料であるとともに、深山正虎に関する数少ない歴史的資料としても貴重であることから、平成30年3月30日付けで京都市の文化財に指定されました。
ただし、依然わからないことがいくつもあります。鎌倉時代の禅僧の肖像彫刻が、なぜ江戸時代につくられたのか。正虎の顔は、何を手本にしたのか。像内のもうひとつの頭部像は、一体何のために納入され、誰なのか――。変わり者だったに違いない、正虎と隆慶が今に残した謎です。

[おもな参考文献]
・杉山二郎
「江戸彫刻研究法 群小作家系譜を辿る一例 清水隆慶について」
『日本彫刻史研究法』東京美術、平成3年
・淺湫 毅
「新出の清水隆慶作品 -近世彫刻の諸相4-」
『学叢』第34号、京都国立博物館、平成24年