4.醍醐寺理性院障壁画と狩野探幽

成安造形大学教授 小嵜 善通

この連載では、かつて私がまとめた論文を主体に、論文では扱えないエピソードなども交えながら、それぞれの障壁画の見どころをご紹介してきた。連載最後の今回は、京都にはまだまだ隠れた素晴らしい文化財が守り伝えられているという、京都の底力の一端に触れてみたい。  

私が京都市文化財保護課に勤務していたのはたかだか20年弱に過ぎないが、その短い間においてもいくつかの発見に出会った。標記の障壁画をご紹介する前に、まず1体の忘れ得ない仏像について触れることをお許しいただきたい。

京都市では寺院所有の仏像だけでなく、地域の方々によってお守りされている仏像についても平安、鎌倉時代のものを中心に市の文化財に指定している。そうした事例は郊外や山間部に多いのであるが、市街地となった地域にも事例がある。私は当時、住宅地図に卍のマークが記されていれば、何かのついでに立ち寄るようにしていた。下鴨神社西方の旧街道沿いの小堂にも地図に卍のマークが記されており調査に向かうと、それは地域の方が地蔵盆にもお祀りされている像高数十センチの小さな坐像のお地蔵さまであった。ところがそれは一見するなり9世紀を下らない一木造の作例であったのである。

ぜひ市の指定文化財にと思いながらも、所有者である地域の方々をまとめ切れないままに私は現在の大学に転職した。数年後、その仏像は京都市の文化財に指定され、平成27年には国の重要文化財の指定を受けた。同年春、京都国立博物館を訪れた際、寄託されたその地蔵菩薩像が彫刻室に展示されているのを久しぶりに拝見する機会を得た。新町地蔵保存会所蔵の「木造地蔵菩薩坐像」である。私にとって、京都畏るべし、の一つである。

醍醐寺理性院りしょういん客殿障壁画

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客殿上段之間

理性院は、三宝院の北に隣接する醍醐寺子院の一つで、真言宗醍醐派の別格本山である。もと醍醐五門跡の一つとして、小野六流中の理性院流の本寺でもあり、山内有数の子院の一つとして知られている。現在、主要な建築としては江戸時代に再建された本堂と客殿を残している。  

客殿は東側に玄関車寄をもつ建物で、床、付書院を備えた8畳の上段之間と、10畳の間が2部屋、8畳の間が1部屋の計4室が田の字型に配列されている。建築年代は醍醐寺第80代座主義演ぎえん(1558〜1626)の日記『義演准后日記』の元和3年(1617)10月5日条に「理性院客殿立柱、広橋大納言馳走也」とあり参考になる。

理性院は通常非公開であるため、その客殿に、面数はわずかではあるものの近世初期にさかのぼる障壁画が伝存していることはあまり知られていない。障壁画は上段之間の一部分である4面のみが残っている。すなわち、とこの間正面の壁貼付かべはりつけ1面と、床両脇の縦長の壁貼付2面、それから床の間左方(南側)に隣接する壁貼付1面である。いずれも水墨を主体とし、点在する人物などに淡彩が施されている。

床壁貼付(図1)は縦232.0センチ、横382.0センチに及ぶ大画面である。左方上部に遠山を配し、その下方に松樹や楼閣を岩上に描き、右方には2隻の小舟と樹叢が添えられる。楼閣の前には琴を弾く高士、そしてそれを高士3人と侍童1人が囲む様子(図2)が描かれる。

床の間左方に隣接する壁貼付(図3)は縦178.8センチ、横181.8センチの正方形に近い画面で、岩山が右下、中央、左上と配され、それぞれが近景、中景、遠景を成している。右方上部には床壁貼付からの続きと思われる楼閣が描かれ、近景では囲碁を楽しむ高士たち(図4)が描かれる。

現在失われた襖部分には書や画をたしなむ高士が山水景観のなかに配され、当初は恐らく上段之間全体で琴棋書画図を表していたものと思われる。

本障壁画の存在を私が知ったのは、京都市に就職して間もない昭和58年ころと記憶している。文化財保護課の資料のなかに、本障壁画のスナップ写真があったのである。京都市文化財保護課には私以前に美術工芸品の担当技師はいなかったので、その写真を誰が何のために撮影したのかは不明のままである。しかしながら、学生時代に桃山時代後期の狩野派を研究していた私には、本障壁画が桃山時代後期から江戸時代初期にかけての狩野派画家による新出作例であることは明白であった。京都市内の著名寺院において、普段は収蔵されている屏風や掛軸とは異なり、障壁画が、それも近世初期にさかのぼる障壁画が新たに確認されることはそうあることではない。構図や細部描写にややたどたどしさを残しながらも、格式高い醍醐寺子院客殿の上段之間に描かれる本図はいったい誰が描いたものなのか、謎めいた作品であった。

その後、現地調査や文献調査を行うなかで本障壁画の驚くべき筆者が判明していくのであった。

筆者は若き狩野探幽であった

先ほども引用した『義演准后日記』の元和6年10月25日条に次のようにある。「理性院為見舞罷向了。狩野采女座敷絵書之召出盃賜之」。義演が理性院へ見舞に行った際、狩野采女うねめが座敷絵を描いていたので、召出して盃をつかわしたというのである。当時、狩野采女と名乗っていたのは18歳の狩野探幽(1602〜74)である。この記事により本障壁画制作に若き探幽が関わっていたことが確定する。『義演准后日記』のこの記事は、実は当時既に紹介されていたものであった。しかし何故か現存作例とは結び付かなったようである。

探幽は元和5年から6年にかけて、徳川和子入内にあたって造営された女院御所の障壁画制作のため江戸から上洛していた。狩野派内では、宗家の貞信、甚丞に次いでナンバー3の地位を占めていたであろうことも、この女院御所障壁画制作における部屋分担の資料から判明している。現在、この女院御所のうち御局おつぼね障壁画の一部が伝存(旧円満院宸殿障壁画・京都国立博物館所蔵)しており、その中の「唐美人図」は本図の筆法と酷似しており、やはり探幽の若書きと見なされている。  

ところで、理性院客殿障壁画にはまだ謎が残っているのである。というのは、画面を仔細に観察すると、床壁貼付(図1)と、隣接する壁貼付(図3)とでは微妙に作風が異なるのである。構図、筆さばきともに総じて床壁貼付の方が手馴れており、壁貼付の方は若さが目立つのである。また本紙の縦の紙継ぎ幅も床壁貼付の方は34.5センチであるのに対し、壁貼付の方は37.0センチであり、1室内では通常一致する紙継ぎ幅に違いが認められる。さらには、元和3年立柱の建築に、元和6年まで約3年間障壁画が描かれないというのも不自然である。本障壁画を紹介した昭和62年の拙稿では、床壁貼付部分は元和3〜4年の制作で、筆者は探幽の父狩野孝信、壁貼付は元和6年の制作で筆者は探幽と考えた。元和4年8月30日に没した孝信がやり残した仕事を、2年後に探幽が仕上げをした、と考えたのである。  

本障壁画制作に探幽が関わったということについては既に定説となった感がある。しかし、本障壁画は壁貼付で取り外せないことから、その後の狩野探幽関連の展覧会にも一度も出品されたことがない。筆者問題が解決するのはまだ先のこととなりそうだ。  

いずれにせよ本障壁画の意義は制作年の判明する探幽の若書き作品であるという点にある。元和6年の時点では探幽は父である孝信の様式を踏襲していることが判明し、のちの二条城障壁画に見られる探幽様式と呼ばれる新様式は未だ認められないのである。前回取り上げた狩野興以による元和2年の等持院方丈障壁画に、既に江戸時代的兆候が認められる点はやはり特筆に値しよう。

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図1 床壁貼付
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図2 床壁貼付(部分)
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図3 壁貼付

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図4 壁貼付(部分)

狩野探幽を取り巻く人たち

62歳の醍醐寺座主義演が弱冠18歳の探幽を召出し、わざわざ盃をとらせ日記にまで記載したことについて少し補足しておきたい。義演と探幽との間には直接的な血縁関係はない。しかし、実は系図上でのつながりが確認されるのである。義演の父は公家の二条晴良(二条家第14代当主)であるが、その晴良の子には義演のほかに九条兼孝、二条昭実、鷹司信房がいる。この中の鷹司信房の継室は有名な武将 佐々さっさ成政の娘輝子(岳星院)である。そして表向きの系譜には登場しないのであるが、狩野家の資料によると狩野孝信の室は佐々成政の娘養秀院であるとされる。つまり佐々成政の娘二人を介して鷹司信房は探幽にとって義理の伯父もしくは叔父ということになる。ひいては義演は探幽にとって義理のおじの兄に当たるのである。いささか遠い関係のようでもあるが、父の狩野孝信から見ると義演は内室の姉妹の義理の兄なのである。思うに、これは偶然に繋がったのではなく、狩野派の危機管理の一環であったように思われる。公家社会とのパイプを太くしておこうという、孝信の父永徳により仕掛けられた政略結婚である。事実、狩野孝信は禁裏絵所預という、それまで土佐派が独占していた地位を得、慶長度内裏の障壁画制作を狩野派を率いて行っているのである。さらにこの繋がりのその後を見ていくと、鷹司信房と輝子との娘孝子は徳川3代将軍家光の正室となるのである。

理性院客殿障壁画制作を行った18歳の狩野探幽は、既に江戸に下り徳川将軍家の御用絵師であった。恐らく本人も気付かぬところで様々な人たちの手助けを得ながら画家として成長していったに違いない。探幽の評価を確定させた二条城障壁画の制作まで理性院から6年である。  

文中写真 神崎順一 撮影

※おことわり
当寺は、一般拝観は出来ません。