1.卯建の衰退

図1
図1 「京都三条油小路絵図」
(部分、文政3年<1820> 京都府立総合資料館所蔵)

江戸時代も中頃に入ると、京の町家はそれまでの華麗で少々装飾過多の形式から、外連(けれん)を廃し様式の洗練へと向かう(高橋康夫『京町家・千年のあゆみ』学芸出版社、2001年)。外観から派手な装飾が削ぎ落とされ、統一と均斉のとれた町並を指向する町家様式が成立する。その背後には町衆による自己規制の風潮の高まりと美意識の変化があった。建築材料の規格化・標準化、大量生産の進展など、町家を建てる技術の変化もそれを助けた(日向進『近世京都の町・町家・町家大工』思文閣出版、1988年)。華やかな外観が廃れるに伴い、卯建(うだつ)は時代遅れとなり流行らなくなる(図1)

卯建の衰退は京都に限らない。この頃の京町家の行き方は近畿のみならず日本の諸都市の町家に影響を与えたようで、近世中期以降、各地の町家から卯建は姿を消してゆく(大場『近世近代町家形成史論』中央公論美術出版、2004年)。そもそも近世初頭、日本の主要な都市に出現した卯建の町家は、京町家の形式が移入されたものである(筆者はこれを「京都型町家」と呼ぶ)。その意味で、京町家は日本各地の町家形式をリードする存在であり続けたといえよう。

今に残る京町家を近世初頭の町家と比較してみると、その外観は地味で個性に欠けると言わざるをえない。禁欲的でさえある。他都市の町家では、例えば二階の虫籠(むしこ)窓は木瓜型など様々な形の額縁で縁取り、一階の出格子には多彩な組子の意匠を施すなど、それなりに個性的である。装飾を極限まで排除し、個性を封じ込めた京町家の抑制的な意匠は全国的に見ても際立つ存在であり(この点は第1回でも述べた)、その潔さは今日のモダンデザインにも通ずるように思う。

その分内向的傾向は強まり、座敷の造作を中心に室内意匠が充実する。特に二階座敷は数寄屋造りを加味し、繊細優雅な接客空間が確立する。室内の様式美は、京の町衆の文化的洗練と培われた美意識の高さが反映している。

2.二階座敷の確立

京町家の二階に関する史料の初見は古く大永年間(1521〜28)にさかのぼり、以降町衆の住居として二階屋の記述が続くと日向進氏は指摘する(前掲『近世京都の町・町家・町家大工』)。天正年間(16世紀後半)には二階はかなり普及し、近世に入れば二階での遊興が一般化していたと同氏はいう。確かに、18世紀前期の町家指図(間取り図)には縁を備えた二階座敷が確認できるし、他の絵図にも「此上二カイ」「二カイ上り口」などと見え、表通りに並ぶ当時の町家には二階屋がかなり普及していたことが窺える。京町家ではかなり早い時期に二階建てが成立し、二階の利用が始まっていたことは確かであろう。

中世末から近世初頭にかけての「洛中洛外図屏風」を見比べると、平屋建てからいわゆるツシ二階建て(中二階建て)へと、町家形式が急速に整備されていく様子がわかる。16世紀前半の京を描く歴博甲本(町田家旧蔵本)「洛中洛外図屏風」や16世紀後半の上杉本「同図屏風」では、二階建て町家は数えるほどでしかないが、17世紀前半の舟木本(慶長期)や池田本(元和期)では二階建てが標準形となっている。

屏風絵は町家内部までは描かないが、日向氏は、16世紀後半には京町家の内部で茶湯が行われ、「ハナレザシキ」や「オク(ウラ)ザシキ」と呼ばれる接客空間が町衆の住居の奥に出来ていたと言い、歴博甲本「同図屏風」にはオクザシキをもつ町家も描かれていると指摘する。さらに近世に入ると、二階での遊興も一般化し二階座敷の造作が充実していったと同氏は見る。

代々「近江屋吉兵衛」を名乗る町家大工の家系を継ぐ田中家には、多数の住戸絵図が残されている(「田中家文書」、京都市歴史資料館寄託)。同文書の「万屋伝右衛門宅絵図」(宝暦2年、1752)には二階の間取り図も添えられ、床の間を備えた座敷(十二畳)とその前室(五畳)が二階に設けられていたことがわかる。また、時代は下るが天保7年(1836)の「二条小田原屋建築絵図」には、床の間と違い棚を備えた立派な二階座敷を描く断面図が付されている(図2、『京都府の民家』第六冊、京都府教育委員会、1971年)

図1
図2 二階座敷の造作がわかる断面図 「二条小田原屋建築絵図」
(天保7年<1836>「田中家文書」京都市歴史資料館寄託)

このように京町家では、中世末から近世にかけて茶湯など数寄的な生活文化の普及に伴い座敷が成立し、近世中期には二階座敷も一般化する。

田中家の町家指図を通覧すると、少なくとも近世中期以降、京町家の間取りに変化は乏しい。町家としての平面の標準形が確定する中で、一階座敷さらには二階座敷の成立は重要な建築的発展であった。それは座敷の摂取による新たな生活様式の確立を意味する。とりわけ二階座敷の成立は近世京町家の発展史にとって重要な画期であった。このような京町家の動向は、やや時間はかかるものの、他地域の町家にも影響を与えることとなる。

3.京町家の構成

図1
写真1川井家住宅(伝、応仁元年<1467> 築、正徳年間<1711〜16> 改造、文政13年<1830> 座敷増築、中京区下立売神屋川)

では、京都市中に残る最古の町家は何処か。川井家住宅(京都市中京区下立売神屋川)は最古級の町家と呼ぶにふさわしい(写真1)。当家は妙心寺道に沿って建ち、幕末までは京都の近郊集落に属する家屋である。応仁元年(1467)に建てられたという伝えを残し、以来焼けたことがないという(前掲『京都府の民家』第六冊)。とすれば日本でも有数の中世民家ということになる。実際は、部材の一部は頗(すこぶ)る古いものの、「正徳年中建立再造替」と記された棟札から、正徳年間(1711〜16)の大改造でほとんど造り替えられたことがわかる。さらに文政13年(1830)には座敷棟が増築されている(棟札「文政十三戌寅三月上棟」より)。

しかし、残された柱や梁は確かに中世にさかのぼる古さである。しかも構造形式からは当初は茅葺きで、しかも妻入(つまいり)屋根であったろうと報告書は指摘する。この形式は洛西から丹波の山間部に広く分布する「摂丹型」という妻入の農家住宅の形式と類似する。この町家は、元々は京都近郊の街道集落に建つ農家型住宅であったと見るのが妥当であろう。

いずれにせよ、この町家は中世の古材を残す点で貴重であるばかりか、改造の時期でさえ江戸中期であり、京都の町家の中で破格に古いのである。

近世後期、京都市中は二度の大火を被った。天明8年(1788)の通称「団栗焼け」と、元治元年(1864)の「どんと焼け」である。そのために近世の町家は市中には少ないと考えられている。しかし、西陣はこれらの大火を免れた地域である。


写真2 堀井家住宅
(「大市」宝永5年<1708> の大火後、
上京区下長者町通千本西入六番)

堀井家住宅(上京区下長者町通千本西入六番町)は、創業が元禄年間という料理屋「大市」として知られている(写真2)。当家を含む付近一帯は、宝永5年(1708)の大火を契機とした禁裏の拡張に伴い周辺住民が移住して来たとの伝えがあり、事実同家には宝永6年の町絵図(嘉永2年の写し)が残されている(『京の住まい』京都市文化財保護課、1993年)。

堀井家の主屋は、老舗に違わぬ古さを感じさせる。まず外観は立ちがずいぶんと低い。しかも、向かって右手には珍しく卯建を掲げていて、入口には大戸を吊り表構えは古風である。内部は通り土間に沿って3室の部屋を一列に並べるが、その天井は低く、しかも座敷を除いて根太天井という市中の町家には見かけない農家風の形式を持つ(座敷は棹縁(さおぶち)天井)。一方、柱は母屋まで達する通し柱で京町家独自の構造の特徴をよく示している。しかも、柱や梁などの部材が総じて細くて古いことは一目で了解される。

いずれの特徴もこの町家が相当に古いことを示している。筆者は当地に移転した宝永年間にまでさかのぼる遺構と見る。堀井家住宅は小型で標準的な京町家の典型であり、その最古級の事例と見なされるので、文化財としての価値が高く貴重である。


写真3 鳥彌三
(登録有形文化財、天明8年<1788> 大火後の再建
下京区西石垣通り四条下る斉藤町)

市中における近世の町家としては、他に鳥彌三(とりやさ・下京区西石垣通り四条下る斉藤町、登録有形文化財)を挙げておこう(写真3)。鳥彌三も鳥料理の老舗料亭である。団栗橋西詰の南寄り、高瀬川に面した西石垣通りに店を構えたのは天明8年(1788)、天明の大火直後であるとされる(家伝)。筆者らの調査で主屋は18世紀後期にさかのぼると判断された。裏手は賀茂川に接し、古くから夏には床を張り出す様子が古写真にも写されている(『京都百年パノラマ館』淡交社刊、1992年)。

一階は格子、二階はほぼ全面に手摺(てすり)を通して簾(すだれ)を下げ、伝統的な料理屋の店構えがよく残る。内部は通り土間の一角に二階への大階段と大きな台所を設ける点に、料理屋としての特徴的な構成を見せる。二階が発達している点も同様である。客間を表裏に設け、裏は賀茂川を望み表では高瀬川を縁越しに見下ろすという、賀茂河畔の立地を生かし眺望を意図した客間配置が窺える。このように鳥彌三は料亭建築の典型例である。同時に、その基本構成はあくまでも一般的な京町家に倣っていることもわかる。

さて、京都市内で重要文化財の町家は、前回取り上げた角屋(すみや)に加え滝澤家住宅(左京区鞍馬本町)と小川家住宅(中京区大宮通御池下る)がある。

滝澤家住宅は、京都市中からは離れた鞍馬寺の門前町に位置している。付近一帯には市中と変わらない形式の町家が今も多く建ち並ぶ。今は瓦葺きであるが、かつては板葺きの家並で、京都市中の町家の古い形式を比較的長く保持してきた。


写真4 滝澤家住宅
(重要文化財、宝暦10年<1760> 築、
左京区鞍馬本町)

滝澤家は炭問屋であったともいい、祈祷札(きとうふだ)から宝暦10年(1760)に建てられたことが知られている(ただし、二階は後の改造によるもの)。屋根は元板葺きで、両袖に卯建をあげている。建った当初の表構えは京町家の古式を受け継ぐものであった。しかもこの家は、前述の堀井家住宅より間口と奥行は少し大きいものの、市中の標準的な町家の状況をよく伝えている。それゆえ、この町家は大火で失われた近世京町家の典型事例と評されるのである(写真4)


写真5 小川家住宅
(二条陣屋、重要文化財
中京区大宮通御池下る)

一方の小川家は、二條陣屋の名の方が通りがよい。江戸時代は御用商人を勤め、諸大名の旅宿にも当てられ、そのためか裏手に客室が長く続き、市中の町家としては最大級の規模を有している(写真5)。寛文10年(1670)に創建されたという(家伝)由緒を誇る建物で、数少ない大型の近世町家であるとともに、大広間を始めとする客室部の造作意匠にも優れ見所は多い。しかも、防犯・防災の面でも様々な工夫が施されるなど興味が尽きない。

小川家住宅は、実は表の店構え、すなわち「表屋」を失っている。市中に残る伝統的な京町家にはこの表屋を持つ「表屋造り」が多い。このことも京町家の重要な特徴である。京都市指定有形文化財である杉本家住宅(下京区綾小路通新町西入矢田町)と長江家住宅(下京区新町通綾小路下る船鉾町)はその代表例である。


写真6 杉本家住宅「奈良屋」
(京都市指定有形文化財、明治3年<1870> 上棟、
下京区綾小路通新町西入矢田町)

写真7 長江家住宅
(京都市指定有形文化財、下京区新町通綾小路下る船鉾町、北側(右手)の棟は慶応4年<1868>再建、南棟は明治40年に増築)

写真8 長江家住宅の通り土間裏手
通称「はしりにわ」

写真9 大塀造りの町家、旅館「十四春」
(登録有形文化財、明治42年<1909> 築(口伝)
下京区諏訪町曼寿院通り北入る)

写真10 大塀造りの町家事例、仲家住宅
(登録有形文化財、大正5年<1916> 頃築
中京区室町通御池上る御池之町)

杉本家は「奈良屋」の屋号を持つ寛保3年(1743)以来の呉服店で(創業当初は四条烏丸付近)、明和4年(1767)に現地に移転されたという。主屋は明治3年(1870)に上棟された市内で最大規模を誇る町家である。主屋の他に大蔵・隅蔵・中蔵などが路地庭や座敷庭とともに配され、明治中期にはさらに増築棟がこれに加わり間取りは複雑である。しかも、主屋には独立した立派な仏間が備わるなど、普通の町家には見られない大店としての特色が随所に窺える(写真6)

長江家住宅は、南北の二棟で構成されている(写真7)。北側(写真右手)の棟は、元治の大火後の慶応4年(1868)に再建されたもので、標準的規模の通り土間式の町家である。一方の南棟は明治40年に表屋造りの形式で建て増しされた棟である。筆者が注目するのは、通り土間裏手の「はしりにわ」の様子である。ここには、井戸やはしり(流し)、おくどさん(竃)などのお勝手廻りの構成が、上部の吹き抜け(「火袋」と呼ばれる)の梁組とともによく残されていて、明治後期の京町家の暮らしぶりがよくわかり貴重である(写真8)

京都市中には、通りに面していながら店を持たない形式、すなわち「仕舞屋(しもたや)」造りの町家も多い。特に通りに面して高い板塀を建てるいわゆる「大塀造り(おおべいづくり)」の町家は独特の外観を構成する。

旅館「十四春(としはる)」(下京区諏訪町曼寿院通り北入、登録有形文化財)は、大塀造りの町家の典型であろう(写真9)。この家は、明治42年(1909)(口伝)に医薬品業を営む経営者の本宅として建てられたらしい。通りに沿って高塀を巡らせ、主屋はやや奥に引き込んで建っている。高塀には腰高の出格子窓が付き、単調な塀の外観にアクセントを添えている。大塀造りの構えには腰高の小さな出格子窓が付きもので、大塀造りの定型である。

大塀造りは仕舞屋造り(専用住宅)であり、市中にいながら一歩奥まった落ち着いた環境を求める町家形式として成立したもので、それゆえお茶屋や旅館などの商業建築にも採用された。十四春は、大塀造りの居宅がはからずしも旅館に転用された事例である。大塀造りは表屋造りの町家から表屋を欠いた構成と見ることもできる。その意味で、大塀造りは京町家から派生した専用住居の形式と理解することができる。

なお、市内で登録有形文化財に指定されている「大塀(おおべい)造り」の例としては、他に仲家住宅(大正5年(1916)頃築、中京区室町通御池上る御池之町)がある(写真10)

4.京町家の可能性

京町家とは何か。その成立は少なくとも平安後期までさかのぼることは前回述べた。当時すでに京町家の基本形はできていたと見ることができる。しかし、今日の市中に建ち並ぶ京町家の完成期は、江戸時代も後期である。京町家の完成形式には研ぎ澄まされた町衆の美意識と様式の洗練が見て取れる。その完成度の高さゆえ、京町家は今日もなお日本の都市住宅の典型としての地位を保ち続けている。

京町家という遺産の持つ意義はそれのみに留まらない。京町家は昨今の様々な町家再生の取組みを喚起し、内部の用途転用に十分に耐え新たな様々な役割を発揮している。京町家に、単なる都市住宅に収まらないおおきな可能性を感じるのは筆者だけではないと思う。