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特集 京都の庭園文化 1

大正期の平安神宮神苑

大正期の平安神宮神苑
出典:「Characteristic Gardens in Japan.」高木庭次郎 大正9年(1920)発行

大正期の平安神宮神苑

大正期の平安神宮神苑
出典:「Characteristic Gardens in Japan.」高木庭次郎 大正9年(1920)発行

京都は平安京造営以来、数多くの庭園が作られてきました。長い年月文化・政治の中心であった京都では、寝殿造式、書院式、枯山水、茶庭(露地)、回遊式など、日本庭園を分類するために命名された様式の庭園は全て作られていたといっても過言ではありません。
もちろん、京都以外にも平泉や鎌倉、一乗谷や江戸など、各時代、各地で独自の庭園文化が生まれ、多くの名園が作られていますが、少なからず京都の庭園文化の影響を受けていることは言をまたないところです。
このように庭園文化を継承してきた京都ですが、政治・文化の中心地であるがゆえに、常に変化も求められてきました。新しい宗教の普及、武士などの新興勢力の台頭による政治・経済情勢の変化などにより生活様式が変わるたびに、京都では新しい庭園像を求めて試行錯誤が重ねられていたのです。江戸幕府が倒れ、新政府が誕生した明治時代も例外ではありませんでした。
それまでは朝廷を中心とする貴族社会や寺社などの宗教社会を支える役割を担っていた京都ですが、奠都により華族となった貴族達は東京に移り、神仏分離や廃仏毀釈といった宗教政策により寺社の経済基盤が失われることにより、京都の経済社会は根底から覆されることになってしまいました。この時期、奈良興福寺の五重塔が売りに出されたことが有名ですが、京都でも多くの社寺の建物が売却されたり、公共施設として接収される中で庭園もまた失われていきました。

平安神宮神苑(西神苑)

平安神宮神苑(西神苑)

平安神宮神苑

平安神宮神苑(中神苑の沢飛石「臥龍橋」写真 右端)

平安神宮神苑

平安神宮神苑(東神苑の橋殿「泰平閣」)

そして明治も後半になり、政治状況が安定し、経済が発展していくと、政財界の著名人がこぞって京都に別宅を構え、庭園を作るようになります。山縣有朋の無鄰菴を皮切りにした、現左京区の岡崎・南禅寺界隈に残された別荘庭園群が特に有名ですが、東京に住んでいた政財界の中枢人物だけでなく、京都の政財界で活躍していた人達も別邸を営み、市内各地に庭園を作っていきました。
こうした、京都の変化を克明に捉えようとした人物の一人に秋元興朝(あきもと おきとも、安政4年~大正6年・1857~1917)がいます。興朝は現栃木県宇都宮の戸田家の出身で、長じて現在の群馬県館林を治めていた秋元家に養子に入り、貴族院議員となって政治家として活躍した人物ですが、幼少の頃に京都にいたことが関係しているのか、京都の歴史ある文物にひとかたならぬ関心を示し、公務の合間に京都を訪れてはその様子を記録していきました。四半世紀にわたる京都の見聞録とでもいう記録は、没後に『旧都巡遊記稿』として出版されましたが、それを読むと、江戸時代に著名でありながらもやがて失われてしまう社寺や庭園の様子など、当時の京都の様相が詳しく記されています。
一方、『旧都巡遊記稿』には近代の文物は全くといっていいほど登場しません。新しい物を作っても魂が込められていなければ価値が無いと考えていたのでしょうか。興朝はそうした自分の心情を述べていませんが、近代化を進めていく京都を少し寂しい思いで見つめていたのかもしれません。
そして、興朝が亡くなってほぼ100年経った現在。円山公園や琵琶湖疏水などの公共施設、平安神宮や無鄰菴といった新興の庭園なども近代という時代を象徴する歴史的な文物として文化財に指定される時代になりました。平安京以来、変化しながらも連綿と続いてきた京都の文化。その中で今回は明治時代の庭園の一つ、平安神宮神苑に焦点をあて、ご紹介しようと思います。
平安神宮が平安遷都千百年紀念祭や第4回内国勧業博覧会にあわせて創建されたことはよく知られていますが、桓武天皇を祀った新たな神社を創建しようという動きは明治10年代からありました。奠都によって衰退が著しい京都の復興策の一つとして、千年以上栄えてきた京都の歴史を見直し、顕彰するため、平安京造営に携わった桓武天皇を祭る神社を創建する、という構想を最初に打ち出したのは岩倉具視でしたが、ほどなく具視が死去したために具体化しませんでした。
そして、平安遷都千百年紀念祭に際して、神社創建の動きが活発となりますが、まず決まったのは記念の施設として「模造大極殿」を建立することで、平安神宮の創建が決定されるまでには若干の紆余曲折がありました。課題となったのは、敷地や資金の確保、後の維持の手法などについてで、それらの課題を一つ一つ解決していき、明治26年(1893)9月の地鎮祭を迎えることになり、その後、大極殿などの建築や敷地の造成などが順次行われていきました。現在の西神苑と中神苑(当時は中神苑を東神苑と呼んでいました)の作庭の工事が始まったのは明治27年(1894)の12月からで、それを請負ったのが植治こと7代目小川治兵衛です。
小川治兵衛はその時34歳。並河靖之邸(現在の並河靖之七宝記念館)の作庭をすでに終え、山縣有朋の無鄰菴の作庭にとりかかってはいたものの、まだ若く、無名といってもいい状態でしたが、この大工事に取りかかります。与えられた工期は3ケ月。追加の工事もあったために工期が延長されますが、かなりの突貫工事であったと思われます。
設計書を見ると、庭園部分だけでも延べ2千人近い人夫を使っての大工事であり、植治にとってもこれほどの規模の作庭は初めてだったでしょうが、着実に仕事をこなし、神苑を完成させます。以後、平安神宮神苑の改修などは、一貫して植治が担うこととなり、その関係は植治が亡くなるまで続きました。
今でも同じことですが、庭園は設計書通りに作ればいいものではありません。望んだような材料が手に入らなかったり、実際に樹木を植えてみると思ったような景観とならなかったりした場合、修正を加えていく必要があります。平安神宮では、当初、西洋式庭園のような雰囲気の神苑を目指していたようですが、本殿や大極殿など、昔ながらの様式の建築と対比した場合、荘厳さに欠けるという指摘もあり、途中で植栽する樹木などを変更しながらの作庭となりました。
完成した神苑は中神苑の流れと流れに続く西神苑の白虎池からなり、池や流れの岸の護岸も穏やかな作りで、植治の作風の萌芽を感じ取ることができます。白虎池の周囲の樹木の高さも絶妙のバランスを保つように考えられ、作庭間もない時期の写真と今とを比べてもあまり違いはありません。また、中神苑は当初は高木も少なく、東山が望めるように作られており、かなり明るい雰囲気の流れであったと思われます。ちょうど山縣有朋の別邸無鄰菴を作庭している時期とも重なるため、あるいは無鄰菴の流れの意匠の影響を受けていたのかもしれません。
そして、明治の末に、現在の東神苑の敷地を境内に編入すると、再び植治に作庭がまかされることとなり、栖鳳池を中心とする東神苑が作庭され、あわせて中神苑も改修され、現在見るような神苑の姿が完成します。
この改修で中神苑には臥龍橋(がりゅうきょう)と呼ばれる中島に渡るための沢飛石が作られました。四角い石と丸い石を組み合わせた軽妙さにも感心しますが、この石はもともとは三条大橋や五条大橋に使われていた橋脚などを再利用したものです。植治はこうした橋脚の石だけでなく、臼石など、加工された石を庭の随所に用いるようになりますが、平安神宮はその初期の事例となります。
また、神苑内にしわが目立つ石を見かけることがありますが、この石を守山石(もりやまいし)といいます。琵琶湖の西岸に産出するこの石は江戸時代にも使われていたようですが、琵琶湖疏水の開通に伴って、琵琶湖から船に載せて大量に運び込むことが可能になりました。植治はこの石を多くの庭に用いており、平安神宮では東神苑に多く使われています。
しかし、東神苑で目立つものといえばなんといっても橋殿である泰平閣でしょう。宇治平等院の鳳凰堂を連想させるような優美なデザインを眺めるにしても、周囲から一段高くなった泰平閣の中から園内や東山を望むにしても、東神苑の要となっています。
さらに、神苑内には多くの桜とともに、松やモミジ、サルスベリといった高木とともに、西神苑にはショウブが植えられ、花や新緑を愉しむことができます。昭和40年代に作庭された南神苑の桜が有名ですが、東神苑の池沿いに植えられた枝垂れ桜も、水面に花を映した姿はなかなか見応えがあります。
こうして作庭された平安神宮神苑は、作庭時期が異なる部分があるにもかかわらず植治の手腕によって一つの庭として作り上げられ、現在に至っています。伝統的な日本庭園の様式でありながら、西洋式庭園の雰囲気をも盛り込み、さらには近代庭園の萌芽となった神苑に植えられた木々や花々、そして東山を背景に広がる風景は、今も訪れる人々の目を愉しませてくれます。

植彌加藤造園株式会社・ 京都造形芸術大学日本庭園・歴史遺産研究センター共同研究員
菅沼 裕
(会報111号より)