昭和以前では、子供たちは10歳前後、尋常小学校や高等小学校の卒業を契機に奉公に出るのが通常で、奉公にあがれば、まず丁稚の修行からで、はじめは主人のお供や子守、掃除などの雑用を受け持ち、少し長じると商用の使い走りなどをしました。 こうした丁稚奉公を4〜5年勤めた後、17〜8歳頃になれば手代に昇格します。京都では、手代のことをスンマと称しました。スンマというのは、すみま(角前)が諮ったもので、すみまえがみ(角前髪)の略です。 スンマを数年つとめれば、いよいよ番頭となり、番頭となると羽織を着ることと、腰に煙草入れを吊るすことが許され、店の取引関係の仕事を任されるようになります。そして、番頭を長年勤めあげ、だいたい20歳代後半ぐらいになれば、その中から選ばれた者が別家となります。別家は、主家から暖簾、屋号の他に、若干の資本が与えられて、独立させてもらうことですが、主家と同種同業の営業は不文律として禁じられていました。ちょうど別家となる年齢が結婚適齢期でもあり、別家すると同時に結婚して、夫婦で店を構えるというのが通常でした。 また、別家しない場合には、結婚と同時に住み込みの番頭から通いの番頭として、主家に勤め続けるケースも多く、筆頭番頭格として商才をふるう道もありました。 一方、奥向きの用事に従事する女中さんは、店の奉公とは異なり、京都市中や、近県のお嬢さんが、嫁入り前の見習い奉公に出てくる場合が多かったようです。こうした見習い奉公は、半季(6ヶ月間)であり京都では2月と8月を出替り (デガワリ)といって、半季の奉公人が交替する時期となっていました。 ![]() 店員たちの松茸狩(明治末期・撮影場所不明) しかし、現在の社員旅行の前身と考えられる、店単位で行われる野遊びについては、明治後期からは写真などで存在を確認できるものの、いつ頃始まったのかは定かではありません。商家の家訓・店則類には、家や店の年中行事を付帯するものも多く、江戸時代の同種の記録類にはそうした記事は見当たらないので、おそらくは明治に入ってからの習俗であったと思われます。
映像に見る近代京都の生活文化 HOME PAGE |