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特集 京都の庭園文化 2

江戸時代、幕藩体制が整えられる中、参勤交代の制度が定められます。各大名が定期的に江戸と国許を往復するよう定めたこの制度が、大名の監視や財政負担を増大させる目的を兼ねていたことは日本史の教科書などでも登場する説明ですが、この制度によって、文化の交流が活発となったことはあまり紹介されていません。
定期的に国許と江戸を往復する大名とその家臣達は、江戸だけでなく、交流のある藩や往復の経路の途中にある各地の文化をも国許に持ち帰ることとなりました。そして江戸へ参勤となれば、国許で育んだ文化を江戸に持ち込み、江戸や他藩の大名達に自藩の文化を広めるといったことが繰り返されていったのです。
こうするうちに武士達の互いの交流のための共通の文化的な基盤ができてきました。千利休が大成した茶道もその一つと言えますが、庭園もまた共通の文化として広まっていきました。回遊式庭園や大名庭園といわれる、広大な敷地に茶室などを配置し、様々な遊興の場を提供する庭園の誕生です。江戸では、故郷や各地の名所の風景を再現し、御成りで来られた、あるいは招いた人物に存分に楽しんでもらうための迎賓施設としての役割を果たす一方、国許では、町民・農民達にも他所の風景や文化を堪能してもらうとともに、藩主の威信を皆に知らしめる役割の一部を庭園が担っていたのです。
さらに、広い庭園は「ここだけの話」をするにもうってつけの場所でした。現在のように皆に一斉に情報を伝える手段の無かった時代、来園した人物に頼みごとをしたり、内密の情報を伝えてもらったりと、庭園は、華やかさの裏側では政治的な思惑の渦巻く舞台ともなりました。
もちろん、庭を観賞するとともに、詠歌や演能など、文化的な活動も繰り広げられていましたが、京都の庭園でも、こうした政治的な事柄と無縁に庭園を作るわけには行きませんでした。
幕府の直轄地(天領)であった京都に大名庭園があるか、と言われてまず思い浮べるのは二条城二之丸の庭園でしょう。ただ、二条城は初期と幕末を除いて、主のいない、使われていない城でしたので、様式としては大名庭園でも、文化・政治の舞台となった「生きた」大名庭園ではなかったといえるかと思います。こうした武家の庭園とは別に文化・政治の舞台となったのは、主に寺院の庭園でした。
江戸時代の寺院神社の多くは領地を運営することで成り立っており、京都の寺院神社の場合、その運営について幕府の指導を受ける立場にありました。宗派の本山寺院ともなると参勤交代こそありませんでしたが、折に触れ、江戸に参上する必要もあり、武士達との交流は必要不可欠でした。
一方で、京都の寺院神社は、朝廷とも関係があるのが普通でした。皇室の親王等が入られた門跡寺院はその最たるものといえますが、こうした武家や公家との交流の場の一つとしても庭園が用いられていたと考えられます。
実際、江戸時代の京都の名所図会に紹介されている、広い敷地をもった回遊式の庭園の歴史を調べてみると、大名庭園と同様の役割を担っていた庭の姿が浮かび上がってきます。ここではそうした庭園の一つとして渉成園を紹介しようと思います。

渉成園 『都名所図会』

渉成園 『都名所図会』(安永9年・1780)

渉成園 「傍花閣」

渉成園 「傍花閣」

『日本名園図譜』

『日本名園図譜』(明治44年・1911)に見る渉成園の印月池と漱枕居

『日本名園図譜』

『日本名園図譜』(明治44年・1911)に見る臨池亭など

渉成園は東本願寺の飛地境内地で、慶長7年(1602)に徳川家康から寄進された地に東本願寺が造営されて後、寛永18年(1641)に徳川家光により寄進された土地の一部に第13代宗主宣如しゅうしゅせんにょ上人が隠棲の地として造営されたのが始まりとなります。四周に枳殻(カラタチ)が植えられていたことから名付けられた枳殻邸きこくていという呼び名の方が知られています。また、退隠した宗主、つまりは隠居の屋敷であることから、「隠居(御)屋敷」とも呼ばれていたようですが、江戸時代の中頃になって宗主が在任のまま亡くなるようになると、宗主の家族や親戚筋の人物が居住していたようです。
東本願寺では、宗主になる人物は公家の近衛家の猶子ゆうしとなり、歌や能などを伝授されるのが慣例となっており、文芸の師匠であった近衛家の当主らを渉成園に招いて手ほどきや指導を受けていたようです。近衛内前うちさきのお供として渉成園を訪れた冷泉為村が残した記録によると、園内をくまなくめぐった一行は中国風の服装をした芸人たちが小船に乗って何やら演じているのを見て驚いたり、偶仙楼から比叡山を含めた東山の風景を眺めるなど、趣向を凝らしたもてなしを受けていたことが窺えます。
こうした記録を見ると、渉成園が単なる隠居の住まいではなく、大名庭園にあるような迎賓、もてなしの空間として利用していたことがわかりますが、それがより一層はっきりするのが文政8年(1825)9月に渉成園を訪れた、時の老中水野忠成ただあきらの訪問です。
特に災禍も受けずに江戸時代前半を過ごした東本願寺ですが、後半になると天明8年(1788)の天明の大火を最初に、幕末までに4回の火災に見舞われます。江戸時代後半の東本願寺の歴史は焼失と再建の歴史であったともいえます。
寺の建物にしても、寺領に住む町民の住まいにしても、再建に必要なのはまず材木です。寺領に山林がなく、再建のため木材は門徒らの献木によって賄われましたが、創建の際、幕府より飛騨の材木の下賜を受けたことを先例として、再建に際しても幕府から材木を下賜されました。
水野忠成が渉成園を訪れた時期は、文政6年(1823)に本山が焼失して再建が進められている途上、まさに材木の拝領がかなった後にあたります。材木拝領の礼の意味も込め、周到に準備が行われたことは想像に難くありません。
南門を入り、大書院に通されて挨拶を受けた忠成は、印月池に面した漱枕居から舟で縮遠亭にわたって後、園内をめぐり、最後は偶仙楼に上がって晩餐をいただき、辞去します。残されている記録からは確認できませんが、恐らく誕生して間もない渉成園十三景の説明を受けながらの拝観であったものと思われます。
そもそも景や境を選ぶということは、その場所が世にも稀な風景や歴史を持つことを知らしめる意味を持ちます。それまでは隠居の屋敷として、どちらかというとつつましく、内輪で利用されていた渉成園を天下の名園として世に広める。渉成園の歴史にとっては一大転換ともいえる十三景の誕生ですが、18世紀の終わり頃に定まったと考えられるものの、誰がどのように定めたかはわかっていません。
一般に、滴翠軒、傍花閣、印月池、臥龍堂、五松塢、侵雪橋、縮遠亭、紫藤岸、偶仙楼、双梅檐、漱枕居、回棹廊、丹楓渓の順に紹介されている十三景ですが、この順は文政10年(1827)に頼山陽の書いた『渉成園記』によるもので、最初からこの順番となっていたわけではないようです。恐らく、『渉成園記』によって渉成園の名が世に知れ渡るに従って、十三景の順番も『渉成園記』にならうようになったものと思われます。
『渉成園記』には、正門は南門であること、園内の樹木が高くなっていて東山を望めなくなっていたこと、印月池を舟で渡って縮遠亭に向う際、縮遠亭の準備が整うと、臥龍堂の鐘を鳴らして合図することなどが記されており、後の火災により失われてしまった臥龍堂や偶仙楼のあった時代の様子を窺うことができます。
実際に園内を歩くと、全般に景石や石組の護岸が少ないことに気付きます。何度もの火災と再建を経て、石が失われたこともあるかも知れませんが、東本願寺に残されている古い図面を見ると、もとからあまり石を用いずに作庭したものと思われます。
また、一般的に回遊式の庭園といわれるものは、庭園の中央付近に大きな池があり、その周りを回遊できますが、渉成園の場合は、印月池が敷地の東寄りにあるため、池を一周できないという特徴があります。古い図面から、これは渉成園が狭くなったわけではなく、もともと印月池を一周できるように作られていないことがわかりますので、池越し、あるいは中島にある縮遠亭から背景の東山を眺めるということを主眼に作られているものと思われます。
このように、隠居の住まいから、京都の名園へと変貌した渉成園は、景石などの造形より、東山を背景とした雄大な空間を、十三景のあった往時の風景を思い起こしながら楽しむ庭として、今は広く一般に公開されています。

植彌加藤造園株式会社・ 京都造形芸術大学日本庭園・歴史遺産研究センター共同研究員
菅沼 裕
(会報112号より)