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特集 京都の庭園文化 3

植彌加藤造園株式会社・ 京都造形芸術大学日本庭園・歴史遺産研究センター共同研究員
菅沼 裕
正伝寺庭園(庭園と比叡山の借景)

正伝寺庭園(庭園と比叡山の借景)

日本には、文化財に指定・登録されている以外にも多くの庭園が残されており、その歴史や変遷、作庭の際の時代的背景や特徴などが現在に至るまで研究されてきました。こうした長年にわたる研究の成果の一つが庭園の分類です。枯山水や浄土庭園、池泉回遊式庭園など、その形態や用途、時代などによって分類されることで、多くの人々が庭園の様式を聞くだけで、おおよその庭園のイメージをつかむことができるようになってきました。
しかし、庭園に限らず、用語の意味は時代が変るとともに変化していきます。例えば、「枯山水」という言葉も、そもそもは池や流れから離れた場所に組まれた石組を意味し、今のように庭園そのものの様式を示す言葉ではありませんでしたし、釈迦三尊や阿弥陀三尊とされることが多い庭園の「三尊石」も、屋敷の魔除けの役目を果たしたり、高く組まれた滝石組を不動三尊に見立てたりと、今とは異なる意識の中で使われていたと考えられます。
また一方で、漠然とした概念や意識がありながら、近代に入るまで定着しなかった用語もありました。京都に限らず、多くの庭園で用いられる「借景」もその一つです。
借景とは、広義には、庭園の敷地の外の山並みなどを庭園の景に取り込んだものを言いますが、より厳密に、その山並みなどが庭園にとって必要不可欠な景を構成している場合にのみ用いるとする研究者もあり、確固とした定義が定まっていないのが実状です。ただ、「必要不可欠な景」となる条件は何かと考えるとなかなか難しいことになるので、広義の意味で認識している方が多いと思います。
「借景」は、もともとは中国で誕生した語句で、宋の時代、12世紀初頭の詩歌に載せられているのが最初となるようです。ただ、中国では、日本のように見渡す景だけではなく、塔や楼閣などの高い建物から周辺の庭園や景色を見おろすことも借景と考えていたようです。いずれにしても、詩歌という形で日本に「借景」の語句が伝えられたのは室町時代の中頃と思われますが、詩歌の中にある語句ということで、現実の庭園や風景と結び付いて考えられることはあまりなかったようです。江戸時代に入ると、借景についても解説している作庭書『園冶』が中国からもたらされますが、それでも借景の概念はあまり重視されることはありませんでした。19世紀に入ってようやく庭園の借景に言及する書が出てくるようになり、明治時代に入ってから、日本庭園の借景について、研究者が様々に考察を重ねるようになったというのがおおまかな借景の歴史になります。
では、近代になるまで、日本庭園は借景という意識が無いまま作られていたのでしょうか。そんなことはありません。山国である日本では、山が見えない場所というのは極めて少ないといっていいかと思います。都であり、多くの庭園が作られた奈良平城京や京都平安京、鎌倉にしても、庭園文化が花開いた奥州平泉や福井一乗谷にしても、いずれも周囲には山があります。四神相応といった風水の思想だけでなく、交通の要衝であるという政治的・経済的な理由や、攻められても守りやすいといった軍事的な理由もあったにせよ、山に囲まれた場所に邸宅や社寺を建てれば、必然的に周囲の山並みが目に入ります。高層建築物が大寺院の塔などのごく限られた数しかなかった時代、周囲に広がる山並みは見えて当然のもので、敢えて「借景」という意識を芽生えさせることが難しかったのかもしれません。
しかし、借景という意識はなくとも、人々は山を眺め、山の風景を詩歌に詠んで親しんできました。そこにあって当たり前のものにもかかわらず、季節ごと、年ごとに姿を変える山並みの風景を詠み、そして庭から山並みを眺めて詩歌を詠んだ時、庭と山並みが一つとなった「借景」を人々は体感することができたのではないでしょうか。
こうして意識されることなく培われてきた借景の概念を基盤にして、借景を意識した庭園が数多く作られ、今日まで伝わっています。今回は、その中の一つである正伝寺の庭園をご紹介します。

正伝寺庭園(現在の景観)

正伝寺庭園(現在の景観)

正伝寺は、夏の風物詩としても有名な、五山送り火の船山の南山腹にある寺院です。鎌倉時代に宋から来日した兀菴普寧ごつあんふねいの高弟であった東巌慧安とうがんえあんを開山として、一条今出川に寺院を構えたのが始まりです。建立して間もなく破却されてしまいますが、現在地に復興され、室町時代になると時の将軍足利義満の祈願所となるなど、隆盛を迎えます。しかし、応仁・文明の乱の影響で荒廃したらしく、江戸時代の始め、元和元年(1615)に再建され、さらに承応2年(1653)に本堂(方丈)が移築され、ほぼ現在に見る寺観が完成します。
庭園はこの本堂の東に面して作られており、本堂を移築した際に作庭されたものと思われます。本堂は伏見城の遺構とも伝えられますが、確たる資料はなく、左京区の南禅寺の塔頭金地院から移築されたことが確認されます。本堂のあった金地院の庭園を小堀遠州が作庭したため、正伝寺の庭園も遠州が作庭したのではないかとも言われますが、本堂が移築されたのが遠州の没後であることを考えると、遠州以外の人物による作庭と思われます。
本堂から庭園を眺めてまず目に付くのが、中央やや左手に見える比叡山です。白砂の中に植えられたツツジと庭園を囲む土塀、土塀越しに植えられたモミジの背後にくっきりと浮かび上がる比叡山の姿は何とも印象的で、春はツツジの花とモミジの新緑が、秋には紅葉が彩りを添え、土塀の白壁もまた、背後の比叡山を浮き立たせています。白砂敷の中に植えられたツツジは、向って右手(南)からボリュームを変えて、三つの刈り込みとなっていますが、こうしてボリュームや数を変えて配置する方法を造園や庭園の世界では七五三調しちごさんちょうといい、庭の景にめりはりを付けるための基本的な技法の一つです。近年では、刈り込みを石に見立て、石庭で有名な龍安寺の方丈庭園に対比させて、虎ならぬ「獅子の児渡しの庭」とも呼ばれているようです。石組がないという点では昔の定義からは外れるかもしれませんが、水を用いず、植物と白砂とで作られているという点で、この庭も枯山水庭園の範疇に含まれます。

こうした庭の刈り込みは、毎年枝が伸びた分だけ刈り込んでいればいいわけではありません。50年、100年ともたせるには、新芽が次の年も芽吹くような場所で枝を切らなければいけませんし、かといって刈り込みの形をでこぼこにするわけにもいきません。また、葉が密に覆われた内側には日があまり入らないため、放っておくと内側の枝がどんどん枯れていき、表面だけに葉が残ってしまうことになります。そうすると、ちょっと刈り込んだだけで葉がなくなってしまうので、刈り込むこと自体ができなくなってしまいます。
こうしたことにならないよう、刈り込みの形を崩さないようにしながら、内側に日が入るように枝を間引きながら上手に刈り込んでいくことで庭園の景観は保たれていくわけですが、時勢がそうしたことを許さない場合もあります。
京都に限らず、明治維新後の寺領・社領の召し上げ、いわゆる上知によって、経済的基盤を失った寺社は大変苦しい状況に追い込まれました。ここ正伝寺でも、無住に近い状態が続き、仏殿を売り払うなど、苦しい時期が続き、その間、庭園は十分に管理されることもなく、刈り込みも次第に形を崩していきました。昭和初期の写真を見ると、枝が枯れて刈り込みの形が崩れているだけでなく、高木が生えて、比叡山への借景を妨げている様子が確認されます。

『聚楽』第1期分合本(昭和4年(1929)以降)

『聚楽』第1期分合本(昭和4年(1929)以降)

こうした時期に、庭園の景観の復元を指導・監督されたのが、作庭家・庭園研究家として名高い重森三玲氏です。昭和9年(1934)に自ら主宰されていた林泉協会の見学会で正伝寺に赴いた重森氏ら一行は、即座にその復元を決意し、翌昭和10年(1935)に不要な樹木の伐採や明治期になって据えられた石の除却などを行い、旧観を復元しました。
その後、刈り込みの管理も十分に行われるようになり、かつての姿を取り戻した庭は、京都市の文化財(名勝)に指定されています。借景の庭というと、借景が主であって、庭の景は従であるとする向きもありますが、その歴史から、借景を借景たらしめるのは庭園本体であるということを正伝寺の庭は伝えるとともに、昔ながらに比叡山の山並みを背景に私たちの目を楽しませてくれます。

(会報113号より)