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特集 京都の文化遺産の保存と継承 2 「京都市左京区久多 -生活文化の継承-」
伊達 仁美
はじめに
久多は、京都市左京区の最北端に位置し、北は滋賀県高島市朽木、東は大津市葛川地区、西は広河原、南は八丁平を越えて京都につながり、四季折々の豊かな自然に囲まれています。
久多は山城国に属しますが、そこから流れる久多川は琵琶湖に注ぐ安曇川水系であり、久多で切り出された木材は、この水運を介して出荷されていました。つまり、近江国とも結びつきの強い地域なのです。
平安時代以前からすでに木材の供給地として拓かれていたともいわれ、中世においては「久多庄」という荘園村落で、明治時代には、鯖街道と呼ばれる若狭と京都を結ぶ街道の1つである小浜街道の交通の要所でもありました。
上の町・中の町・下の町・宮の町・川合町の5つの集落があり、高度経済成長期までは、農業や林業を中心とした生活が営まれており、この地区に住む人たちは、1年を通じてさまざまな祭礼や行事を現在でも守り、継承しています。
1.久多の文化財
久多には、京都市指定文化財の「志古淵神社本殿」をはじめ、「木製五輪塔」、「大般若経」、京都市登録文化財である「岡田家文書」、「東本家文書」、大川神社に立つ「久多の大杉」などがあります。
木製五輪塔は、針葉樹の芯の部分を軸とした一材から彫成されており、「平治元年」の墨書があることから、平安末期の制作と推定できるものです。木製の五輪塔として最古のもので、納入品が確認できる五輪塔としても最古です。大般若経は、鎌倉~室町時代の書写奥書を持ち、ほぼ600巻が揃っています。経櫃には貞和2年(1346)の年紀があり、久多に伝来した時期が確定でき、さらに修補銘なども豊富で資料的な価値も高いものです。岡田家文書は、久多荘に伝わる文書で、山間荘園村落の構造を知るうえで重要であり、なかでも久多に十人百姓と称される上層農民が存在したことを示す文書等が注目されます。東本家文書は、岡田家文書と同様、山間荘園久多荘に関する文書で山間林業村落の社会組織や経済を理解する上で貴重なものです。また、民俗文化財の領域では、国指定重要無形民俗文化財「久多の花笠踊」、京都市登録無形民俗文化財「久多の山の神・お弓」、「久多宮の町松上げ」、京都市登録有形民俗文化財「久多の山村生活用具」があります。
本稿では民俗文化財を中心に久多の生活文化について述べていきます。
2. 久多の生活文化
久多は、中世に起こった自治的な村の共同体である惣村(郷村)が形成され、宮座組織を中心に村の結束をはかっています。
久多の一年は、志古淵神社の年越し行事から始まります。そして、1月3日には「久多の山の神・お弓」の行事があります。
1月3日、志古淵神社の年占いで、地元の人が神主を務める年番の神主である神殿がその年の吉凶をヒノキの薄い板で編んだ、直径1メートルほど的を弓で射て占います(写真1)。
5月端午の節句は、午祭の日でもあります。今は、2つの行事が習合していますが、この午祭では五穀豊穣の願懸けが行われるといいます。花笠踊りは、その願を解く、願ばらしの踊りといわれています。その後田植えを行います。
7月、虫送りが行われます。上流の上の町と宮の町から太鼓や鉦を叩きながら、たいまつを持ち、「どろ虫出て行け、さし虫出て行け」と唱えながら進み、途中で中の町や下の町と交代し、下流まで害虫を追い払います。どろ虫とは、田んぼの虫で、さし虫とは、人をさす虫だそうです。
8月、久多のお盆は、8月14日に墓参りを行い、その後、家の近くの川に自然石を組み合わせて川地蔵と呼ばれる六地蔵を祀ります。お地蔵さまは、長方形の石を立てて、頭に笠を想定した平たい円形の石を被せ、その上に丸い小石を置き、愛嬌のあるお姿で人工的に作った中洲に並べられています。大きさは様々ですが、高さ15から20センチメートルくらいのものです。川岸と中洲に流れる川を三途の川とし、そこに平たい長方形の石を置き橋とします。8月15日、川地蔵に花やお菓子などをお供えします。8月16日には、川で送り火を点し、先祖を送ります。川地蔵は、盆行事が終わってもあえて取り壊すことはしないので、その後もいたるところでお地蔵様のお姿を見ることができます。
また、この頃になると、それぞれの集落の花宿で花笠踊りの花笠を作り始めます。
8月23日には、宮の町の松上げがあります。かつてはチャチャンコといい、各集落で形は異なりますが行われていました。久多宮の町の松上げは、花脊松上げと広河原松上げとともに、京都市の無形民俗文化財として登録されています。松上げは、火災除け、五穀豊穣、無病息災の祈願を兼ねた愛宕大明神への献火行事といわれています。灯籠木と呼ばれる高さ15メートル程の木材の先端に取り付けた直径2メートルほどの笠をめがけて、上げ松を投げ入れるというものです。準備は8月初めころから務めている人が集まりやすいほぼ毎週土日に行われ、笠部分の木材やそれらを結縄する藤の蔓、燃えやすい枯れ葉を長老とともに山に採取に行きます。松上げの当日、材料を組み上げ本番を待ちます。あたりが暗くなると、それぞれ自宅で作った上げ松を手に集まります。上げ松は、小さな松明に藁縄を取り付けたもので、その藁縄部分を握って火のついた松明をぐるぐると廻し、その勢いで笠をめがけて放り上げるのです。「一の松」「二の松」「三の松」と、その入った順番を競い合います(写真2)。
その翌日は、花笠踊りです。
これらの行事のほかにも、様々な行事が行われていますが、それでも数十年前にはもっと多くの行事がありました。少子高齢化とともに、地域の実情に見合った内容にその数は減少しました。
3.花笠踊り
8月24日の盂蘭盆の夜、手作りの灯篭を揺らしながら踊ります(写真3)。灯篭踊りは、かつて洛北一帯の村々で踊られていましたが、今では、八瀬赦免地踊と久多の花笠踊に見ることができます。八瀬赦免地踊は、現在10月に行われていますが、八瀬も、盆の灯篭踊りとして踊られていたものが、秋元但馬守喬知を偲んで報恩感謝する行事に踊られるようになったと考えられます。
お盆近くになると、各集落では8月24日夜に行われる花笠踊りの花笠作りが始まります。花笠作りは、各集落が持ち回る花宿に集まって、男衆のみによって作られます。決して女子は作っている空間に入ることが許されず、製作途中の花はもちろん出来上がったものにも触れてはいけないことになっています。製作のため、集まった人たちへのお茶を出すのも男性です。各集落で作る花が決まっているわけではありませんが、得意なものとして、概ね決まっています。材料はほとんどが和紙で、中には地元でハシマメと呼ばれるキブシの髄を薄く切り、先をカーブさせて一枚ずつ芯に貼り付け、中央部分には、キハダを削り黄色く色付けをした菊を作るものもあります。和紙を円錐状にまるめて組み合わせたテンシンボタン、紙を交互に重ねて作る折菊、四角い紙の先を竹筒に巻いて絞って作るむくげやボタンがあります。これらの花は、ほとんどが白色です。これは灯篭の透かし模様から漏れるろうそくの灯りで照らし出された際に暗がりに白色が映えるためで、赤い色などは黒く見えるそうです。
踊りの奉納は、上の宮神社、大川神社、そして志古淵神社の3ヶ所で行われます。各集落からの一行は、上流の上の宮神社に集合し、まず、上の町と中の町の上組が踊りを奉納 し、次の大川神社では下の町と宮の町と川合町の下組が奉納しますが、これは年ごとに上組と下組が交代で奉納します。そして伊勢音頭を唄いながら志古淵神社にやってきます。
志古淵神社での奉納も唄に合わせてゆっくり花笠を揺らし、夜空に幻想的な風景を浮かび上がらせています。踊りの当日に披露されるのは、レパートリー14曲のうち7曲ですが、次の年には別の7曲が唄われます。歌詞のみでは130曲あまり伝わっています。
かつては、翌日に笠やぶりという笠の解体が行われ、その際、意中の女性に花を贈ったそうです。長老の皆さまにうかがっても言葉を濁し、「そんなん聞いたことあるなあ…」と、はにかみながらおっしゃるのみで、定かではありません。
4.久多の山村生活用具
京都市登録有形民俗文化財「久多の山村生活用具563点」は、それらが単体で存在するのではなく、今まで述べてきた有形無形の文化財と大きく関わっています。また、その種類も多岐におよび、衣生活用具、食生活用具、住生活用具、紡織用具、山樵用具、農作業用具、狩猟用具、漁撈用具、諸職関係用具、運搬具、人の一生用具、信仰用具、などに分類することができます。収蔵されている資料は、かつての久多の生活がわかる道具ばかりです(写真4)。
特に興味深いのは、使ったことがある人たちが身近に存在することです。収集した資料にすべて情報を付加することができます。衣生活用具では、昭和30年頃、久多から久多にお嫁に来た人が、母親が織ってくれた着物を持ってきた、嫁入りした先では仕事着などを姑から織らされたと、日常的に機織りをしていたことがわかります。かつて麻を栽培し、刈り取った麻を蒸す「麻蒸し桶」も多くのお宅で残っていました。また、とあるお宅では、立派なマントがありました。それは、ご主人が京都に行くときに着て行ったもので、帽子とセットでありました。
さらに栃の実は、山間の貴重な食料の一つです。水につけて灰汁を抜く作業は、大変手間がかかるものです。栃餅づくりに使用する道具に「とちへぎ」があります。皆さんとても使い込んだもので、現在も現役で使っておられ、資料としては3点収集しています。基本的には、2枚の板を重ねてひもで固定したものです。その間に栃の実を入れひねって皮をむくというものですが、ひとつとして同じ大きさや形はありません。どの道具も、使い勝手が良いように工夫されていることが見てとれます。
山から枕木の木を伐りだしたり、炭焼きをしたり、久多の人たちは、その時代時代に応じた経済活動をされていたことが、山村生活用具からわかります。
現在、563点の資料は、久多いきいきセンターの3階に収蔵しており、久多里山まつりの日などに地元で公開されています。窓には、遮光カーテンを設置し、外光が入らないよう、また、収蔵棚には、久多周辺で伐採され、十分枯らした杉の木で地元の方が簀の子を作って下さり、空気の流れがある文化財の収蔵環境としましては、非常に良い状態で保管されています。
おわりに
久多で育った人たちの多くは、拠点を市街地に持ちながらも、祭礼や行事、一日講などでは、地域コミュニティの一員として参加され、久多の活性化を目指し、久多の魅力を発信するため、「久多 文化遺産散策マップ」の作成、案内板の設置などに取り組んでいらっしゃいます。
現在では、民宿1軒、農家民宿7軒と、宿泊施設も充実し、京都市の構造改革特別区域計画おこしやす「京」のどぶろく特区(平成29年5月認定)の制度を用いて、どぶろく「久多日和」が販売されています。
私は、久多をフィールドとし、約10年、久多に暮らす人たちと接してまいりましたが、伝統を守り継承される一方、革新にも力を注いでおられることをいつも感じることができます。
7月から8月にかけて、久多の新名物でもある北山友禅菊が満開を迎え、久多の夏を彩ってくれます。