松尾大社の創祀と磐座祭祀

松尾大社は京都最古の神社の一つで、太古この地方一帯に住んでいた住民が、松尾山の神霊を祀って生活守護神としたのが起源といわれます。京都盆地が一面の沼沢地であった古代においては、当時の人々は周囲の山麓に居住していました。西山・嵐山もその麓一帯に生活をする人たちにとっては、山は自分たちの生命を育む親であったので、その主峰である松尾山の頂上に近い大杉谷の上部の巨石を磐座いわくらとして神を祀り生活の守護神としたのが、松尾大社の創祀であったと思われます。  

5世紀の頃朝鮮半島から渡来した秦氏がこの地に移住し、山城・丹波の国を開拓し、河川を治めて農産林業を興しました。同時に松尾の神を氏族の総氏神と仰ぎ格別の崇敬を捧げ、その信仰を心の支えとして国土開拓の業を進めるに至ったといわれます。その秦氏の長者・忌寸都理いみきとりが文武天皇の大宝元年(701)に勅命を奉じて、山麓の現在地に社殿が造営されました。都を奈良から長岡京、平安京に遷されたのも秦氏の富と力によるものとされています。

平安京と松尾の猛霊

平安京では当初、盆地周辺の三方の山々の麓には賀茂社・松尾社・稲荷社が鎮座、遷都とともに多くの神社が新たに祀られました。特に当社に対する皇室のご崇敬は極めて厚く、東の賀茂両社と並んで皇城鎮護の社として「賀茂の厳神、松尾の猛霊」と並び称されました。

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朱の大鳥居と楼門

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本殿(重要文化財)


「神は松の尾」

『枕草子』第二八七段の最初には、「神は松の尾、八幡。この國の帝にておはしましけむこそめでたけれ」という一節がでてまいります。清少納言は独特の直観的な感性で、折々の事物などを端的に表現しています。当時の人々の信仰や清少納言個人の感覚のなかでは、松尾の神が大きな存在として感じられたことが窺われます。

松尾祭の歴史
−うかうかとおいで、とっととおかえり−

(神幸祭)松尾祭は、平安時代初期の貞観年間、或いはそれよりも早く承和年間に始まるとも伝えられます。中でも松尾の国祭と称せられた神輿渡御の祭礼は、古くは三月中卯日に神幸、四月上酉日に祭礼が行われてきました。

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松尾祭の神幸祭(出御)

 「うかうかとおいで、とっととおかえり」というのは、卯(う)の日に出御(おいで)、酉(とり)の日に還御(おかえり)とされたことによります。古来、庶民の祭りとして永く親しまれてきたことが窺いしれます。  神幸祭では、前日に松室まつむろに鎮座される摂社・月読つきよみ神社境内の御船社で、船渡御ふなとぎょと道中での安全を祈願する御船社祭が行われます。  

当日は、榊御面さかきごめんの面合わせの儀の後、松尾七社といわれる大宮社・四之社・衣手社・三宮社・宗像むなかた社・檪谷いちたに社の神輿と月読社の唐櫃からびつが、御本殿の御分霊をうけ、拝殿を三周の後、月読社(御唐櫃)から順に本社を出発し、松尾・桂の里を通り桂離宮の東北の桂川右岸から桂川を船渡御され、河原斎場へ到着されます。

船渡御の風景

新緑の頃、川面を渉る神輿船に奉安される神輿の御屋根にかかる真紅の御衣が、緑の水面に鮮やかに映し出させる光景は、一幅の絵を見るがごとく壮麗なものです。  

江戸時代後期刊行の『都名所図会』の中の「松尾祭礼」には桂川を船で渡御する様子や河原斎場に神輿が並ぶ風景が描かれています。ただし、ここには七基の神輿が描かれていますが、月読社の神輿が川を流されたとの言伝えもあり、江戸時代には同社の神輿はなく現在のような渡御となっており、実際の風景とは少し異なるのかもしれません。  

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松尾祭礼(『都名所図会』安永9(1780)年刊行)
国際日本文化研究センター提供

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松尾祭「船渡御」

船渡御の歴史は定かではありません。古記録によると、鎌倉時代の寛喜元年(1229)3月23日に神輿迎の乗船の際、桂の供御人くごにんと西七条の住民との間に諍いがあり神輿が河辺に放置され、未曾有のことであった、との記載がみられます。  

このように、長い歴史と伝統を持つ船渡御の行事ですが、昭和38年に諸般の事情から中断し、その後氏子の人々の伝統行事を何とか伝承していこうという熱い思いが実り、20年後の同58年に復活し、現在に至っています。  

続く河原斎場では、古例の団子神饌を奉献の後、同所を出発し七条通りを東進、衣手ころもで社の神輿はこおり衣手神社に、三宮社の神輿は川勝寺三宮神社に、月読社の唐櫃と四之社・宗像社・櫟谷社・大宮社の神輿は西七条御旅所に到着、着御祭をお受けになり、そこに三週間駐輦されます。

(還幸祭)還幸祭では、西七条御旅所・三宮社・衣手社の各御旅所から神輿と唐櫃とが、正午に唐橋・西寺跡にある旭日の社に集合し、古例による 赤飯座あかいざの特殊神輿・西ノ庄の粽講ちまきこうの御供を受けられて祭典が行われます。その後、列を整えて朱雀御旅所におもむき祭典が行われます。ついで七条通を西進し、西京極川勝寺・郡・梅津の旧街道を経て、松尾橋を渡り本社に着き、拝殿廻しの後、著御祭が行われ、三週間に及んだ松尾祭は幕を閉じます。

松尾の葵祭

なお、還幸祭では、本社の本殿・楼門ほか各御旅所の本殿、神輿から供奉神職の冠・烏帽子にいたるまで葵と桂で飾るので、古くから「西の葵祭、松尾の葵祭」とよばれてきました。また当社同様、秦氏との関係の深い伏見稲荷にも同様の伝統が存在しているようです。  

一年に一度、山から里へ、氏子によって迎えられた大神は、人々の丁重なもてなしをうけ、より霊威をたかめられます。こうした一連の行事は本社の神霊の威力を毎年更新していく祭祀儀礼であり、そのことが、氏子区域の人々を災害や疫病などの災いから守る強い呪力をもつものと考えられ、現代にも変わることなく継承されています。  

文中写真提供/松尾大社