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4.近代社寺建築を
  支えた大工道具

京都市文化市民局文化芸術都市推進室
文化財保護課技師 清水 一徳

はじめに

前回3号(『京の近代仏堂』−その1〜3−)を通じて,概ね明治から昭和戦前期までの京都の近代寺院建築に焦点を当てその特質をみてきました。このなかでは明治以降の堂宮系和風建築が近世以前の建築技術をさらに昇華させていったこと,また,およそ明治後期以降には建築様式が復古調に,あるいは新意匠の創造のため,自由な形態が積極的に演出されるようになることを主な論点として紹介しました。

これらは技術の裏付けがあって,初めて実現し得たものであります。加工精度,建築部材接合法の発達を進化させ,仕上がりも美しく建築構成は堅固にするなど,伝統的な木工技術をさらに進展させるだけではなく,西洋建築から学んだ建築技術を用い,それらの応用と変形も同時にすすめられていきました。小屋裏を西洋伝来のトラスと伝統的な桔木(はねぎ)の組み合わせによってまとめ,大スパンと自由な軒反りの実現がはかられることなどはその好例でありましょう。これらは明治維新後もわが国の和風の木造建築技術が健在でかつ柔軟性をもっていたことを示しており,こうした技術的成果が近代らしい堂宮系和風建築の創造を可能としていったとも言えます。

この近代木造建築技術の進展の貢献者として,建築用主要道具である木工具の発達は見逃せません。近代化・合理化に沿った職人の側からの対応で手道具を駆使して木造建築をつくる技術は,加工精度という点においても最高水準に達したといわれています。

『京の近代仏堂』最終回となる本号では近代大工道具の歴史についての理解,さらにはこれらの道具を通して見た近代堂宮建築文化の特色にまで思いを至らせてみます。

近世以前の大工道具の歴史(概説)

まず、近代にいたるまでの大工道具について、『ビジュアル版 日本の技術100年 第6巻』(1989年 筑摩書房)を中心にその歩みを簡単に通観してみます。

木の文化の国,とされる日本では昔から大工(木匠)が工人の中心であり,大工の手にした大工道具が道具の中の王者の位置を占めてきました。鉄の道具が普及しはじめた弥生時代中期の遺跡出土木材の加工痕跡をみると,鋸(のこ)を除いてほぼ今日の大工道具の主要な種類が出そろっていることがわかります。鋸も古墳時代には出現していました。

しかしその鋸は横挽きのものだけで,建築の製材用の縦挽き鋸は15世紀に入ってから使われだしています。それまでは斧や鑿(のみ)による打ち割り法で製材していました。鉋(かんな)も古くから槍鉋(やりかんな)がもっぱら使われていましたが,16世紀ころからはじめて今日のような台のついた台鉋(だいかんな)が現われ,製材用の鋸とともに建築技術の革新期が現出します(図1)

江戸時代に入ると職人技術の黄金時代がはじまり,これまで万能的であった大工道具も建具職・家具職などと分化した木工関係職人の用途にあわせて専門的・単能的な多くの種類に分化していきます。

六孫王神社権現社新縁起 坤
図1 「六孫王神社権現社新縁起 坤」(六孫王(ろくそんのう)神社(京都市南区八条町)所蔵)
元禄15年(1702)に描かれた絵巻物で画面は社殿造営の場面である。前挽鋸(まえびきのこ)を用いた挽割製材による正確な製材,台鉋による部材表面の美しい切削など,近世の大工道具の充実した様子を伺い知ることができる。元禄14年建立の一連の社殿は京都市指定有形文化財として現存している。

近代の新型大工道具(概説)

既に木工具の基本的な機能は江戸時代において完成の域に達していましたが,明治以降も道具の開発・改良は続き,大正から昭和にかけて,大工道具はその最盛期を迎えます。昭和18年(1943)の労働科学研究所による大工道具の編成や道具の調査報告によると一人前の大工が本格的な仕事をするのに必要な数(標準編成)として179点の道具があげられています。

近代期にあらたに出現ないし変化をおこす築用主要道具として,縦挽き・横挽き両用の鋸である両刃鋸(りょうばのこ),鑿の刃裏を平らに研ぎやすく工夫した裏透(うらすき),削り面がざらざらになる逆目を防ぐために鉋刃を二枚入れた合せ鉋(二枚鉋),ネジの利用により微調整を容易にした「機械鉋」,ボルト錐(きり)などがあげられます。以上の変化を通観するとき,近・現代における建築用主要道具は,「美に奉仕」する道具において,より精巧な加工を可能とする機能分化が進行した,と言われています。

以下にその具体的事例のいくつかを紹介したいと思います。

機械製材の導入と木挽(こびき)の減少

前挽鋸
図2 前挽鋸
製材機
図3 1900年ごろの輸入製材機
『木材工業史話』(林材新聞社出版局 1950より)

原木を2人掛かりで縦に挽き割る大鋸(おが)に代わって,「前挽鋸(まえびきのこ)」を用いる「木引」が出現したのは16世紀後半頃と考えられており,その後,江戸時代を経て昭和時代前期まで盛んに用いられます。操作方法は江戸時代の絵画資料や近代に撮影された古写真にも多く確認されるように,ななめに立て掛けた木材を縦に挽いている姿があります。かつて板をつくることは大工の徒弟が修業として行う超重労働でありました。

この作業で使われたのが前挽鋸であります。その形状は時代によって変遷しますが,近代では一般的には身幅が広く,柄の取り付け角度が斜めであり,峯が大きく湾曲するものとなります(図2)

しかし,幕末から明治初期に欧米から製材機械が導入されて木材の機械加工がはじまると,徐々に手挽きによる製材がなくなっていき,特に日露戦争以降は木工機械の飛躍的な増加が見られ,こうした機械の導入により木挽職の仕事は急速に奪われていきます(図3)。しかし,手挽きによる製材がなくなったわけではありません。さまざまな寸法の材料など,細かな要求に答えることのできる手挽きによる製材は昭和時代前期まで用いられています。

両刃鋸(りょうばのこ)の出現

両刃鋸
図2 片刃鋸(左)と両刃鋸(右)

従来,わが国の鋸は,古墳時代の一部を除いては,すべて片側にのみ鋸歯を刻みつけた,いわゆる片刃鋸として発展してきたものであります。近代になるとこの両者が融合一体化して鋸身両側に縦挽き,横挽き双方の刃が付いて今日見るような両刃鋸として発展していきます(図4)。両刃鋸とは大工が便利に持ち歩けるよう1本で2つの機能を持たせたもので現在では替え刃式が主流です。

近年の研究によると,大型で大工が使用し得る両刃鋸の出現は明治30年代に絞ることができるとされ,その背景として特に製造過程における熱処理技術の改善など,製造技術の改善や進歩に拠るところが大きかったとされています。

機械的な鉋の出現

基市決鉋
図5 基市決鉋
製材機
図3 機械式溝鉋

明治時代になって著しく機能が多様化・複合化し始める大工道具として溝形をつくる鉋である「溝鉋(みぞかんな)」が挙げられます。

用材の組み合わせやはめ込みのため,長い用材に溝形を加工する行為は室町時代には見られるといいます。近代に入ると西洋近代建築の導入とともに,溝形をつくる鉋も大きな変革を受け,機能に応じた形状の変化,また目的に合わせた多様な形のものが派生していきます。罫引(けびき)刃や定規版をつけるなどして,近世以前では手加減に拠るところが大きかった溝加工が,より正確に機能化されたものになります。定規をクサビ一本で移動できるように工夫された「基市決(もといちじゃくり)鉋」(図5),あるいは日本の技術要素として長らく欠落していたネジを取りつけて,鉋の定規として台や刃の位置を調整できるようにした溝鉋も登場します。この種の溝鉋には,「機械決」,「機械鉋」などと「機械」の語を冠して呼ばれてもいます(図6)

ネジの利用は溝鉋だけではなく,面取(めんとり)鉋でもみられ,面の角度や深さを保つため,刃幅や台木の間隙を調整するのに使われるようにもなります。

合わせ鉋(二枚鉋)の出現

基市決鉋
図7 二枚刃鉋(左)と一枚刃鉋(右)

現在の鉋の多くは,刃の裏にもう一枚の刃(裏金)が合わせてあります。合わせ鉋とも二枚鉋とも呼びます(図7)。これは刃の食い込みや逆目(さかめ)(さかめ)を防ぐかんな独特の機構であります(図8)

わが国で二枚鉋が一般に使用されるようになったのは明治30年代からで,洋風鉋から影響を受けて考案されたものとされています。洋風鉋にくらべて構造は少し違いますが,逆目防止の原理はまったく同一です。

現在の裏金は両上端を内側に折り曲げて刃裏に接していますが,古い二枚刃鉋では,両肩にリベット状の鋲を取付け,丸い頭で刃裏に接していました。さらに古いものでは,裏金には小穴が開いていたといいます。それは当時手近にあった刻み煙草用の煙草包丁を刃裏に取り付けたのもので,煙草包丁の耳の紐通しの丸い穴がそのまま,鉋の裏刃の形式として昭和の御代まで続いたものだとされています。

鉋の構造と二枚刃の機能
図8 鉋の構造と二枚刃の機能
二枚刃では裏金で切削面が大きくなり,かんな屑が折り曲げられ先割れが生じない。

ボールト錐(きり)・ハンドル錐

明治にはいって洋風建築とともに本格的なネジや歯車の原理を使用した道具や接合法が入ってきました。このためネジの形をしたボールト錐(図9)や,ハンドル錐(図10)などの西欧伝来の道具も使われるようになります。これにより太くて深い穴をあける道具が編成に加わり,和風建築にもボルトやナットによる部材接合法が広く流布することになります。

前挽鋸
図9 ボールト錐

製材機
図10 ハンドル錐


名工の出自と活躍

良い仕事をするには良い道具がなければなりません。大工が万金を払っても良い道具を求めるのは当然でありましょう。それに応えて道具鍛冶も優れた道具を作ろうとします。単なる道具の域を越えた大工道具の名品も生まれ,明治から昭和にかけて,こうした名工の名も知られています。千代鶴是秀,石堂などはその代表的な人たちであります。

こうした名工の号は全国的に名を知られ,代々商標として伝えられていくようになります。

第2次大戦までに道具の産地も兵庫県の三木,新潟県の三条周辺にとほぼ固定するようになります。

本稿の作成にあたり

本稿作成にあたり,渇恍J組 展示資料館にて大工道具の撮影,併せて同社関係者に資料提供や大工道具に関する様々なご教示をいただきました。記して謝意を表します。

また,近現代における大工道具の変遷については,諸先学の研究成果に依拠しており,一連の報告および論文等は以下に列記するとおりとなります。さらに詳しい情報を得たい方は資料閲覧など活用をされることを願います。

株式会社奥谷組 展示資料館について (図11)

鉋の構造と二枚刃の機能
図11 株式会社奥谷組 
展示資料館 所在:京都市南区吉祥院向田東町

伝統的な堂宮系建築技術を広く一般に紹介する展示館。継手や仕口を中心にその模型を製作し,写真や図解に解説を添えて展示している。そのほか館内には設計図面や構造模型,建築儀式祭具や瓦,金物類のほか,今回焦点をあてた各種大工道具にまで幅広い展示内容となっている。(了)

参考文献一覧