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特集 知られざる京都の文化財 3「祇園祭保昌山前懸胴懸下絵」

京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課技師
安井 雅恵

はじめに

7月になると、京都は祇園祭で賑わいます。7月1日の吉符入きっぷいりに始まり、くじ取り式、山鉾建てと行事は次々に続き、7月17日には山鉾巡行を迎えます。きらびやかな装飾品で飾られた32基の山鉾が、都大路を巡行するさまは壮観です。
「京都祇園祭の山鉾行事」は平成21年9月に、日本を代表する無形文化遺産ということで、ユネスコの無形文化遺産に登録されました。日本の三大祭にも数えられ、これほど、「知られざる」という言葉がそぐわない祭礼も少ないのではないかと思います。しかし、山鉾を飾る装飾品の数々が何を表わしているのか、現代人の目にはわからないことも少なくありません。ここで、御紹介する円山応挙筆「祇園会保昌山前懸胴懸下絵ぎおんえほうしょやままえかけどうかけしたえ」も、祇園祭に関連する作品としては、すでに良く知られたものですが、描かれた主題について、知られていなかった点があります。今回はそこに焦点をあてて、主題探しの面白さ、もどかしさなどを追体験していただければと思います。

1 見事な応挙の下絵

図1 保昌山

図1 保昌山

保昌山は、東洞院通松原上る燈籠町から出される舁山かきやま(図1)です。御神体人形は平安中期の貴族の平井保昌ひらいやすまさで、武勇で知られた保昌が恋人のために紫宸殿に忍び入り、紅梅の枝を持ち出した姿を表しています。応仁の乱以前から巡行に参加していたと記録される由緒のある山で、古くは「花盗人山」の呼び名でも親しまれました。他の山鉾から少し離れたところに位置しているため、観光客の喧噪はそれほどではありませんが、この山のちまきは縁結びの御利益があるということで、若い女性には人気があります。
祇園祭の山鉾の多くは、江戸時代に天明の大火(1788)、元治の兵火(1864)という二度の大火で、本体や道具類を焼失しています。保昌山も同じく、多くの道具類を失いましたが、辛くも火災を免れ、今日まで伝えられたものの中に、緋羅紗地に豪華な刺繍で唐人物を表した前懸、胴懸があります。裏地は修理などのために取り外され、現在は別保存されていますが、「画工 圓山主水まるやまもんど(中略)安永二癸巳歳六月日」の墨書があり、応挙が下絵を手掛け、安永2年(1773)6月に完成したことがわかります。そして、幸いなことに、応挙が描いた下絵も保昌山に伝えられています。
応挙の下絵は、前懸分1枚、左右胴懸分2枚で、現在はそれぞれ2曲と6曲の屏風に改装され、6曲屏風の方は、中央の4扇に本紙が貼られています。下絵らしく折り畳まれた跡があり、表面には擦れもありますが、おおむね保存状態は良く、美しい淡彩が残っています。下絵ながら描写の精度は高く、人物、動物とも、本画を彷彿させるほどで、壮年期の応挙の力量が十分にうかがえます。一方で本画と異なり、応挙の繕わない、生の筆使いが見てとれるのは、下絵ならではの面白さと言えるでしょう。また、背景に紅が刷かれており、応挙が刺繍の下地である緋羅紗を想定していたことを示していると思われます。絵師の創作過程がしのばれて興味深い点です。

2 伝承された主題の謎

図2 前懸「蘇武牧羊図」

図2 前懸「蘇武牧羊図」

それでは、描かれた内容を見ていきましょう。
前懸(図2)に描かれているのは、岩場に座る年老いた唐人物です。右手に雲気の立ち上る宝珠を乗せて、顔の前にかざしています。老人の傍には霊芝が生え、隣には茶と白の羊が2頭寝そべっています。
左(西)側の胴懸(図3)には、波の上に乗る壮年の人物と従者、虎2頭が描かれています。長い豊かな髭を蓄えた人物は、風に衣服をなびかせながら、後方の虎と従者を振り返っています。2頭の虎のうち、手前の虎は通常の毛皮ですが、奥の1頭は白い毛皮をしています。

図3 左(西)側の胴懸「張騫に虎図」と言われていましたが…。

図3 左(西)側の胴懸「張騫に虎図」と言われていましたが…。

右側の胴懸(図4)も同じく波上の人物です。先頭は白い髭の福々しい相好の老人です。両手で杖をつき、傍らには鳳凰が寄り添っています。後ろの流木には女の子と見える可愛らしい容貌の唐子と従者が乗っています。唐子は巻物を握り、従者はザクロを捧げ持っています。流木は枯れている様子ながら、枝の先に桃色の可憐な花をつけており、尾の長い鳥も止まっています。

図4 右(東)側の胴懸「巨霊人に鳳凰図」、果たして…。

図4 右(東)側の胴懸「巨霊人に鳳凰図」、果たして…。

町内では、前懸の主題が「蘇武牧羊図そぶぼくようず」、左側は「張騫ちょうけんに虎図」、右側は「巨霊人きょれいじんに鳳凰図」と言われていました。しかし、残念なことに主題を記した同時代の文書類は残っておらず、裏地の墨書にもタイトルは記されていません。
伝えられる主題は、現代人にはなじみが薄い人物ではないでしょうか。蘇武は中国前漢の人で、西域の匈奴に使者として遣わされましたが、敵の手に落ち、北海(現在のバイカル湖)のほとりに流され「雄の羊が乳を出したら帰してやる」と言われても、決して節を曲げず、抑留後19年で帰国を許され、漢に戻った歴史上の人物です。張騫も前漢の人物で、やはり西域の大月氏に使者として派遣され、西域の知識を持ちかえった功績で博望候となりました。巨霊人は、岩を砕いて水流を通したとされる伝説上の人物です。
しかし、応挙の下絵は、仙人を描いた、いわゆる群仙図の要素が多く、蘇武や張騫といった歴史上の人物が主題というのは、どうもしっくりこないのです。それでいて、八仙図のようによく知られた仙人の図様でもありません。そこで、改めて調べ直してみると、次のようなことがわかりました。
主題に関する最も早い記録は、山鉾の装飾などを詳細に筆記した文化11年(1814)序の『増補祇園御霊会細記』で、「胴幕 三方共猩々緋仙人のぬい」とあり、江戸後期には群仙図と見られていたことがわかります。個別の主題が文献に記されるのは、明治8年(1875)、京都府の「八坂神事山鉾錺具取調」に対して燈籠町から上げられた「保昌山飾付」で、「一 前懸 猩々緋/羊ニ蘇武之図縫/一 両横懸 左同白鳳凰ニ張騫之図縫/右同虎巨霊人之図縫」とあります。制作から百年を経ても、町内では主題が伝えられていたわけですが、重要なのは「張騫」と「鳳凰」が、「巨霊人」と「虎」が組み合わされている点で、現在のペアとは異なっています。この組み合わせは、同時代の複数の文献に見られるので、少なくとも明治期にこの題名だったことは確かです。一体、どこで入れ違いが起こったのでしょう。
さらに時代を下り、昭和に入ると、若原史明(わかはらしめい)(1895~1949?)の『祇園会山鉾大観』に行きあたります。若原史明は祇園祭の山鉾の歴史と装飾品を詳しく調べた在野の歴史家で、克明な調査ノートを残しました。それが、史明の没後まとめられ、『祇園会山鉾大観』として昭和57年に刊行されます。その中で、保昌山の懸装品について2回触れ、その片方が「張騫に虎」「巨霊人に鳳凰」となっています。単純な錯誤ですが、『祇園会山鉾大観』の影響力は大きく、これ以後、「張騫に虎」「巨霊人に鳳凰」が定着し、現在に至ったと思われます。
では、「巨霊人と虎」「張騫と鳳凰」の組み合わせで先行作はあるでしょうか。

図5『絵本写宝袋』巨霊人

図5『絵本写宝袋』巨霊人

まず、巨霊人と虎を描いた作品は複数挙げられます。例えば、橘守国たちばなもりくに絵本写宝袋えほんしゃほうぶくろ』(享保5年〈1720〉明和7年〈1770〉再板版)には、巨霊人と虎が挿絵に描かれ、本文にも「巨霊人(中略)白虎を愛す」と記されています(図5)。
他方、張騫には浮き木に乗って黄河を遡り、天の川に至ったという不思議な伝説があり、17世紀の画題集である『後素集こうそしゅう』の神仙の項目にも「乗槎図じょうさず 張博望ちょうはくぼう(張騫のこと)漢人 浮木に乗、こき行て牽牛げんぎゅう織女しょくじょに逢也」と記されています。流木に乗る張騫図の作例も複数指摘されており(杉原たく哉「張騫図と乗槎説話」〈松枝到編『象徴図像研究―動物と象徴』言叢社、2006年〉)、「舞踊図屏風」(京都市蔵、図6)の画中画にも描かれています。また、張騫はザクロを東方にもたらしたとされ、応挙の下絵のザクロはこれを示すと思われます。唐子の持つ経巻は、漢に多大な恩恵をもたらした西域の知識を暗示するものではないでしょうか。

図6「舞踊図屏風」(上下反転)張騫

図6「舞踊図屏風」(上下反転)張騫

そして、張騫と巨霊人に共通することは、水に深く関わりがある点で、両者が波上に描かれたのはそのためでしょう。つまり、胴懸の二人物は、明治8年の書上げのとおり、「張鶱と鳳凰」「巨霊人と虎」とみなせます。
しかし、いろいろな問題が残っています。その最たるものは、前懸の主題です。江戸後期の人々が仙人と見たように、前懸の人物については、武人の蘇武よりも、岩を羊に変えた仙人の黄初平こうしょへいを充てたほうが適切かとも思われますが、応挙が描いた他の「黄初平図」では、黄初平を青年の姿で描いており、老人の例を見いだせていません。「蘇武牧羊図」という伝承を積極的に訂正する材料がないため、現状では主題の特定は保留ということになります。

おわりに

応挙の下絵の主題探しは、町内の伝承が「不可解だ」というところから始まりました。調査当初は、別の「正解」があるだろうという思い込みで、仙人の図様を求めて右往左往しましたが、行き着いたのは伝承通りの人物だったわけで、不可解であろうと町内の伝承を軽視すべきではないという、ごく当たり前の教訓を再認識しました。このケースと同様、不思議な題名が伝承される山鉾の装飾品は他にもあります。のみならず、各山鉾の名前の由来となっている御神体人形ですら、現代人からすれば「何故これを選んだのか」というものがあります。当時の常識や感覚と、我々のそれとの間には、想像以上に大きな溝が横たわっています。その溝を少しずつ埋め、一歩、また一歩と向こう側へ近付く手ごたえが調査の醍醐味でもあります。応挙の下絵も、ようやく細い道が途中までついたところ。今後も調べ続けたいと考えています。

(会報101号より)