戦時体制下の生活
市民が所蔵する、第二次世界大戦終結までに撮影された写真のなかで、出征兵士やその見送りの情景を撮影したものは、ひとつの群を形成するほどに数が多い。帰れるかどうかわからない夫や息子を、送り出すに際して撮られた写真が、たくさん残されているのは当然と思います。そこには、家族との記念撮影や、見送る人々からの挨拶を受ける情景、あるいは京都駅までの出征行進など、さまざまなものがみられる。
そうした中でも、もっともポピュラーな写真が、当時統帥権を有していた昭和天皇の御真影を祀った祭壇を背景にした記念写真です。その他、国防婦人会や防空演習などの、銃後の生活の一端を示す写真も数多く残されています。

お祓いを受ける兵士たち
お祓いを受ける兵士たち(昭和17(1942)年頃・東山区八坂神社)


八坂神社の本殿前にて、お祓いを受ける兵士たち。写真に写っている兵士の服は汚れているので、帰還兵の可能性もありますが、当時帰還兵のお祓いは一般的ではなかったので、おそらくは、部隊が外地に出る際にお祓いを受けている模様とも思われます。このような兵士の戦勝祈願は、京都では、平安神宮と護国神社において頻繁に行われていましたが、八坂神社での例は珍しい。この部隊についての詳細はわかりませんが、服装から陸軍の歩兵部隊であることが確認できます。
  1. 略帽
  2. 雨外被
  3. 外套
  4. 背のう この中には、着替え用襦袢(下着)1枚、袴下1枚、靴下2足、手拭、健康タワシ、洗面袋(浴用石鹸、洗濯石鹸、歯ブラシ、歯磨粉)、手入袋(はさみ、ナイフ、糸巻きと針)、通信紙(便箋のこと)、そして、教練日誌・修養日誌・作戦要務令・教練規定・射撃教範・ガス防護教範・観測手帖・野戦築城教範などの典範類が入る。ちなみに、兵卒の背のうは布製、将校は革製。
  5. 鉄帽
  6. はんごう
  7. 弾薬盒 60発入り。写真では見えないが、前には30発入りの弾薬盒を2つ付けています。
  8. 銃剣 帯革に下げる。
  9. お祓いをする神官
  10. 千人針か
    その他、写真には見えませんが、各自「認識票」と呼ばれる、数字が刻印された真鍮板を、体に紐でくくりつけていました。認識票の番号は、各自の認識番号で、死体が残らないくらいの爆死を遂げたとしても、本人の死を確認できるように、装着が義務づけられました。

出征兵士の見送り  大日本国防婦人会による慰問袋製作と慰問品の種分け
出征兵士の見送り
(昭和13(1938)年3月・東山区五条橋東)
番頭さんの出征を、主家にて見送った時の記念撮影です。店の間の奥に、昭和天皇の写真(御真影)を中心に祭壇を拵えています。撮影された昭和10年代前半は、戦勝ムードの時期で、町内の見送り式の後、そのまま隊列を組み、場合によっては太鼓やラッパの演奏をつけて、京都駅まで見送るという派手なものでした。
  大日本国防婦人会による慰問袋製作と慰問品の種分け
(昭和13(1938)年頃・京都市内)
昭和9(1934)年4月5日大日本国防婦人会京都地方本部が結成され、昭和11(1936)年には京都市内でも学区ごとに編成され、会員数も3万8千人を数えました。割烹着を身につけ、慰問袋に入れる雑誌などの種分けや千人針を縫う様子がうかが えます。
御真影の祭壇  出征兵士の見送り
御真影の祭壇
(昭和14(1939)9月1日・中京区柳水町)
  出征兵士の見送り
(昭和19(1944)年頃・下京区高橋町)
戦況の悪化に伴い、昭和17年(1942)年以降、 出征兵士の見送りも縮小ムードになりました。撮影された昭和19年頃は、出征する者やその家族は、なるべく人目につかないようにと、夜明け前などに出征するようになったようです。
銃後の生活―供出された金物  銃後の生活―供出された金物
(昭和18(1943)年頃・下京区荒神町)
「敵機を受けるか。鋼鉄を出すか。」の標語のもとに、鉄製不急品の回収が昭和14(1939)年2月16日から始められました。不急品というのは、さしあたって用のないものということで太平洋戦争勃発に伴い、昭和16年(1941)以降海外からの輸入が途絶えたことから戦況の悪化に伴い、公共物の回収では間に合わず、各家・各自からの鉄瓶や鍋、火鉢などの生活用品も供出されました。


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