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2.復古主義

京都市文化市民局文化芸術都市推進室
文化財保護課技師 清水 一徳

はじめに

前回(『京の近代仏堂』1)に引き続き概ね明治から昭和戦前期までの京都の近代寺院建築に焦点を当て,その特質を取り上げてみようと思います。

前回では近世までの伝統的な建築技術をベースに堂舎の復興を進めたものを中心に「近世の継承と昇華」として取り上げました。

今回はこの他に,京の近代仏堂を特徴づける大きな流れとして,建築家が関わる建築で古代,中世,あるいは桃山期の意匠が再現された造形をもつものを「復古主義」として取り上げてみようと思います。

京都における復古様式の先駆けとなったのは,明治28年(1895)造営の平安神宮とみられます(図1)。諸部材の形状とプロポーション,細部の絵様・形において近世的なものが排され,古代の建築に近いものにする努力がなされています。実施設計は明治から昭和初期の建築家・建築史家で日本建築史の基礎を築いた伊藤忠太(いとうちゅうた)(1867−1954)があたっています。建築史研究が緒についたばかりの当時にあって,この模造大極殿の設計をなし遂げたことは偉大な業績であったというべきでしょう。

その後京都では本格的に復古寺院が動き出します。その契機となったのは明治30年より開始された古社寺保存法による古社寺修理に伴う古建築の意匠・技術変遷の研究と体系化,つまり日本建築史学の熟成が大きく関与しているとみられます。

京都府は奈良県とともにその起点をなしますが,古社寺修理に関わる監督技師や建築史家のなかには社寺建築の新築設計にも積極的に携わる人物たちが現れます。彼らはその設計の際に自身が体得した建築史学の成果の応用を試みました。すなわち,様式史にもとづく擬古的な意匠・構造が採用され,柱の隅延びなどの技法,鎌倉時代風の意匠をもった蟇股(かえるまた),禅宗様風の拳鼻(こぶしばな),安土桃山時代の建築を意識した豪華絢爛な装飾などを建物に展開させるのです。これらの寺院建築は,近代学術知である建築史学のひとつの到達点を示しており,「京の近代仏堂」を特徴づける大きな流れとして評価できます。

今回はこれら近代の復古主義仏堂建築のうち,正法寺遍照塔,心城院岸駒堂,東福寺本堂の3件を取り上げ,具体的にその特徴についてみてみたいと思います。

平安神宮
図1 平安神宮

正法寺遍照塔(しょうぼうじへんじょうとう)
京都市西京区大原野南春日町

正法寺は洛西大原野,大原野神社より南に一渓をへだてた南春日町にあります。法寿山と号する真言宗東寺派の寺院で,大原野の山野を借景とする見晴らしの良い境内に本堂・客殿等の建築が配置されています。

遍照塔全景
図2 遍照塔全景

遍照塔は境内の北西,石垣に築かれた小丘に建ち秀麗な姿をみせていますが(図2),平成20年に当地に移建されたものであり,以前は京都東山霊山観音駐車場に建っていました。元来は日清・日露戦争の戦没者慰霊の為,明治41年(1908)に京都府により建設されたもので,移築前には「忠魂堂」と縦書きに大きく陰刻された扁額が上層に揚げられていました。

設計主任に亀岡末吉(かめおかすえきち)(1865‐1922)が担当し,明治41年3月に起工,同年9月に竣工しています。設計者の亀岡は東京美術学校で日本画を専攻,卒業後は内務省の古美術調査等に従事し,明治40年以降,京都府及び滋賀県の技師として本格的に古社寺の修理に関わります。設計活動に至るまで美術一般の修練を積んでいたことも関係してか,特に彫刻絵様に独自のデザインを確立させ,彼の華麗な彫刻意匠は「亀岡式」と名付けられ,模範的な作例として当時の建築界に大きな影響を与えました。遍照塔はこの亀岡の処女作と位置づけられています。

塔は六角ニ重塔という,特異かつ稀有な形態をもちますが,全体的によく均衡が取れており,変化と調和の妙を得て興趣を感じる建築です。周囲に高欄をめぐらせた六角石造基壇の上に建ち,下層は基壇の上に側柱を立て六角平面を構成させます。各面一間で側柱通りが柱間吹放しになり,中央に蝋色(ろいろ)塗の六角須弥檀・厨子を設け,この内部に碑を安置します。

上層は下層よりも縮小された平面をもち,各面の柱間装置は縦連子窓と板扉を交互に設け,塔身の周囲には縁高欄を設けます。軒まわりは上下層とも大面取角垂木を疎らに配置し一軒の平行垂木とします。屋根はチタン葺(元は桧皮(ひわだ)葺)で宝形造(ほうぎょうづくり),頂に露盤(ろばん)を伏せ,金銅製の宝相華(ほうそうげ)を花弁状に重ね,御光・鷙鳥(しちょう)を加えた極めて特異な屋頂飾りをもちます。

軸部はすべて丹塗とし,琵琶板・軒裏板などの板類を胡粉(ごふん)塗に仕上げ,垂木・隅木の鼻に美しい透彫の飾金具を打って装飾しています。

遍照塔全景
図3 遍照塔近景
柱の胴張り,組物・高欄の様式に古式意匠の採取が
認められる。

塔の意匠には古代から中世にかけての寺社建築様式が採取されています(図3)。下層の円柱は膨らみをもち,飛鳥時から平安前期にその遺例のある「胴張(どうば)り」とし,組物肘木ではその木口において強い彎曲があり,下端の線も端から端まで一気につづいた曲線をなすもので,法隆寺の諸建築にその事例をみます。蟇股は平安後期から室町時代以前の遺構のそれに共通し,上層の高欄は斗束が下の広がった撥形になり,奈良時代後期まで遺例が認められる組高欄(くみこうらん)に範をとります。

亀岡は和風建築に独自のデザインを確立させた明治時代和風建築革新の先覚者として評されますが,彼の処女作とみられる本建築のつくりからは当時の古代・中世建築研究の進歩を基盤に,江戸時代の様式を極力廃し,或は鎌倉平安に遡り或は奈良飛鳥に往き,新様式を建設することに努力している様が伺えます。つまり彼の孤高の和風建築スタイルもやはり広範囲にかつ多様な復古意匠を折衷させるという,明治中期以降の建築家と同一の方法から出発したこと示しており,本建築は古今の意匠が溶け合い,統合・昇華する以前の近代社寺建築の様式確立に向けた胎動がうかがえる極めて貴重な遺構といえます。

心城院岸駒堂(しんじょういんがんくどう) 
京都市上京区寺町通広小路上る北之辺町

岸駒堂全景
図4 岸駒堂全景

心城院は法華宗陣門派(ほっけしゅうじんもんは)の本山である本禅寺(ほんぜんじ)寺域にある塔頭です。江戸時代後期の絵師である岸駒(がんく)の菩提寺でもあり,墓地には長子岸岱(がんたい)・連山以下,岸家一族の墓があります。境内地の北西,本堂脇には岸駒の木像を安置した小堂を構え,これを「岸駒堂」と称しています(図4)

当建築は大正12年(1923)の建築で,設計者は阪谷良之進(さかたにりょうのしん)(1883−1941)です。阪谷は大正から昭和初期にかけて奈良・京都にて文化財修理技師を歴任,その後文部技師として全国の古社寺修理の監督を務めた人物で,設計作品も多く遺しています。京都での主な実績をみると豊国神社摂社貞照神社本殿(大正14年),知恩院納骨堂(昭和4年),平安神宮大鳥居(昭和4年)などが挙げられます。

堂は2間四方の小規模な祠堂であり,低い基壇上に建ち,平面は正方形とし,内部を前後2区に分け,前方を吹き放しの拝所に,後方を内陣としています。内陣は瓦敷土間に蝋色塗の壇を設け,壇上に厚畳および褥(しとね)を重ねて,岸駒像を安置します。組物は簡素な大斗肘木組(だいとひじきぐみ)とし,軒は一軒で疎垂木,緩やかな真反りをみせ軽快な表現を示します。屋根は宝形造・桟瓦葺とし,頂上に青銅の宝珠(ほうじゅ)露盤を載せます。

建物の概形は京都近郊にある小規模祠堂のいくつかを参考に設計が進められたようで,近世までの伝統を素直に継承しているかに見えますが,細部をみると意識的な復古を含んだ造形をみせていることがわかります。

正面蟇股
図5 正面蟇股
鎌倉期に発生した内部飾に図案的左右対称の彫刻をもつ
刳抜蟇股を基本とする。
正面蟇股
図6 虹梁絵様・桁取合部
垂木・桁木口の透彫金具,肘木・桁の木割に古式が,
一方で虹梁の絵様彫刻に新様式の創造が認められる。

正面扉上の蟇股は鎌倉期に発生した内部飾に図案的左右対称の彫刻をもつ刳抜蟇股(くりぬきかえるまた)を基本とし(図5),垂木・桁木口の透彫(すかしぼり)金具の文様は古代建築にみる大陸様式の入った太く力強い忍冬唐草(にんどうからくさ)文様を示しています。長押に取付く六葉(ろくよう)金物は厚み薄く,猪目が大,樽の口は太く短いなど,鎌倉時代に定型化する古式六葉金物の特徴をよく示します。

またこの堂の復古的志向は以上の細部意匠にとどまらず,建築各部の寸法や納まり,つまり構造技術まで及んでいます。例えば組物は柱上の大斗(だいと)に舟肘木(ふなひじき)を組み,桁を載せ,垂木を架けますが,柱,肘木,桁と上方に組むことにしたがい断面の幅を狭くしています(図6)。これは中世以前の社寺,あるいは近世初頭の書院造りにまで継承された技法です。また長押(なげし)の成(幅)は小さく,柱径の約50%としています。長押の木割(きわり)(部材寸法の割合)は上古は細く,12世紀頃より太くなりますが,岸駒堂の長押寸法の割合をみると例えば平安時代末期建立の醍醐寺薬師堂(伏見区,1124年)に近いものを示します。これらは意匠的に退化する以前の古式仏堂建築の木割の再現を図ったものとみられます。

一方で,以上にみる復古的な志向を超えた新しい意匠の創造にも踏み込んでおり,例えば正面虹梁(こうりょう)の絵様(えよう)彫刻は伝統的な様式から離れ,その線様は流暢で運動感に満ち,軽やかなものとなります。おそらく設計者が古典を規範におきつつ自由に腕を揮ってその曲線を描いたとみられますが,この種の彫刻文様の鮮やかな捌き方は,およそ明治後期以降の仏堂建築の細部意匠に多く現れており,近代仏堂の細部意匠を彩る新様式の一例ともいえます。

当建築は建築構造・意匠を古建築からの引用により復古調に違和感なくまとめると同時に,伝統意匠を再解釈のうえ,新しい造形への転換を図ろうとする近代の古建築技術者の意欲がみてとれる作品として貴重です。

東福寺本堂(とうふくじほんどう)(法堂)
京都市東山区本町

東福寺は臨済宗東福寺派の大本山です。鎌倉時代前期の嘉禎2年(1236)に九条(藤原)道家が東山に一大伽藍の建立を企て,名も東大・興福の一字ずつをとり,東福寺となづけたのがはじまりです。鎌倉時代後期から室町時代前期にかけて相次ぐ火災に遭い主要伽藍を失うことになりますが,室町時代中頃に伽藍の復興は果たされ,中世から戦国期にかけて他の五山が兵火に遭って伽藍が全焼しているのに対して,中心伽藍は幸いにも戦火を免れて近世を迎えています。しかし明治14年(1881),方丈からの出火により仏殿・法堂・庫裏等を全焼し,貴重な中世伽藍の中核建造物を失うことになります。火災後,ただちに再建の準備に入り,まず明治23年に方丈を再建,その後明治40年代に恩賜門,庫裏を建て,本堂は仏殿と法堂を兼ねる大建築として昭和9年(1934)4月に竣工しています。

本堂は大正3年(1914)から再建計画が練られ,初期には京都の近代寺院建築に活躍した堂宮大工,稲垣啓二(1848−1917)が設計を担当していましたが,計画の後半には稲垣が病で倒れたことも重なり,当時京都帝国大学工学部教授で建築史家の天沼俊一(あまぬましゅんいち)(1876−1947)が顧問として設計に参画することになります。

天沼俊一は建築史研究・教育とは離れた,実際的な建築設計家としても活躍しており,道明寺本堂(大正8年 大阪府藤井寺市),高野山金堂(昭和2年 和歌山県伊都郡高野町)、本能寺本堂(昭和3年 京都市中京区),四天王寺五重塔(昭和15年(同20年焼失)大阪市天王寺区)などの名作を創造しています。

本堂(法堂)全景
図7 本堂(法堂)全景
本堂内観
図8 本堂内観
本堂組物・軒見上げ
図9 本堂組物・軒見上げ
組物を挿肘木とし組物間を通肘木で連結,
垂木は「隅扇垂木」とするなど大仏様の要素を多く含む。

本堂は壇上積の基壇に建ち,外観上二重の屋根をもちます。構造形式は五間三間・一重裳階(もこし)付,従って裳階の柱間は正面七間・側面五間の大建築で,昭和期の木造仏堂としては最大級のものでしょう(図7)。内部は一間通りの裳階の内側を内陣(身舎)とし,高く仰がれる天井には堂本印象による雲龍図が描かれ,床はすべて瓦を敷いた四半敷とし,身舎中央後寄りに須弥壇を据えます(図8)。用材には台湾檜が用いられています。

本堂は禅宗本山の中核をなす仏堂でありながら純粋な禅宗様ではなく,大仏様(だいぶつよう)という建築様式の要素を多く採り入れています。すなわち,組物を挿肘木(さしひじき)(柱に挿し込んだ肘木)とし組物間を通肘木で連結,また垂木は隅だけ放射形になる「隅扇垂木(すみおうぎだるき)」にしていることなどはその特徴をよく示すものです(図9)。大仏様とは,上醍醐の僧の俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)が鎌倉時代前期に採用した建物の構造自体を意匠とした建築様式で,同寺三門(室町時代中期建立)もこの例に属しますが,明治14年に焼失した仏殿もやはり既往の研究や文献史料から大仏様を基調としていたことがわかっています。本堂の再建にあたっては基本となる建築様式を焼失した旧仏殿,あるいは眼前の三門に倣ったものとみられます。

建築の装飾的細部に目を向けると,様式にこだわらず中世から近世初頭の堂塔のそれを参考にして纒められています。たとえば木鼻には鎌倉後期折衷様(せっちゅうよう)の仏堂にみられる若葉を薬研彫に表現した意匠とし,破風(はふ)の妻飾にみる大瓶束(たいへいづか)とそれに付する唐草・笈形(おいがた)の形姿は装飾的に発達する以前の室町期にその類例がみられ,懸魚(げぎょ)は桃山時代に完好形として出現する三花(みつばな)懸魚の特徴をよく示すものとなります。したがって各々の細部の時代様式には多少の幅が出てくることになりますが,各時代を代表する建築細部の「美」を取り入れ,本堂全体のより完成度の高い意匠構成の創造を試みた天沼の意図を見出すことができます。

本建築は近代に進展した大規模仏堂の造営技術とともに,当時の建築史家による古典引用による復古調の細部や様式をみることのできる近代京都の代表的な仏堂建築と言うことができるでしょう。