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特集 京都の初期障壁画 1「長谷川等伯の障壁画」

今回から4回にわたって京都の寺院に伝わる障壁画を御紹介したい。いずれも桃山時代から江戸時代初期にかけてのものを予定している。近年、デジタル技術が発達し、京都の寺院にある著名な障壁画が次々とデジタル複製のものと入れ替えられつつある。文化財の保存上致し方のないこととは思うのであるが、かつての状況を知るものとしては、現場で本物を見ることができなくなることにはやはり一抹の淋しさを禁じ得ない。複製化された場所では、せめて室内に入っての体感的な鑑賞ができるようになればと願っている。今回から紹介する障壁画のなかにはデジタル複製が行われたところはないが、通常非公開のところや博物館等に寄託されているものも含まれる点はご了解いただきたい。初回は桃山時代の巨匠の一人、長谷川等伯の障壁画2点を取り上げる。

智積院障壁画

東山七条の智積院の宝物館には、桃山時代を代表する国宝の金碧障壁画が収蔵展示されている。実はこうした名品の襖絵を間近にガラス越しでなく鑑賞できる寺院は京都でも数少ないのが現状である。また、大坂城や聚楽第などの御殿が伝存しない現在、豊臣秀吉・淀君・徳川家康らが確実に目にした障壁画を、400年の歳月を超えて鑑賞できるところはここしかないといって良いだろう。
有名な楓図や桜図を始め、松に秋草図、松に黄蜀葵図、松に立葵図、雪松に梅図などが一室に展開する空間は壮観の一語に尽きる。巨大な樹木と可憐な四季の草花が織り成す優美な世界は、桃山時代盛期ならではのものである。
これらの障壁画は、もとは天正19年(1591)に3歳で他界した豊臣秀吉の長子、鶴松の菩提寺として秀吉が建立した祥雲寺客殿のもので、三回忌法要が営まれた文禄2年(1593)8月5日には完成していたと考えられる。作者は、一代で画壇の頂点に上り詰めた長谷川等伯(1539~1610)とその嫡子久蔵ら、長谷川派一門である。当初100面以上あったと思われる本障壁画は、その後、2度の火災や盗難に遭ってその大半を失ったが、幸い主要画面であった20数面が現在も伝わっている。祥雲寺は元和元年(1615)にその伽藍が徳川家康から智積院に与えられているが、その際に家康が祥雲寺について、都一番の寺ということは日本一の寺であると称したとも伝えられる。なお、平成4年(1992)に、障壁画が飾られていた客殿の遺構が境内の発掘調査で検出され、当時としては最大規模の客殿であったことが確認されている。
ところで長谷川等伯の作風上、ここで注目したいのは巨大な樹木と可憐な草花というモチーフの取り合わせである。生命力豊かな巨大な樹木というと、この時代まず狩野永徳が想起される。結論からいえば等伯は永徳の作風を取り入れたのである。そのことは豊臣秀吉が建てた母大政所の菩提寺、大徳寺内の天瑞寺(廃絶)客殿の障壁画からうかがえる。同障壁画は明治初期の廃仏毀釈の際に失われ現存しないが、江戸時代の画家がその図様を写した小型の写本が2種ほど紹介されている。そこには巨大な松樹が描かれているのである。狩野派と敵対していた等伯が敢えて永徳の図様を採用したということは、つまり等伯は祥雲寺の障壁画制作にあたって、秀吉の好みに合わせた図様として巨樹表現を採用したということである。しかしながら等伯は単純に永徳画の模倣をしたのではなかった。というのは、等伯が祥雲寺に描いた作品には、単に巨樹が描かれるだけではなく、そこに巨樹を取り巻くように華やかな草花が添えられているからである。豪壮さから優美さへ、という桃山時代前期から桃山時代後期へと変化する美意識の転換をこの祥雲寺の等伯画が如実に物語っているのである。
それでは等伯は何故、草花を添えたのであろうか。生命力のある巨樹という永遠の存在と、可憐な草花という冬が来れば枯れ行く儚い存在。等伯の中には二者の対比が構想されていたのではないかと考えられる。その発想の源には、天下人秀吉と幼くして亡くなった鶴松、という存在が介在しているのかも知れない。智積院に現在伝わる障壁画のなかで、この対比が最も強く感じられるのが秋草を描いた名作「楓図」である。
等伯の作例を見ていくと、同様な感覚が発現された作例が他にも認められる。1点は彼のもう一つの代表作である国宝「松林図屏風」(東京国立博物館蔵)である。制作時期には諸説あるが、祥雲寺障壁画制作よりは遅れるという点では諸説一致をみている。6曲1双の屏風に描かれているのは四つの群れに分かれた松林と雪を頂いた遠山のみである。そのほかは靄にしっとりと包まれた何も描かれない空間が広がる。松樹は古来、冬でも青々とした葉を茂らせることから不老長寿の象徴とされている。本図においても画面右上に描かれた雪山から冬の情景であることが指摘できる。そして、松樹を取り巻く靄は一瞬の光景であり、次の瞬間には形姿を変え、あるいは消え去る運命にある。この作品の主題もやはり、不変のものと変化するもの、換言すれば永遠性と儚さ、にあるのではないかと考えられる。また、等伯は祥雲寺障壁画制作の直後に息子久蔵を亡くしている。そうした喪失感が本図制作の動機と指摘することも可能であろう。
一体にこの時代は、現在のファインアートの作家のように、画家が自由に作品制作を行える時代ではない。特に一品制作である障壁画は必ず、権力者などのクライアントの意向を斟酌しながら制作が行われる。しかし、「松林図屏風」は障壁画の下絵の一部を、もとの図様の連続性を無視して再構成し屏風に仕立てたものと考えられている。本図に満月を付け足した同構図の「月夜松林図屏風」という近世初期の作品が近年紹介されているが、そうすると「松林図屏風」が現在の姿に整えられたのは等伯存命期である可能性が高くなる。等伯が自分自身の構想に従って、松林図を屏風として現状に仕立てたものと想定できるのである。

「楓図」

「楓図」 智積院所蔵  国宝・紙本金地著色・壁貼付・4面 写真/智積院 所蔵

禅林寺波涛図障壁画

等伯が同様な主題に基づいて制作したと考えられる作品をもう一つ取り上げたい。禅林寺は永観堂の名で親しまれる左京区の寺院である。その大方丈の中の間を飾っていた障壁画が等伯による「波涛図」である。現在は掛幅に改装され普段は拝見できないが、特別参観などの際に大方丈のもとの場所に掛けて公開されることがある。制作時期はやはり祥雲寺障壁画制作より遅れ、およそ等伯50歳代末ころが想定されている。寺伝では狩野元信筆と伝えるが、現在では結晶体を思わせるその特徴的な鋭利な岩皴表現から等伯真筆とみなされている。襖12面にわたって画面に描かれるのは、等伯の完成された真体表現の岩と流麗な線描からなる波涛、そして水墨画としては斬新な金箔による雲霞のみである。
この作品では「松林図屏風」の松が岩に、靄が波に取って代わっている。そしてそれを一種デザイン化、様式化された表現としているのである。繰り返しになるが、永遠不変の岩と、一定の形を持たず常に変化していく波、という主題なのである。ただし、智積院の「楓図」の秋草のように、また「松林図屏風」の靄のように、波は枯れ消えていく存在ではなく、波もまた永遠のなかで形を変化させるものとなっている点は注目される。等伯が話したことを本法寺の日通上人が書き留めた『等伯画説』の中に、等伯が、岩より水を描くことの方が難しく重要であると述べたくだりや、等伯の画系上の師である等春を庇護した画の名手細川成之の「波の絵」1双屏風の写しを等伯が所持していたことなどが記されており、等伯が波の描写に強い関心を抱いていた様子がうかがえる点は興味深い。
なお、波と岩のみという「波涛図」のモチーフがジャンルこそ違え、著名な竜安寺方丈庭園と類似している点もまた興味が引かれる。同庭園は漠然と室町時代の作庭と考えられているが、実際は近世初期まで時期が遅れるとの見解も強い。そうであれば、等伯と禅の関係にも注意が払われる必要がありそうである。行雲流水を絵に描けばまさに「松林図」と「波涛図」そのものといえる。

「波涛図」

「波涛図」 禅林寺所蔵  重要文化財・紙本墨画・全12幅のうち 写真/禅林寺 所蔵

長谷川等伯は北陸で活躍した20歳代から上洛後の70歳代まで、ほぼ間断なく作品の残る、同時代では稀有な画家である。一般的に、近世初期以前の画家の心象をうかがうことは作品や資料の不足から難しく、美術史研究のうえにおいても慎重にならざるを得ない。しかし等伯の場合は作品、資料ともに恵まれた状況にあり、今回取り上げた3作品に共通する主題から等伯の心象風景を考察することも決して無駄ではないように思われる。秀吉と鶴松、等伯自身と久蔵という、現実のなかでの喪失感に始まり、それを岩と波という、双方とも永遠性のある存在に置き換えたところに長谷川等伯という時代を代表する一人の作家の確かな歩みを見る思いがするのである。

成安造形大学教授
小嵜 善通
(会報115号より)