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特集 知られざる京都の文化財 2「久多の大般若経」

はじめに

図1 久多地域(赤枠内)

図1 久多地域(赤枠内)

京都市左京区の北部、滋賀との県境に位置する久多くたは、五ヵ町からなる山あいの集落です(図1)。その歴史は古く、康平7年(1064)に法成寺領であったことが知られています。現在は過疎化が進み、住民の多くが高齢者となっていますが、古くからの習俗や儀礼は今に至るまで受け継がれています。とりわけ良く知られるのは「久多の花笠踊」(図2)でしょう。国の重要無形民俗文化財にも指定されている久多の花笠踊は8月24日の夜、志古淵神社しこぶちじんじゃに奉納される盆踊りの一種で、暗闇にゆらゆらと揺れる花笠が幻想的な風情を醸し出します。また、志古淵神社本殿や岡田家文書など、市の指定・登録となった有形の文化財も伝えられています。


図2 久多志古淵神社と「久多花笠踊」

図2 久多志古淵神社と「久多花笠踊」

今回は、これら同様久多に伝えられ、今年新たに市の文化財に指定された大般若経だいはんにゃきょう(図3)についてご紹介します。


図3 久多の大般若経(巻1)

図3 久多の大般若経(巻1)


長きに渡る調査

大般若経(「大般若波羅蜜多経だいはんにゃらみたきょう」)は唐の玄奘三蔵げんじょうさんぞうが訳した600巻からなる大部の経典です。日本では奈良時代以降、国家安泰、除災招福などを祈願した転読が盛行し、現在でも広く行われています。
志古淵神社の宝蔵に納められていた久多の大般若経(以下、「本品」と略します)も、毎年8月10日に中の町の観音堂(通称普門閣)で転読されていました。「千日参り」と称して行われる転読の様子は、地元の女性たちが執筆した『京都・久多―女性がつづる山里の暮らし』(久多木の実会編、ナカニシヤ出版、1993年)で、次のように記されています。「当日(筆者注:8月10日)、町内の人たちはお菓子や煮物などのお供えを持って、2時頃にお参りします。その時は600巻ある大般若経の中から40巻くらいの読経があります。(中略)読み終えた巻物を巻き返すのもたいへんでしたが、お参りの人たちが拝んだ後で有難く巻かせてもらいます。読経の後は、お参りの人たちの持ち寄った物を広げ、お酒もあり、子どもにはお菓子があり、とても賑やかです。」この行事は現在も続いています。私は今年初めて拝見したのですが、読経後の雰囲気は和やかでうちとけたものでした。

図4 志古淵神社宝蔵内の経櫃

図4 志古淵神社宝蔵内の経櫃

京都市文化財保護課が初めて本品を調査したのは2003年のことでした。きっかけは本品を所有する久多自治振興会から受けた、大般若経の保存に関する相談でした。実物を確認するため久多に赴き、志古淵神社の宝蔵と観音堂を調査しました。宝蔵内には経櫃きょうびつ4合があり、これらに大般若経が納められていました(図4)。この時、建保2年(1214)の年記を発見し、他にも鎌倉時代の奥書がある筆写本であることがわかりました。そのため、2回目の現地調査では、経典類に詳しい京都国立博物館の赤尾栄慶氏に同行、調査をお願いしました。その結果、本品は文化財として貴重であり、全巻に渡る詳細な調査が望ましいという所見を得たのです。しかしながら、本品は膨大な量で、長期の現地調査は様々な面から困難でした。また、志古淵神社の宝蔵は湿気が多く、文化財を保管するには問題のある状態でした。そこで、調査と保管を同時に行ってくれる博物館等へ寄託してはどうか、という話が持ち上がりました。ただし、本品を寄託することで、最も懸念されたのは千日参りの存続でした。それも地元の理解と協力の元、8月10日に里帰りさせるということで折り合いがつきました。その後、地元が独自に働きかけて、近在の寺院から大般若経を借りられる目途がたち、千日参りが続けられることになりました。
調査込みの寄託を受け入れてくれる博物館を探し、赤尾氏のご紹介もあって、2004年12月に大谷大学博物館への寄託が実現しました。大谷大学博物館では、宮﨑健司教授が主体となって全巻の詳細な調査を行って下さいました。2007年秋には、調査の中間報告に当たる「久多の大般若経」という展覧会が開催されています。その後も調査は続き、博物館への寄託から4年を経て、本品の全容が明らかにされました。

興味深い奥書~「久多の大般若経」の特徴

それでは、宮崎教授の報告書をもとに、本品の特徴を述べていきたいと思います。
本品は1巻(巻159)を欠くものの、599巻が伝存しています。書写奥書は鎌倉から室町時代のもので、年記がないものも、多くは本紙の様子から鎌倉時代と考えられます。料紙にしばしば押されている多宝塔印は大中小の3種類があり、それぞれの印が押された時代には隔たりがあるようです。

図5 巻1 奥書

図5 巻1 奥書

志古淵神社の宝蔵では、本品と木版摺の五部大乗経(巻子装)約200巻とが混交した状態で、経櫃4合に納められていたこともわかりました。経櫃4合のうち3合が白木、残りが塗りのものであり、白木のものにはすべて貞和2年(1346)の墨書が確認されています。すなわち、白木の経櫃が当初のもので、本品はこれらに納められていたと思われます。

本品の最も早い書写奥書は、巻1の建保2年(1214)のものです(図5)。そこには慶顕なる僧が九条高倉で書写したことに加えて「焼失本寺已後六十二日愁歎之中執筆」と記されています。ここで言う「本寺」は三井寺のことで、「焼失」は建保2年4月15日に比叡山の衆徒が三井寺に焼討ちをかけ、129宇を焼失したことを指しています。つまり、慶顕は三井寺の僧ということになります。この他にも「三井良俊」や「智証門人天台末学」を名乗る長俊、「三井僧正道珎」という名前が記される奥書があり、本品の書写に三井寺の僧たちが深く関っていることがうかがえます。

図6 巻102 奥書

図6 巻102 奥書

また、建保4年(1216)の書写奥書では、顕祐という僧が、「八幡御宝前」安置として東山馬場辺りで書写したとありますが、この八幡宮がどこにあたるかは、はっきりとしません。他方、同年には清水寺の少別当や松尾寺(京都府舞鶴市)の覚命という僧も書写しています。
建治2年(1276)や建武4年(1337)、永正14年(1517)など、のちの年記のある書写は補写と考えられ、奥書のあり様からほぼ建保2~5年(1214~17)に書写が終了したと思われます。
また、底本として法成寺本、対校本として阿弥陀峯本、八幡宮本が挙げられています。このうち巻102で法成寺本を底本にしたと記す僧は「聖覚」と署名しています(図6)。

この人物が、平治の乱で打ち果たされた信西(藤原通憲)の孫であり、「安居院法印」と称された聖覚(1167~1235)ならば、本品は摂関家とも何らかの関係があったと想像されます。「安居院法印あぐいのほういん」聖覚は浄土宗の開祖法然の高弟で、洛北の里坊安居院に住いしたことからその名で呼ばれます。法然には貴賎の隔てなく、多くの帰依者がありましたが、その中には九条兼実もいました。兼実の帰依は深く、自身の出家の戒師として法然を請じており、聖覚との交流を示す逸話も残っています。法成寺は周知の通り藤原道長が建立した摂関家ゆかりの大寺院です。一介の僧に法成寺本の筆写は許されなかったでしょうが、九条家との交わり浅からぬ聖覚なら、それもできたと思われるのです。
このように三井寺の僧や「安居院法院」聖覚とおぼしき人物などが筆写に関わった本品が、なぜ久多に伝わったのでしょう。残念ながら、奥書にも久多伝来について記すものはありませんでした。ただ、経櫃には「奉施入山城國久多庄奉社 貞和二年九月四日」と記されており、少なくとも貞和2年には久多に納められたことが判明します。久多は貞和2年には足利家領でしたが、康平7年 の時点では法成寺領であったことが知られています。法成寺との縁が久多伝来に作用したのかもしれません。
ところで、鎌倉時代に成立した本品を守るため、久多庄では適宜修理を行ってきたようです。本品には、その修補銘も豊富に記されており、延慶2年(1309)、永正14年(1517)、天文19年(1550)、天和3年(1683)の修理が確認できます。特に永正14年の修補銘には細かな修理費用が記されており、当時の修理のあり様がうかがえて興味深いものです。また、天和3年の修補銘は複数の巻に記されており、久多挙げての修復事業だったことが知られます。内容も多岐にわたっており、「ナニコトモ修行ト思イシフリセバ心ニかカル事ノ葉モなし」などという道歌的な文言も見られ、当時の人々の心象も吐露されているようです。大社寺ではなく、山あいの集落の人々が私財を投じて、本品を修復し守ってきたことには大きな意義があります。

おわりに

調査を終えた本品は、現在も経櫃とともに大谷大学博物館に寄託されています。ずいぶん傷みも出ており、紙継ぎ部分の糊が離れて断簡化が進むなど、状態は決して良好とは言えません。久多に伝来して650年余り、地域で大切に守り伝えた文化財をできるだけ良い状態で後世に渡すことが今後の課題と言えるでしょう。

京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課技師
安井 雅恵
(会報100号より)