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文化財修理現場の現場から 「保存の為の模写事業 ~二条城二の丸御殿模写~」

有限会社川面美術研究所所長
荒木 かおり

はじめに

安土桃山時代から江戸初期にかけて戦国大名の活躍時には日本国中膨大な数の城閣が造営されました。二条城は天守閣、本丸(現在の本丸は御所より明治期に移築されたもの)、他の御殿は消失しましたが幸いなことに、二の丸御殿は寛永創建時の建造物です。御殿建築と内部の荘厳が今日にその有り姿を伝えているのは二の丸御殿が唯一の遺構です。
二条城障壁画は、1626年(寛永3年)徳川家光による創建時に作画されたもので、2000点以上の障壁画が現在も御殿を荘厳しております。
400年の時間を経た障壁画は紙の劣化、顔料の剥落、建具の損傷など多くの問題を抱えており、オリジナル障壁画を良好な環境へ移動し保存する必要がありました。しかし、オリジナル障壁画が収蔵されますと、御殿内は柱だけの空虚な空間となり、徳川、江戸初期の文化を伝える二の丸御殿の壮麗さは失われてしまいます。そこで、障壁画模写を作成し、オリジナルと嵌め替えていくというプロジェクトが京都市文化市民局の事業として1972年(昭和47年)に立ち上がりました。二条城二の丸御殿障壁画模写事業というこの事業は現在も継続中で、私は1979年(昭和54年)よりこの事業に関わっております。
文化財の大規模な模写事業として有名な物では、法隆寺金堂壁画模写事業が最古です。この事業には私の祖父と父が携わっておりました。これも建物から分離することができない壁画を模写という形で残し、別の場所にて保管するという文化財保存事業でした。残念ながら、この事業の際に火災に見舞われるという悲劇が起こりました。しかし、火災時には模写は完成しており堂外に有りましたので、壁画模写は消失を免れ、今日我々に白鳳の壁画を伝えてくれております。
このように建造物と一体になった壁画、障壁画の資料保存の為に、模写は大切な役割を果たしております。

模写の方法

図1 御殿内にてトレース作業

図1 御殿内にてトレース作業

図2 オリジナル画 金箔に損傷の跡が残る

図2 オリジナル画 金箔に損傷の跡が残る

図3 復原模写画 損傷個所を削除

図3 復原模写画 損傷個所を削除

図4 監修者との協議 模写室内

図4 監修者との協議 模写室内

法隆寺壁画模写より二条城模写が始まる迄はすべて現状模写という技法が使われておりました。現状模写はオリジナル絵画の情報をすべて絵で写し取るという手法で、絵以外の壁画のシミや汚れまたは板に描かれているものは木目も寸分たがわず丹念に写し取っていきます。これは漆喰に描かれた壁画も板に描かれた扉絵もすべて和紙に薄塗り絵の具を用いて描いていくのです。二条城障壁画模写も事業当初は従来通りの現状模写が行われましたが、膨大な障壁画の模写には、膨大な時間が必要であり、金箔の損傷状況をどのように写し取るかという難問もありました。
そこで復原模写という新しい模写方法が提案されました。復原模写はオリジナル画と同素材、同技法を用いる事が重要なポイントで、作画された時のような鮮やかな絵画を用い表現します。しかし二の丸御殿に嵌め替えることを目的とした模写には創建時の鮮やかな色調は御殿の雰囲気を乱す可能性があります。そこで形、表現方法は復原し、色調は御殿内の400年の時代色に合わせるという方針が当時の監督者であった美術史家土居次義氏によって提案され、古色復原模写という技法がこの時より確立されました。この表現方法を今日まで42年間続けております。(図1)
現存する二の丸御殿障壁画は狩野派による作品群で、探幽、尚信、甚之丞などが主な筆者ですが、400年の時間を経て度重なる修理、補筆が施されております。復原模写の際には出来る限り当初の姿に戻すという事を心掛けており、補筆、補紙の見極めが重要であり、それを削除した時にオリジナルにどのように近づけた復原が出来るかという事が一番難しい作業となります。(図2・3)これらの判断には現在の監修者の大阪大学名誉教授武田恒夫氏と共に協議を経て、復原を行っていきます。(図4)黒書院、大広間、式台の間、白書院、と進み、現在は遠侍の障壁画に取り組んでおります
私共はこの作業を行うために二条城敷地内に模写室を構えております。模写事業に携わるメンバーも模写室開始時からは一世代を超えつつあります。開始当初、「ゆっくり進めることにより人的育成をしたい」と、川面稜一(父)が言っておりました。今日途絶えてしまっている狩野派古典技法を私共は模写を通して体得することができました。そのことが一定の評価を得て、模写室メンバーが美術大学において古典技法を後進に伝えております。


模写に用いる用具

図5 天然岩絵の具 群青とその岩石

図5 天然岩絵の具 群青とその岩石

図6 天然岩緑青

図6 天然岩緑青
細かい粒子(白録)より酸化させた焼緑青まで

図7 色調の参考にする引き手を外した跡

図7 色調の参考にする引き手を外した跡

用いる素材は同質、同素材が基本です。顔料は当時と同種の物を使用します。天然群青、緑青をはじめとする天然岩絵の具が中心です。(図5・6)色調は引き手跡などから看取できる色調をよりどころに調整をいたします。(図7)金箔は当時の大きさの三寸箔を特別打ってもらい使用しています。水墨画の際は近い墨色を探し、奈良の古墨を使用しました。オリジナルの紙は間以合紙まにあいしと呼ばれる雁皮を主繊維とし兵庫県名塩の泥を混入した横三尺一~三寸縦一尺二~三寸の紙が使用されています。しかし現在では名塩間以合紙の製造が縮小し、二条城障壁画のすべての量は製造できないことから、紙肌の近い白麻紙を使用しています。
古典技法を追求すると、現在の画材では表現できない事にぶつかります。そのような場合には、筆や紙や顔料を作っている方々と相談しながら当時の道具、材料への研究も進めることができ、実際に道具の復原に至る場合もあります。


黒書院杉戸芙蓉図における本歌取り

図8 黒書院花篭図杉戸 オリジナル

図8 黒書院花篭図杉戸 オリジナル

図9 紅白芙蓉図 李迪

図9 紅白芙蓉図 李迪
東京国立博物館所蔵
Image : TNM Image Archives

図10 紅白芙蓉図 李迪

図10 紅白芙蓉図 李迪
東京国立博物館所蔵
Image : TNM Image Archives

図11 黒書院花篭図 杉戸 模写

図11 黒書院花篭図 杉戸 模写

長い模写事業を行っている中で、模写を通して発見に出会う事が時々あります。その一例を紹介いたします。
黒書院杉戸花篭図芙蓉(狩野尚信筆)復原の際(図8)、芙蓉の表現の参考として芙蓉図の名品、国宝《紅白芙蓉図》(李迪りてき筆)を参考にいたしました。(図9・10)その際、黒書院の花篭芙蓉図と紅白芙蓉図の形状が非常に似ている事に気付き、黒書院芙蓉をトレースし紅白芙蓉図の上に縮小し重ねてみますと見事に一致することが分かりました。(図11)
国宝《紅白芙蓉図》は南宋の画家李迪、1197年(慶元3年)の筆によるもので、現在は国宝となり東京国立博物館の所蔵となっております。二条城障壁画が描かれた1626年(寛永3年)ころにすでに狩野派は李迪芙蓉図を名品として認識し、参考作品としての縮図もしくは原本を所有していたと考えられます。多少の線の不一致はありますが、オリジナルをきちっと模写し、粉本ふんぽんとして狩野派が所有していた事を推測することができます。
狩野派の粉本主義は有名なところですが、狩野探幽による倣古帖(絵師が自己流筆跡による諸名画の解釈を行ったもの)の中に「第十九臨李迪 芙蓉」という項目がある事註1は見逃せない事実です。これらの事実より、黒書院筆者 尚信(探幽の弟)もこの倣古帖を利用していたのでしょう。
狩野派の粉本主義を形成した古画収集はどのように行われたのでしょうか。それをヒントにする資料がここにあります。室町時代、狩野正信が東山殿の義政持仏堂の障子絵作成にあたり馬遠、李龍眠という李迪同様の南宋画家の筆様を求めて原画を持参させた事が記録に残っています。註2正信が将軍に直結し得た人物であるからこそこのような、制作手段が可能になったのです。この貴重な原画熟覧という機会を捉え臨模し、粉本として収集し、後世に伝えて行ったのでしょう。
またこの李迪の《紅白芙蓉図》はもう一本の模写本が確認されています。大徳寺真珠庵に伝わる曽我宋誉(生没年不詳 室町時代)筆《芙蓉図団扇形》です。この作品も李迪《紅白芙蓉図》に酷似しています。このような酷似は李迪芙蓉図を敷き写し(オリジナル画を下に置き上からトレースする模写技法)した可能性が高く、異なる点は芙蓉蕾にキリギリスが留まっている事です。
李迪《紅白芙蓉図》は現在の美術大学の古画研究の授業でも模写したい作品のトップ3には必ず入る逸品です。このように室町時代の将軍の感性を刺激し、狩野派の粉本として珍重され、現代の私共も芙蓉図の最高峰と認める、1000年近く変わらない評価を維持し続ける李迪の《紅白芙蓉図》の偉大さと、芙蓉図に触発される日本人の感性の連綿とした流れに居合わせた事に気付いたことは大きな発見であり喜びでした。
古画の逸品をさりげなく取り入れる事を本歌取りと称し、古来伝統的に行われております。これは逸品の模写や粉本によってオリジナルを評価し、次の世代への作品づくりへと昇華する模写の効用でしょう。

おわりに

図12 嵌め替え前の大広間四の間

図12 嵌め替え前の大広間四の間
写真提供:元離宮二条城事務所、撮影:福永一夫

図13 模写嵌め替え後の大広間四の間

図13 模写嵌め替え後の大広間四の間
写真提供:元離宮二条城事務所、撮影:福永一夫

図14 二条城障壁画

図14 二条城障壁画 
<左>オリジナル  <右>模写

図15オリジナル障壁画が収蔵されている収蔵庫

図15オリジナル障壁画が収蔵されている収蔵庫
写真提供:元離宮二条城事務所

二条城二の丸御殿の模写事業は400年の歳月を経て儚く消え入りそうになっている絵画を復原することにより、そこに秘められた狩野派の感性、技法、用具、材料も蘇らせる事が可能になり、現代人の感性を刺激してくれております。
模写完成までには、まだ数十年必要です。この貴重な時間を障壁画の保存は言うまでもなく人的育成にも費やしたいと思っております。(参考図版12・13・14・15)

参考文献
註1 『狩野派障壁画の研究』 武田恒夫著 吉川弘文館 第6章 和様化の帰結
註2 『日本絵画の見方』  榊原悟著 角川学芸出版 第4章 贋作をめぐって


 

(会報110号より)