1.洋風摂取の町家形成

京格子に虫籠(むしこ)窓による端正で繊細な外観。「京町家」が長い歴史の中で到達した外観意匠の洗練は、明治以後も多くの町家にそのまま引き継がれ、京都独自の優れた歴史的景観を形づくる。一方、主に大正・昭和戦前期に建てられた町家のなかには、外観が完全に洋風のものがある。これらを洋風町家と筆者は呼んでいる。

洋風町家は、京町家の抑制のきいた外観とは対照的に、それぞれが多彩で華やかな外観を誇り、すこぶる個性的である。


写真1-1

写真4-1

写真4-3

まずは、市内に残る洋風町家の中で、最も古い家辺徳(やべとく) 時計店を取り上げたい。同時計店は、近代建築が多く残る三条通りに位置し、明治4年(1871)創業の、京都では時計・宝飾品を扱う草分的な商店であった。当初は和風の伝統的な商家の店構えで、大屋根に大きな時計塔を載せていた(写真4-1)。その後、明治23年(1890)に建て替えられたものが、現在残る建物である。通りに面して煉瓦造二階建の洋館(店舗棟)を建て、その上部には塔屋と時計塔がそびえていた(写真4-3)。今日では塔屋も時計塔も失われたものの、煉瓦造を導入した最初期の本格的な洋風商店として、よく知られた存在である(写真1-1)。


写真1-2

写真1-3

写真1-4

改めて調べてみると、店舗棟の背後には和館の居住棟があり、しかも両者が中庭を挟みつつ通り庭(土間)で接続する構成をもつことがわかった。この通り土間を軸とする家屋の構成は、いわゆる「 表屋(おもてや)造り」と同じである。

表屋造りとは、比較的大きな京町家の伝統形式で、店舗棟(表屋)と居住棟とを分けて前後に並べる点に特徴があり、京町家の代表的な事例である杉本家住宅(明治3年建築、京都市指定文化財)も同じ構成を取っている。家辺徳時計店は、その新奇な外観に目が奪われるものの、実は京町家の系譜に則る建築であり、京町家の近代化を物語る好個の事例であることが明らかとなった。

このように表に洋館を連結する洋風町家は他にも多い。仏教書を扱う老舗出版社である平楽寺(へいらくじ) 書店はその好例で、鉄筋コンクリート造の店舗棟は威厳に満ちた古典主義的な外観であるが、やはりその裏手には和風の居住棟が寄り添うように建ち、通り土間が両者を繋いでいる(昭和3・4年建築、国登録文化財 写真1-2)。元冨長商店(昭和10年)も店舗棟は鉄筋コンクリート造で、一見事務所ビルのようである(写真1-3)。しかし、呉服問屋を営んだ立派な町家であって、一歩中に入れば京町家と同じ室内構成を持ち、内外のギャップに驚かされる(現在は、レストランに改装されている)。

さらに、辻商店は紙問屋を営む店舗併用住宅で昭和3年に建てられた。鉄筋コンクリート造三階建てで、ロマネスク調の外観は伝統的町家から完全に逸脱している(写真1-4)。店内にはカウンターと前面に張り出した応接間をもち、太い柱、梁型などで構成される室内は当時のオフィスビルの感が強い。しかし、店から裏手へと土間を長く通し、土間沿いに諸室を並べるその間取りは、京町家そのものである。プランが示す伝統性からは、生活様式の保守性を強く窺わせ、伝統と洋風指向という二面性を同時に読みとることができる点で興味深い。

洋風町家は、実は紛れもない京町家の系譜を引くものであり、その近代版なのである。

2.洋風銭湯


写真2-1

京都の市中では、今日も多数の銭湯(せんとう) が営業している。大正・昭和初期に建てられた銭湯も多く現役で活躍している。この点は、京都ならではであろう。これらは総じて和風で、町家風の外観を持つものが多い。堺町通りに面し錦小路通りに程近い「錦湯」は、その代表例である。昭和2年の建築で、当初の形を内外ともによく留めている(写真2-1)。

一般には銭湯を町家と見る人は少ないと思う。しかし、京都における戦前の銭湯建築は、家族の住居を二階に設けることが、調査の過程でわかった。つまり、当時の銭湯は店舗併用住宅なのである。しかも、昭和初期には洋風の外観を持つ銭湯が登場する。そこで、町家の延長線上に銭湯をとらえ、その特徴を見てみよう。

「白川温泉」は、京都東山の北白川に昭和4年頃に建てられた銭湯である。表側の脱衣場は木造二階建てで、外観は純洋風である。しかし、内部の間取りは、細かな説明は省くが、前述の和風である錦湯と基本的には同じ構成で、二階を住居部にする点を含めて、京都における和風銭湯と変わりがない。つまり、京都市中の洋風町家にみる、外観の近代化と室内における伝統性という、前章で述べた両者の併存状況は、銭湯建築にも見いだせるのである。
伏見区深草の「宝温泉」は昭和6年の建築であるが、その洋風で瀟洒な外観はとりわけ印象深い(写真2-2)。同銭湯には建築当時の図面が残されていて、これによれば、最初、宝温泉は錦湯などと同じ和風の木造二階建てで計画されていたことがわかる(図2-1)。しかし、設計変更により外観が洋風とされた。


写真2-2
 
図2-1

計画当初と、設計変更後の外観はまったく趣を異にする。しかし、平面に目立つ変更はなかった。設計変更の眼目は外観にあり、外観を洋風にすることで、人目を引きつけようとしたのであろう。

では、和風の銭湯が多い京都市中において、これらはなぜ洋風なのか。


写真2-3

その答えは立地条件にあると、筆者は考えている。洋風銭湯の立地分布には、ある傾向が読みとれるからである。すなわち、白川温泉や宝温泉をはじめ、やはり伏見にある「新地湯」(昭和6年、京都市伏見区南新地、写真2-3)、あるいは中京区西ノ京の「威徳湯」や「弁天湯」、さらには北区紫竹の「紫竹温泉」など、いずれも洋風外観をもつ銭湯はみな町中ではなく、当時はまだ人家の少ない郊外地に建設されていたことがわかった。これらは、住宅地としての今後の拡張を見越した立地である。「新地湯」という命名などは、その経緯を端的に物語っていよう。

既存市街地に建つ銭湯と違い、これら銭湯では新たに客を積極的に誘致する必要があっただろう。洋風の外観は、銭湯の外観を大いに目立たせた。銭湯という生活に身近な施設にあっても、新規創業に際して経営主は、看板(サイン)としての効果を、外観の洋風意匠に最大限期待したのではないか。設計変更をしてまでこだわった宝温泉の洋風意匠には、このような意図と願望が込められたのであろう。

3.箱形の町家


写真3-1

写真3-2

京都市中には小さな近代建築がたくさん建っている。大きなものは有名だし文化財の登録も増えつつあるが、これらは小さいので近辺の人にしか知られていない。しかし、その小粋で洒落た外観は界隈の景観には欠かせぬ存在である。

一例をあげよう。宮川美髪館は、油小路と綾小路とが交わる小さな角宅地に、昭和2年に建てられた理髪店である(写真3-1)。陸屋根の木造二階建てで、壁面は黄色のタイルで美しく飾られている。間口五間に奥行が一間半という大きさなので、一階は店舗のみとなり、二階が居住部分である。

村中理容院も、室町通りに面して、蛸薬師通りとの交差点に建つ木造三階建ての理髪店で、昭和3年に建てられた(写真3-2)。縦長で箱形のシルエットは、小型ながら鉾町の室町通りで異彩を放っている。八坪ほどの建坪で、間取りは宮川美髪館と同様に一階が店舗、二・三階に居住部を積み上げている。

二つの例はともに理髪店であり、いずれも角地に建っているが、これは偶然ではない。京都では、理髪店は角敷地に建つことが多い。理髪店の組合である京都府理容生活衛生同業組合の、例えば西陣支部では、過半数の理髪店が角地に建ち、左京支部でも約半数がそうであることを確認している。これは小規模でも営業できるという理髪店の特性と関係があると考えている。京都市中では、角地は地割りの関係で小宅地となることが多いのである。

つまり、これら理髪店は小規模ゆえに箱形であり洋風なのであり、店舗の上に居室を積み上げるという合理的な室内構成を取るのである。

箱形町家の例をもう一つあげたい。松井ビル(旧森田牛乳)は、河原町通りの西側に建っている(写真3-3)。大正14年(1925)、この通りの拡張に伴い敷地の奥行幅が元の約4割に減少し、残る敷地いっぱいに新築されたのがこの建物で、鉄筋コンクリート造の三階建てである。当初一階は牛乳店で、二・三階が住居に当てられた。台所や風呂トイレなどの水回りも最初から二階に配されていた。モダンな外観とは対照的に、二・三階の室内は和室が基本である。


写真3-3

以上取り上げた事例に共通するのは、一階は店舗空間のみで、住居機能が上階にまとめられている点である。いずれも敷地条件や道路拡張の影響によるものであり、特殊な条件下でできた洋風町家の例である。

町家は職住併用建築である。商いが盛んになれば店舗部分は拡張され、業務空間がさらに大きくなれば住居機能は裏手や二階に追われ、最後は町家から分離される。戦後は、このようにして、多くの町家が業務ビルなどへと建て替えられていった。

そのように考えれば、先の事例は、狭小ゆえに近代町家の道筋を先取りしたその縮小形ともみなせるのである。その意味で、これらの箱形町家は、かろうじて店舗と住宅が共存する、近代町家の最終形を示しているのではなかろうか。

4.洋風町家はなぜ洋風なのか


写真4-1

では、そもそも洋風町家はなぜ洋風なのか。近世以来の京町家と、なにが違うのか、洋風の意味を改めて考えてみたい。

1章で取り上げた明治4年創業時の家辺徳時計店は、屋根にそびえる時計塔が一際目を引く(写真4-1) 。しかし、家屋自体の外観は、左右両側の町家と区別が付きにくく大変似かよっている。つまり、町並に統一感はあるが、個々の町家の外観には個性がない。建築材料や生産技術の規格化、町衆の美意識などを背景に、近世後期における京町家は、内外ともに均質性を高めてゆき、その傾向はそのまま近代初頭の京町家へと引き継がれたのである。


写真4-2


写真4-3

写真4-4

それゆえ、京町家の個々の店構えは、暖簾や庇の上に立て掛けた看板により、辛うじて個性付けがされている。暖簾もある種の看板(サイン)だとすれば、業種や店としての表示は看板類が担っているといってよい(写真4-2)。

京町家の屋根に載る時計塔は、近世以来の看板が巨大化したものに他ならない。町家の外観が持つ匿名性と、それゆえ情報発信のための看板への依存性という、相互の関係が見て取れる。

洋風町家への建て替えは、それまで看板あるいは暖簾が担った役割と効果を、洋館店舗棟の外観全体に付託するためだと考えたい。明治23年に改築された家辺徳時計店では、時計塔と塔屋が屋上に積み上げられ、その華麗な店舗棟の全体が、豊かな広告媒体として三条通りにそびえ立った(写真4-3)。時計塔はもはや看板ではなく、店舗棟と一体の建築要素となっている。

さらに、千本今出川交差点の角、昭和4年に建てられたミヨシ堂時計店では、時計塔は塔というよりはむしろ外壁の一部となっている(写真4-4)。時計塔に求めた役割は、ここでは店舗を飾る壁に移し込まれ、外壁面に昇華されている。

これまで看板に託してきた商業的メッセージは、洋風町家においては外観の全体が発信する。町家の外観に商業性が付加され、それゆえ洋風町家の外観は多様なものとなる。二回目に取り上げた洋風銭湯の外観も、まさにこれと同じ意味を持つ。京町家が長く堅持してきた抑制的な統一性は、ここに来て自己否定されたのである。

伝統的な京町家と洋風町家との違いは、単に外観の和と洋の単純な相違ではない。洋風町家の外観がもつ多様性と商業性こそ、伝統的な京町家との本質的な違いであろう。時代は遡るが、近世初頭の京の町を描いた「洛中洛外図」を眺めれば、今日残る京町家とはまったく異なる、それぞれの町家が個性を競い合う華やかな世界が見てとれる(図4-1)。


図4-1 洛中洛外図屏風 部分 林原美術館蔵

近世後期以降の京町家は、このような 外連(けれん)に満ちた美意識の否定の上に成立する。京町家の成熟は静的な洗練に満ちているが、その勃興期は活気のある動的な華やかさに包まれていた。近代の洋風町家は、ある意味で、洛中洛外図に見る京町家の姿と通ずるものがある。
洋風町家からは、近代京都の町衆の活力を汲み取ることができる。洋風町家は、みやこにおける市井の近代化の象徴として、新たな評価が望まれる。