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特集 知られざる京都の文化財 4「賀茂季鷹の蔵書」

はじめに

図1 賀茂季鷹肖像画(個人蔵)

図1 賀茂季鷹肖像画(個人蔵)

上賀茂神社の東には、かつて社家(神社の神職の家系)が集住して社家町を形成していました。その景観は現在もよく残っており、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。江戸時代後期、その一角に賀茂季鷹(1754~1841、図1)という祀官が住居を構えていました。季鷹は上賀茂神社の祀官であると同時に、少年期から有栖川宮家に仕えて、職仁(よりひと)親王に歌道を学び、歌人としてその名を知られていました。当時の都の紳士録である『平安人物志』には、文化10年(1813)版から「歌」の部に名前が挙げられ、文政5年(1822)版以後、トップに挙げられています。絵画調査の折にも、季鷹が賛をした掛軸などをしばしば目にすることがあり、季鷹が名声を得ていたことがうかがえます。季鷹が『古今和歌集仮名序』にちなんで「雲錦亭うんきんてい」と名付けた別荘は、文化サロンとして機能し、京都はもちろん、本居宣長などを筆頭に地方からも訪問客が絶えなかったといいます。訪れた文人墨客は、季鷹の蔵書をお目当てのひとつとしていたことでしょう。季鷹は京でも指折りの蔵書家であったのです。季鷹が蒐集した大量の典籍は、ほぼまとまった状態で季鷹の家系に残されていました。今年の4月に、それらは「賀茂季鷹関係典籍類かものすえたかかんけいてんせきるい」と命名され、京都市の文化財として指定されました。

指定に至るまで

近年まで季鷹の蔵書は、季鷹が暮らした場所で、子孫の方に大切に保管されていました。しかし、一般の家庭で大量の典籍を、状態良く保存するのはたいへん難しいため、所有者のご判断で九州大学に寄託されることになりました。しかし、寄託を受けられた教授の退官や様々な事情で、京都市歴史資料館に移管されることになり、季鷹の蔵書は京の地に戻ることになりました。
段ボール箱にして60箱以上に上る蔵書には、季鷹の没後、子孫が集めた書籍も含まれていましたが、典籍研究の第一人者である藤本孝一氏が1年以上かけて全点の目録を作成されました。この成果を受けて、京都市が指定に向けて再調査に取りかかりました。具体的には、本の採寸、丁数(1冊を構成する紙の枚数)の確認、奥付の採録などの作業があり、これに2年を要しました。また、内容を吟味して、全部で1400件以上に及ぶ蔵書を、江戸時代までの典籍1269件、冊数にして3100冊余りまで絞り込みました。季鷹の生涯や人となりを知る上で重要な資料である季鷹の墓碑には、「和漢の書籍数千巻を蔵す」というくだりがあります。調査によって、これが決して誇張された数字でないことが証明されたわけです。歌人として一家を成し、国学も学んだ季鷹が自分の勉学のため、また好奇心を満たすために蒐集した蔵書は貴重かつ膨大で、散逸せずその家系に伝えられたのは、たいへんに意義深いことです。文化財保護審議会でも重要性が認められ、京都市の指定文化財となりました。また、当初書物が納められていた倹飩式の書籍箱も現存しており、季鷹の蒐集の実態を示すものであるので、附として指定を受けました。

「和漢の書籍数千巻」~季鷹蒐集の本

近世までは、「本」と言えば人が筆で書きうつした写本が主たるものでしたが、江戸時代に入ると1枚の版木に文字を刻んで印刷する版本文化が隆盛を迎え、多くの版本が流通するようになりました。しかし、出版に乗らない本は依然として多く、江戸時代の愛書家にとって、筆写は書籍蒐集の重要な手段であり続けました。季鷹の蒐集品にも多くの版本が含まれていますが、件数でいくと全体の6割程度が写本で、季鷹も同様にして本を集めたことが見てとれます。季鷹自筆の写本も多く、奥書きに「ある人物から借り受けた本を浪花の客舎で筆写した」と記すものもあり、旅先でも熱心に書籍を求めた季鷹の姿が浮かび上がります。

図2 季鷹の蔵書印「歌仙堂記」

図2 季鷹の蔵書印「歌仙堂記」

また有名、無名に関わらず、蔵書家たちは自らの所蔵品であることを示すために蔵書印を作り、愛書に押していました。そのため、蔵書印でその本がどういう人物の手を渡ってきたのかがわかります。季鷹も書籍に「季鷹」「賀茂県主」「雲錦」「生山書庫」「歌仙堂記」「上賀茂歌仙堂」(図2)といった蔵書印を押しています。「雲錦」「生山」はそれぞれ季鷹が名乗った号であり、「歌仙堂」は、邸内に柿本人麻呂と山辺赤人を祀った御堂「歌仙堂」を設けたことに由来します。季鷹本人の蔵書印の他にも、様々な蔵書印が見出せます。
書籍箱には源氏物語の巻名が与えられています。残念ながら傷みがきつく、中の書籍はすべて取りだされていますが、多くの本の表紙に源氏物語の巻名が記されており、当初の収蔵の姿をうかがい知ることができます。加えて、書籍から知りえない情報が記されている点も貴重です。例えば、蓋に記された墨書銘「今昔物語 参拾冊(蓋表)/天明三年於江戸新写 季鷹(蓋裏)」から、季鷹が明和9年(1772)から寛政3年(1791)の間、遊学していた江戸でも意欲的に書籍を蒐集していたことが見て取れます。同じく江戸での蒐集を示す墨書に、「日本事纂 四十二冊(蓋表)/在江戸中高松候御蔵書を奥州棚倉小笠原佐渡守殿もて令拝借令冩畢 季鷹(蓋裏)」というのもあり、季鷹が大名とも身分を越えて書籍のやりとりをしたことを示しています。
それでは、蔵書の内容に移りましょう。蒐集品は分野で言うと、叢書、目録、神道、仏書、思想、辞書、物語、随筆、日記文学、歌書、懐紙、音楽、芸能、美術、故実、儀式、記録、地誌、医書、教科書、漢籍と多岐に渡ります。歌人であった季鷹らしく、歌書の割合が最も多く、物語や日記文学などの日本の古典作品も多数に上ります。季鷹による朱筆の書入れがびっしりと入ったものも多く認められます。源氏物語関係の写本も多く、季鷹の書込みがある『源氏物語』写本45冊からは、季鷹の研究の様子がうかがえます。他方、漢籍には全く書入れがありません。一般教養として備えていたものでしょうが、季鷹の興味のあり様が如実に表れていて、興味深い点です。

図3 『清輔朝臣片仮名古今集下』

図3 『清輔朝臣片仮名古今集下』

蒐集品の中でも、特に重要な典籍は、鎌倉時代の古写本『清輔朝臣きょすけあそん片仮名古今集下』1帖(図3)です。『古今和歌集』の伝本にはいくつかの系統がありますが、清輔本は原型を想定できる伝本のひとつに位置づけられています。季鷹が所蔵していた清輔本の古写本は、添状によると、文化8年(1811)の歌仙堂落成を祝って知人から贈られたもののようですが、静嘉堂文庫に所蔵される模写本によって、その存在が知られるのみで、幕末から現代に至るまで、実物を見た人がほとんどいないという稀覯本でした。同書は列状装大和綴という綴じ方をされていますが、紙の折り目の部分が切り放たれているので、裏(紙背)が見られる状態になっており、一旦使用された紙の裏を利用して書写されたことがわかります。従来、平安後期の歌人藤原清輔筆の写本とされていましたが、紙背文書の書体などから鎌倉時代中期頃に筆写されたものと見られています。

図4 『蜻蛉日記』

図4 『蜻蛉日記』

他に、特徴的な書物を挙げていくと、目録部では『歌仙堂書籍目録』があり、季鷹蒐集の全容がうかがえます。また、『歌仙堂書籍出納録』は、季鷹蔵書を借用した人物が記されており、季鷹の交友関係がしのばれて貴重です。神道部は、神職にあっただけに部数も多く、130点余に及びます。中でも『賀茂競馬記』は上賀茂神社の競馬について記したもので、注目されます。これに対して、仏書・思想・辞書部は少ないのですが、辞書である『慶長版節用集』は、古活字版の貴重な版本です。古活字版とは、近世初頭の半世紀の間に行われた、木活字を組んで印刷した版本のことです。他にも日記部に、珍しい『蜻蛉日記かげろうにっき』の古活字版があり、季鷹が書入れをしています(図4)。懐紙・音楽・芸能・美術部はそれぞれ少ないものの、正倉院宝物を江戸時代に写した『東大寺三蔵什物写』は淡彩を施してあり、入念に写された巻子本(巻物)です。記録部では、大黒屋光太夫が漂着先のロシアから生還し、11代将軍徳川家斉に拝謁した折の記録『寛政五年将軍家漂民御覧記』が、挿絵入りで興味深い写本です。季鷹は、寛政5年(1793)には京に戻っていましたが、このセンセーショナルな出来事に同時代人として関心があったのかもしれません。この他にも重要な書籍、未紹介の書籍も多く含んでおり、貴重な文化遺産と言えるでしょう。

おわりに

季鷹の蔵書は個人の所蔵品であることに加え、全容が不明であったため、これまで公開されることはありませんでした。しかし、京都市の文化財として指定されたことを受け、今秋、京都市歴史資料館の特別展「賀茂季鷹の文学」(会期:平成23年11月19日~平成24年1月11日)でお披露目される運びとなりました。実物を見るまたとない機会ですので、是非お運びいただければと思います。

京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課技師
安井 雅恵
(会報102号より)