1.洛北の山村集落

京都の伝統的な住まいと聞けば、京町家を思い起こす人は多い。しかし、あまり知られていないのは、京都は周辺部に美しい農村集落があり、町家に引けを取らない伝統民家が多く残ることである。とりわけ京都北部いわゆる洛北の地には山村集落が点在し、茅葺き民家が伝統的集落の佇まいを今に伝えている。

市中から車で30分ほど走れば、奥深い山に抱かれた山村集落に出会う。これも京都の魅力である。今回は、これら集落のいくつかを伝統民家とともに紹介してみたい。

2.北山杉の里、中川地区

中川集落は、京都市北区中川北山町に位置する谷集落である。林業を主産業とし、特に北山杉の磨き丸太の生産地として知られている。集落の中央を清滝川が南北に貫き、清流に沿って一条街道(周山街道)が通る。急な斜面に石垣を築き宅地を造成することで集落は形成された。その景観は、伝統的民家とともに林業生産に関係する建物の存在で特色付けられている。

写真1
写真1 森久商店の丸太乾燥小屋の外観
(京都市北区中川北山町)

特に、川に沿って長く建ち並ぶ乾燥小屋の眺めは壮観である(写真1)。多くは木造二階建てであるが、市中で見る町家とも、あるいは周辺の農家ともまったく異なる建物である。なんといっても、建物全体を包み込むような元杉皮葺きの大きな屋根の連なりは見応えがある。これは、北山杉の丸太を建物の内外部に立て掛けて保管し乾燥させる施設として工夫された造形で、とりわけ軒下に並べる杉丸太を雨から守るために発達した長い庇は、この建物に独特のプロポーションを与えている。

写真2
写真2 福新商店丸太乾燥小屋
(北区中川北山町)
写真3
写真3 福新商店丸太乾燥小屋の木組み

中川地区で、乾燥小屋の特徴をもっともよく示すのは福新商店の倉庫であろう(写真2)。昭和49年(1974)5月の上棟であることが、棟木に打ち付けた棟札からわかる。屋根はトタン葺き、外壁はすべて竪板張りの木造二階建てである。一・二階ともに四周に庇を長く延ばし、そのため外形は実際の建物本体よりもずいぶん大きく見える。深い一階の庇を張り出させるために、二階床下に渡された梁は長さ1間(約2メートル)分も四方の建物の外側に延ばされ、片持梁の方式で深い庇と二階の縁を受けている。二階の縁を包み込むような大屋根の庇も、1間以上も四周に長く延長した梁で支えられている(写真3)

この庇下の木組が丸太乾燥小屋独特の外形を生み出している。福新商店倉庫は戦後の建築ながら伝統的な構造形式をよく示し、この種の典型例として注目される。北山杉丸太の乾燥小屋は、全国的にも類例を見ずその存在はきわめて珍しい。

写真4
写真4 上田家住宅の外観
(北区中川北山町)
写真5
写真5 藤本家住宅の外観
(北区中川北山町)

次に、この地区で最古の民家を訪ねてみたい。
上田家住宅は、南北に長い中川北山町のほぼ中央部東端の山手、集落を見下ろす高い位置に建つ。屋敷は石垣で築かれ、周囲には台杉などが植えられて美しい(写真4)。主屋は妻入で、地区内で唯一の茅葺き屋根を留める民家である。

この家は少なくとも18世紀の後期に遡り、むろん中川地区では最古の古民家とみなされる。実は、中川地区は明治中頃に二度の大火を被り、多くの民家はその後に復興された。それゆえ、上田家住宅は当地区の近世民家の様子を示す数少ない遺構として貴重なのである。

もう一例、近世の民家を発見した。藤本家住宅である。当家は集落の南寄り、川沿いの街道筋より一段高い東側に位置する(写真5)。敷地の周囲は石垣と生垣で囲まれ、西側の石垣の上には低い板塀が建て廻されている。このような敷地景観は地区に共通する屋敷構えであるといえ、当家は上田家とともにその伝統的な構成がよく維持され美しい。

主屋は瓦葺きの妻入民家である。調査の際に屋根裏から棟木に打ち付けられた札を見つけたことで、主屋が安政2年(1855)に建てられたことが明らかとなった。これで当家の重要性は一段と高まった。札は祈祷札であるが、年記とともに大工(甚兵衛)の名も併記されていて、棟上げ時あるいは竣工時に打ち付けられたものと見て間違いがない。

また、現在は瓦葺きであるが、当初は杉皮葺きであったことも屋根裏の調査からわかった。この事実は、この地区の民家の屋根形式が少なくとも幕末には茅葺きから杉皮葺きへと移行したことを示している。

写真6
写真6 清水家住宅の外観
(北区中川北山町)

地区に建ち並ぶ民家はほとんどが瓦葺きで、明治の大火後の再建である。二度の大火は、それまでの燃えやすい茅葺きや杉皮葺きに対して、瓦屋根の普及を早めたのであろう。しかし、いずれの民家も妻入で共通することから、近世民家の形式が受け継がれたといえる。しかも、明治以降の瓦葺き民家は、妻面の外壁を梁組などで飾り、年代が下がるほど派手さが増し立派になってゆく点はおもしろい(写真6)

この種の妻入民家の形式を、民家史研究の分類では「北山型」民家と呼ぶ。上田家住宅は、北山型民家の特徴を平面、構造ともによく示している。しかも、藤本家住宅、さらには明治以降の民家においても、妻入であることのみならず、間取りの構成についても北山型のそれをよく踏襲していることがわかった。民家の伝統は、集落の大半を焼き尽くす大火を被ってもなお長く受け継がれたのである。

3.久多・花脊地区の平入民家

写真7
写真7 士竪家住宅の屋敷構え
(左京区久多上の町)
写真8
写真8 士竪家住宅の土蔵外観

久多地区(左京区)は京都市の最北端に位置し、美山町(南丹市)や朽木村(滋賀県高島郡)と接する山間地帯である。集落は久多川および宮の谷川に沿って点在し、冬は時に2メートルを超す積雪がある。久多川に沿い同地区で最も北寄りの「上の町」に、これから取り上げる士竪家はある。同家は西側の山を背にしつつ東に広がる屋敷を石垣で造成し、その上に板塀や門で屋敷を囲み、主屋の他に土蔵や離れなどを配している。その立派な屋敷構えに当家の家格の高さが窺える(写真7)

当家を取り上げた理由は、調査の際に同家が所蔵する「時事日誌」と出会ったことによる。これは、現当主の曾祖父にあたる士竪忠次郎が明治元年から大正14年にかけて綴った日記である。現在の主屋は平入の茅葺き(トタン被せ)民家であるが、明治24年に再建されたこともこの日誌に書かれている。しかも、大工は若狭国遠敷郡神宮村の吉次久太夫で、5人の手伝もいずれも若狭からの出働きであると記されていた。この地区の民家の多くが若狭の大工の手で建てられたことは既往の調査で明らかにされている。地区の民家形式の成立過程を考える上で、この事実は重要だと筆者は考えている。

さらに、日誌には同家の屋敷構えについてもその普請過程がつぶさに記録されていた。これより、主屋の再建に相前後して付属屋が建てられていたことがわかった。すなわち、主屋の上手(北側)に建つ二棟の土蔵は明治15年に新築され(写真8)、主屋の下手(南側)に納屋が同20年に再建。そして、主屋が再建された同じ年に表側の石垣が積み直され、その上に高塀が新築。翌年には裏手に池が掘られた。

30年代に入ると、まず納屋が建て直され、屋敷に通ずる表の道も新設され、さらに石垣と高塀の手直しと続く(同34年)。36年には表門が建てられ、同時に主屋上手手前に離座敷が上棟している。このように明治中頃の凡そ20年の間に、現在の屋敷構えがほぼ出来上がったことになる。なお、この間の普請や営繕工事も主屋と同じくほとんどが若狭の大工に託されていた。

別の史料には当家が再建される前の主屋についての記録もあることから、どのように現主屋へと建て替わったのかについても検討できるはずである。いずれにせよ、明治期を通して士竪家の屋敷構えは徐々に整備され、その履歴が幸いにも『時事日誌』に詳しく記録された。伝統的な集落景観、それを美しく形づくる屋敷構えの諸要素は、その多くが近代に整えられた様子がこれよりわかった。

写真9
写真9 開原家住宅の屋敷構え
(左京区花背原地町)

士竪家のような立派な屋敷構えをもつ民家はこの地区に多くはないが、花背原地町の開原家も士竪家とよく似た屋敷を構えて一際目を引く(写真9)。同家の主屋は明治37年に建てられた(棟札より)。他の付属屋や屋敷を取り巻く板塀や門等についても、主屋と相前後して整えられたと見て大過なく、その構成は花背の自然に見事にとけ込んでいる。

主屋が瓦葺きであることは士竪家よりも年代の新しさを感じさせるが、間取りの基本形式は同じで北山型の範疇に含まれる。しかし、本来が妻入である北山型民家に対して、両住宅は平側に入口が設けられ、その意味で平入である。実は、平入化は同型民家の近世後期以降の動向であることは知られていて、両住宅はこれと符合する。ただし、実際は元の妻側の出入口はそのまま残るので、純粋な平入という訳ではない。

それにしても、近代にいたっても妻入が長く堅持され続ける中川地区の北山型民家と、平入へと転換する久多・花背の同型民家とでは、一体何が違うのだろうか。

その手掛りは敷地条件にある。斜面地の中川地区では、奥行の狭い屋敷地の形状に規制され、主屋の平側に入口を設けることは難しい。ゆえに妻入が保持され、妻側壁面の装飾化が進んだ。地区の地形的条件が家屋形式としての妻入を定着させたのであろう。

一口に伝統的な集落景観といっても、主屋の外観形式も屋敷の構えもその姿は近代に確立したといってよい。主屋の平入化にせよ、妻入民家に見るもの妻面の装飾化も多くは近代民家の動向で、意外にその歴史は新しい。言い換えれば、近世まで遡れば今日見るものとは異なる一段古い景観があったはずで、その佇まいを訊ねるには、景観の変化を逆回転させるかなりの想像力が必要となる。士竪家や開原家住宅の調査はそのような思いを筆者に抱かせた。

4.越畑地区の妻入民家

写真10
写真10 越畑地区の集落景観
(右京区嵯峨越畑)
写真11
写真11 河原家住宅の屋敷構え
(右京区嵯峨越畑北ノ町、京都市指定文化財)

最後に取り上げるのは右京区の北部、旧丹波国と接する越畑地区である(写真10)。越畑は愛宕山の北西に位置し、四方を山でふさがれた山間にある。元禄5年(1692)に丹波国神吉下村との間に山論が起こるなど、かつては耕地が少なく林業に依存する集落であった。

越畑地区を代表する民家は河原家住宅(嵯峨越畑北ノ町、京都市指定文化財)である(写真11)。当家は近世初頭に武士から帰農して当地へ移り住んだという。領主福寿院の「目付」役であり、幕末には大覚寺の御典医も勤めたらしい。

屋敷の南寄り正面に長屋門が開き、その奥に主屋が南に面して建っている。長屋門の横には米蔵、主屋の裏には衣装蔵がおかれ、屋敷は家格にふさわしい構えを見せている。主屋の建築年代は、棟札から明暦3年(1657)であることが確認されている。この点は極めて重要で、年代の判明する日本でも屈指の古民家ということになる。惣大工は嵯峨の三右衛門、日用頭は亀山の次郎介であった。長屋門も棟札から元禄9年(1696)の建築だとわかる。この手の民家の門建築としては、かなり古い時代のものということになる。

主屋は妻入の茅葺き屋根で、東寄りに土間を配し、土間に沿って居室を2列に並べている。しかも、居室列の表側には玄関が張り出し、さらに西側の座敷は主屋から突き出し、このために屋根が鍵の手のように曲がっている。この家屋の形式は「摂丹型」民家と呼ばれるもので、当家はその大型の事例である。

図1
図1 河原家住宅の安政6年(1859)家相図
(『洛北の民家』京都市文化財ブック第4集、1989年、より)

残念なのは全体に改造がみられる点であるが、幸いにも安政6年(1859)の家相図が残されていて、主屋の間取を含め当時の屋敷全体の状況がよくわかる(図1)。これによると、屋敷は石垣と堀とで囲まれ、南端の長屋門は無論のこと米蔵や衣装蔵が現位置に描かれ、さらに屋敷の東北隅に土蔵1棟と小屋が建っていて、主屋の北には唐臼がおかれた納屋を始め、厨厠屋、柴小置場が並んでいる。ウマヤも別棟となっている。屋敷北端には裏門が開き、その下には焼土小屋がおかれ、裏山には小さな社もみえる。

主屋内部の記述も詳しい。表に張り出す式台玄関はこの時代に既にあったことがわかり、西端の座敷には、その表側に土塀で区切り池を配した前栽がつくられている。一方、土間の奥寄りには三ツ口の竃が築かれ、流し等も設けられていた様子が詳しくわかる。

したがって、現在の主屋の間取は幕末にはその大要が出来上がっていたことになり、しかも主屋の周囲には今日よりも付属屋が多く建ち並びいっそう壮観だったはずである。当家は越畑集落とは少し離れて孤立し、屋敷構えは他の家屋と一線を画している。この地域の上層農家の様子をよく留める貴重な遺構であることは間違いがない。

写真12
写真12 瀧井家住宅の外観
(右京区嵯峨越畑南ノ町)
写真13
写真13 瀧井家住宅の土間上部の梁組

越畑地区における一般民家の代表的な事例としては、地区の南寄りに位置する瀧井家住宅をあげたい(写真12)。同家は、南北に長い敷地の南半分を田と畑とし、主屋をその北寄りに建てている。さらに主屋の手前脇に小屋、主屋の背後には土蔵と元の牛小屋が残されている。

主屋は茅葺き入母屋造りの妻入で、その大屋根は同地区の伝統的な集落景観の要として重要である。南側に正面を向け、土間に沿って二列に居室を配置する典型的な摂丹型民家で、内部も伝統的な様子がよく残り特に土間上部の梁組は豪壮で見応えがある(写真13)。建築年代は19世紀前期頃と判断した。

主屋手前の小屋は戦後に再建されたもので、以前は茅葺きの平屋建てであったという。このような小屋の配置は同地区の民家に概ね共通する。しかも、主屋の表側に前栽を設け、露地門や板壁で囲い込む構成は、先の河原家とも共通するこの地区の屋敷構えの基本形である。

瀧井家住宅は越畑地区を代表する伝統民家である。さらには田や畑などを含む屋敷廻りの全体構成も、屋敷と棚田とが一体になった伝統的な土地利用をよく示す点で注目される。

5.文化的景観としての集落

洛北地域の数ある集落の中で、今回取り上げたのは数カ所に過ぎない。しかし、各地区にはそれぞれ特徴のある民家形式が存在し、それが近世から近代まで、たとえ大火などを被ったとしても長く継承された状況が読み取れた。

越畑地区と中川地区とを比較すれば、摂丹型と北山型という異なる民家形式が分布するように、京都北部を広く見渡せば、両形式が錯綜するように分布していることも、洛北地域の伝統民家の特徴といってよい。どのようにしてこのような違いが生じたのか。この点は一筋縄では行かない民家研究の大きな課題である。

重要なのは、民家形式の違いが主屋と庭との関係、あるいは屋敷構えの違いとなって集落構成に反映し、集落景観を特徴付けているということであろう。さらには、棚田や磨き丸太の乾燥小屋など、生業に関わる施設や周辺環境と民家とが一体となることで集落特有の文化的景観は形成されている。

伝統集落の文化的価値とは、これらが複合する総体としての集落景観の価値である。その魅力の解明は、周囲の里山まで含めた総合的な視点が求められる。

なぜ美しいのか、そこにどのような価値があるのか。洛北地域の山村集落と伝統民家は、その文化的景観の価値の見極めを求められている。

参考文献 『洛北の民家』京都市文化財ブック第4集、1989年、 『京都府の民家 調査報告書 第七冊』京都府教育委員会、1975年、 『文化的景観(北山杉の林業景観)保存・活用事業報告書』京都市文化観光資源保護財団、2006年。 瀬戸寿一・河原典史「文化的景観を形成する景観構成要素-北山杉林業地域・京都市中川北山町を例に-」『民俗建築』日本民俗建築学会、第133号、2008年、他