秦家住宅は幕末の動乱期、元治元年(1864)に起きた戦乱による大火(「どんどん焼け」や「鉄砲焼け」と称された)で消失後、明治2年(1869)に再建された「表屋造り」と呼ばれる京町家。その外観は間口5間、むしこ窓を開いた大屋根の表庇に「奇應丸」の屋根看板を掲げて、江戸時代後期の伝統的商家のおもむきを今に伝えています。「表屋造り」とは、通りに面して建つ表棟から後部へ、玄関棟、住居棟、土蔵と続き、それらの建物を坪庭と座敷庭が繋げる形式を指します。かつては家族と複数の働き手が寝食をともにし、家業を支えてきた大店タイプの職住一致の住居です。

通りに面して建つ表棟は、1階に平格子、出格子。軒先は一文字瓦を葺く典型的な京町家の表構え。カドと呼ぶ出入口には夜になると厳重な戸締りをする大戸のほかに、ガラス戸、格子戸と3つの戸を設けています。カドを入ると右手に広い店の間が広がり、左手には板戸をはめた押入れがつくられています。店の間は手前のミセと奥側コシノマの2部屋にわけ、手前のミセには「奇應丸」の金文字が浮かぶ漆塗りの大きな置き看板が畳の上に据えられ、黒光りした大和天井を見上げると、玄関棟との境の鴨居に取り付けた神棚には商売の神様である大黒さんも祀られています。

秦家は創業元禄13年(1700)、初代松屋與兵衛から12代、薬種業を営んできました。小児薬「奇應丸」は、虚弱体質、ひきつけ、嘔乳、夜泣き等に効があるとされる製剤で、麝香(ジャコウ)、牛黄(ゴオウ)、龍脳(リュウノウ)、白朮(ジャクジュツ)、人参(ニンジン)、沈香(ジンコウ)などの生薬を調合する製法を代々一子相伝として受け継いできました。カドを閉じるガラス戸を開けて、通り庭のはじまる土間、店ニワに立つと、原料の放つ強い香りが鼻腔を突き抜けるように匂って、薬屋であることを知らしめたもの。薬を求め訪ねてくる客、商談の用向きで飛び込んでくる人、電話の音。店の間は活気に満ちた空間でした。

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ミセ

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通り庭


店ニワの奥へ進むと、そこは玄関棟の前に設けられた土間、玄関庭です。平屋建ての玄関棟は、三畳間と家人が茶の間と呼んでいる四畳半の客間からなっており、手前三畳間は来訪者を出迎えるところ。年を通して季節の花をあしらうことも欠かしません。また奥の茶の間は、釣り床を備えて格式を整えています。玄関棟の奥には、坪庭と呼ばれている小さな庭があります。坪庭は、大小の石組み、石灯籠、蹲、そして棕櫚竹を取り合わせたシンプルなデザイン。通風、採光のために開けられた外部空間ですが、玄関ニワに佇んで最初に視界に飛び込んでくる棕櫚竹の爽やかなグリーンの色彩とやわらかい自然光は、客が家人の出迎えを待つひとときを取り持っているようです。ここまでは対外的な応対をするエリア。我が住まいであっても、生活感を匂わせることのないよう気配りし、公の空間であることを意識して暮しています。玄関庭に架かる内暖簾は、その奥に繋がっている日常の生活空間との結界であることを黙って指し示しているのです。

内暖簾の後ろに建つ中戸という木戸を潜ると走りニワに出ます。私的空間である走りニワは、親しい知人、出入りの業者、職人、家族以外が立ち入ることはありません。住居棟に添ってのびるこの土間は、この家の食を司る炊事場でハシリモトとも呼ばれます。煮炊きの湯気がのぼる先には、墨字で「火廼要愼」と書いた愛宕神社の火伏せのお札を貼り、お札のそばに取り付けた神棚には三宝さんという7体の竃の神様を祀っています。神棚には、荒神松という、榊と松を取り合わせた青々しい生花を常にそなえる習慣は、京都の家々に今も生きた慣わしとして大切にされています。

走りニワ沿いには、カミダイドコ、ダイドコ、ツギノマと3室が並びます。カミダイドコは、2階への階段が設けられるとともに、氏神さんを祀る神棚が据えられ、正月には歳徳神を祀る恵方棚を天井から吊り下げます。その後方に続くダイドコ、ツギノマは、住まい手の食卓や居間のための部屋で、両部屋の間にはひときわ太い大黒柱が建っています。

いっぽう、玄関棟から住居棟へのびる中廊下を進むとオクと呼ぶ座敷があります。八畳の座敷は、手前に六畳の中の間を控えの間とし、京唐紙の襖で仕切ります。仏間も兼ねた当家の座敷は、仏壇、違い棚、床の間が側面に並ぶ京都の家によく見られる構成。座敷は家の中でもっとも厳粛なところで、普段家族がこの部屋を使うことはなく、お正月、節句、お祭り、お盆などの年中歳時にあわせて決められた室礼に整えて、ときどきの節目を迎えます。

座敷の奥には縁を隔てて座敷庭が広がります。深い庇の下、ほの暗い室内からスポットライトのように鮮やかに木々の緑が浮かび上がる光景は美しいもので、そこはまさに陰影礼賛の世界。庭が京町家の魅力を引き上げる重要な要素であることを物語っています。手前に配された簡素な坪庭とは対照的に、座敷庭の表情は季節感にあふれています。そしてこの庭で繰り広げられているさまざまな事象は、家人の毎日の生活と深いかかわりをもっています。

何気なく通りすがりに目にする景色を取り立てて意識することはありませんが、庭における規則的な自然のリズムは、季節単位、また1日の時間単位で生活のリズムと同時に進行しており、それは家人の体内時計となって身体に刻み込まれています。

庭木は決まった時期に芽をだし、花、そして実をつけます。酷暑のクマゼミの輪唱、送り火が過ぎれば鳴くコオロギ。自然の正確であるはずの時計の針が、わずかに遅れても、また早まっても落ち着かないもの。庭は、座敷の借景としてだけではなく、家人にとってなくてはならない存在なのです。

縁はさらに庭に沿って洗面所、風呂など水回りのおかれるところへのび、庭の反対側には渡り廊下が庭を取り囲むように離れ、土蔵に向かって付いています。蔵の縁と呼ぶ土蔵前の縁は、昼間でもそれほど頻繁に行き来することのない静かなところ。人の気配のないことをよく知った小動物(猫・イタチ・野鳥など)の足跡が点々と残っていることもよくあるのですが、都心の真ん中でそのような出来事が起こるのも、奥行き30メートルあるいはそれ以上の縦に長い敷地に棟を連ねる京町家が、市中の山居と喩えられる所以でしょうか。

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坪庭

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夏座敷


当家の建つところ、下京区太子山町は16世紀には今の地にありました。現在の「下京区」は、近世の「下京」と同じ範囲ではありませんが、家の前を走る表通りは、市中を南北に貫く最長の油小路通り。平安京の油小路にあたるこの通りは、現代も産業の主要路としての役割を担っています。周辺は、白生地、染め抜き、手書き友禅など、和装に関わる仕事を業とする家々が集まる職工の街。ここに生きる人々の日常のなかにもやはり、歴史、文化が降り積もった土壌の上、都市住民としての気質が脈々と息づいています。

町名にあるとおり、わが町は八坂神社の祭礼、祇園祭に聖徳太子を本尊とする「太子山」を出すお町内で、山鉾町のなかではいちばん西の端に位置しています。入梅を迎えるころともなれば「せわしい時期になってきましたな。」「また、お世話さんなことで。」と、挨拶代わりの言葉を交わすのは、今も昔もかわりません。

さて、家の中で住まいの衣替えを行うのは、6月半ばを過ぎるころでしょうか。襖、障子を取り外して、夏の室礼に調えてほどなくやってくるお祭りにそなえます。それはちょうど庭の梔子が雨露に濡れながら小さな蕾をもたげてくる時期と重なるよう。薄闇のなかに浮かび上って咲く梔子の花は、二階囃子の音色に誘われて開花の時期を迎えます。

鉾の辻に流れる祇園囃子の音色を、山鉾町に住まうものは「二階囃子」と呼んで心待ちにします。そして祭りの日に向けて地域の結束力も徐々に盛りあがりをみせていくのです。前祭りの山町である太子山は、7月14日には表通りに山が建ちます。車の通行も遮断され、家々の軒に提灯があがって、お町内は祭り一色。お町内ではそれぞれに役割を分担し、1年ぶりの共同作業に一丸となって汗を流します。

祭りの舞台へと転換していくお町内にあって、太子山の会所飾りの場になる秦家の表棟は、本尊の聖徳太子が祀られ、前掛け、胴掛け、見送り、角金物などの懸想品が飾り付けられて雰囲気は一変します。それにあわせて、先に夏支度を終えた玄関の間、茶の間、座敷にも赤穂段通、緋毛氈、屏風、生け花などを設え、家全体が「ハレの空間」に模様替えすると、表通りから住まいの奥までが祭りの風情を醸しだして、非日常の空間へと様変わり。このひとときこそ、山鉾町に住まう贅沢なのかもしれません。

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宵宮


京都は長い歴史のなかで、人々が円滑な共同生活をおこなうための仕組みをつくりあげてきました。お祭りもまた、この仕組みのなかに組み込まれ、継承されてきたものです。町の運営に際しての取り決めごとを明確にするためにつくられた「町のしきたり」という社会のシステムに対して、ハード面のシステムとして生まれたのが京町家だったといいます。

京町家は一軒の住宅として完結された建物ですが、その集合体である地域に良好な環境を提供するための仕組みをつくりあげてきました。外観を公の一部と考える精神性、格子は繊細なデザインに魅せながら構えを守ります。公私の別をくっきりと形に表し、使い分ける住まい方。また家のなかには、庭を介して内と外の気配をゆるやかに繋げて、光や風、季節感を取り込む工夫は、住まい手に豊かな暮らしをもたらします。

積み重ねられてきた暮らしは、じっくりと時を経て独自の生活文化を形づくります。家のなかの各々の空間の役割を明確にさせて生まれてきた暮らしの型。これを「しきたり」「決まりごと」とすると、堅苦しく思えますが、これから私たち日本人が生きてゆく術を探るうえでの道しるべとして値するものではないかとさえ思います。住まいを公開して学んだことは、過去の遺産として線引きし、鑑賞にとどまるのではなく、受け継がれてきた文化を「今」の時間軸のなかに上手く溶け込ませ、さらに使い込んでいくための知恵と工夫の必要性です。そしてそれらは、丁寧に繰り返す、何気ない毎日の生活なかに潜んでいるのです。

近年、当家を訪ねて来られる20代後半から40代の女性は、単に古い建造物に入ることを目的とするのではなく、空間から匂いたつ文化の香り(生活観や精神性)に関心を持ち、心の拠りどころとしてこれを求める傾向にあるように感じます。便利で豊かな暮らしを求めてきた社会ですが、これまでの価値観は転換期にさしかかっているのかもしれません。しかし現代は、彼女たちにその具体的なノウハウを伝承できる環境を持ち合わせていないという実情を抱えています。

現代から未来へ心の糧が育める家を住み継ぐためにも、先人達の知恵から継承できるものを選び取る工夫が必要です。「文化は家付きである」という言葉があると聞きます。文化は代々受け継がれる住まいを舞台に育ち、そこに凝縮、蓄積されるとも。日本人の求める豊かさの価値観が「量」から「質」の時代へ関心が高まる今、形体的な京町家の保存のみを目指すのではなく、そのなかで今に生きた暮らしの醍醐味を味わってもらえないか。公開を決断してから20年、秦家の模索は続いています。

写真/筆者撮影