日野と法界寺

京都市の東南の端にある日野 (ひの) の地が歴史として現れるのは、延暦15年(796)、日野において桓武天皇が狩猟を行われたことが「日本後記 (こうき) 」に書かれています。その後も何度か記載されており、日野が遊猟に適した地であったようです。

日野の地名については、伝説としてこの地が奈良の春日野 (かすがの) の地の地形に大変よく似ているところから「春日野」と書かれた立札を立てたところ、どこからともなく鹿が現れ、春の字をなめて消してしまった。これは春日の神慮であると思い、春を除いて日野となったと言われています。

法界寺は、藤原氏の北家 (ほっけ) にあたる藤原真夏 (ふじわらのまなつ) がここ日野に領地を賜わり、その後弘仁13年(822)に比叡山延暦寺に戒壇の建立が認められ、その勅使として日野家宗 (いえむね) が比叡山に登ってその旨を伝えると、当時の座主であった慈覚大師円仁 (じかくだいしえんにん) が大変喜ばれて、返礼として伝教大師最澄 (でんきょうだいしさいちょう) が自ら彫られたという小像の薬師如来像などをもらって帰りお祀りしていました。その後、永承6年(1051)に日野資業 (すけなり) が、その最澄自刻の薬師如来を胎内に収めた薬師如来を作り、薬師堂を建て日野家の菩提寺としたのが始まりと言われています。当初は、五大堂、観音堂などたくさんの堂宇が建てられましたが、現在は本堂の薬師堂と阿弥陀堂を残すのみとなっています。

日野家といえば鎌倉時代に浄土真宗を開かれた親鸞聖人 (しんらんしょうにん) が承安3年(1173)に日野有範 (ありのり) を父として、吉光女 (きっこうにょ) を母としてこの法界寺で誕生され、9歳の時に青蓮院で得度されるまでこの地でお過ごしになっていました。また、室町時代の足利家と関係が深く、3代将軍足利義満 (あしかがよしみつ) 以降は日野家から正室や側室をとるという慣習があり、8代将軍足利義政 (よしまさ) の正室日野富子 (とみこ) も日野家の一族です。

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薬師堂   写真/法界寺所蔵

重要文化財壁画の修理

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阿弥陀堂と阿弥陀如来坐像
写真/神崎順一 撮影

法界寺には、国宝の阿弥陀堂、平等院の阿弥陀如来像に最も近い定朝 (じょうちょう) 様の国宝の阿弥陀如来がありますが、その阿弥陀堂の内陣の内側の壁面に飛天 (ひてん) 図10面と火舎 (かしゃ) ・楽器図が2面、外側に阿弥陀如来坐像8面、飛行火舎、華盤 (けばん) 、楽器図3面が描かれています。内壁の笈型紋 (おいがたもん) 24面、金剛界 (こんごうかい) の曼荼羅が描かれている四天柱と合わせて密教装飾画として国の重要文化財に指定されています。壁面に描かれている壁画としては、昭和24年に法隆寺金堂の壁画が火災により焼損したため、日本最古の壁画となり、絵画史上貴重な壁画となっています。

平成10年に神戸淡路大震災によって、京都も震度5を観測し、大きな被害はなかったものの縁の細かい破片が落ちるということもあり修理することになりました。

勿論過去にこのような修理の経験はなく、国内ではおそらく初めての試みだと思われます。

現況は、壁体は欠失箇所に補填が施されており、補彩が施されている箇所は変色し、壁自体が新たに欠落している箇所も多く認められ、絵具層も表面の壁体と同時に欠落する惧れがあり、危険な状態でありました。美術工芸品保存修理事業として、平成8年から平成12年までの4年度にわたって国庫補助を受けて修理を行いました。

1年目は、足場を設置し、壁面の調査と壁体の構造図面、壁面の表面損傷図面を作製。2年目は、壁面調査、壁面の埃、汚れの除去、仮剥落止、全面合成樹脂による養生、レ−ヨン紙、和紙による表面保護、土壁の表層部の漆喰 (しっくい) 層の取り外し、京都国立博物館の文化財保存修理所での取り外した漆喰層の裏面の調整。3年目は、裏面の調整、裏面より合成樹脂にて漆喰層を固着、生漉和紙にて裏打ち、表面の養生取り外し、絵具層の剥落止、表面より漆喰層の固着。4年目は、表面の最終剥落止、現地の壁面の調整、カ−ボン製の下地の作製、下地に修理完了の本紙を上貼り、欠失箇所に壁面と類似した素材で補填、そして最後に元の位置に取り付け、修理を完了しました。

また、今回の修理においては、地震対策が施されています。カ−ボンにワイヤ−がつけてあり、大きな地震が起こった際は、木枠との歪みを避けるため、外れてぶら下がるようになっています。勿論、その後幸いにも大きな地震はおこっていませんので、その成果はまだわかりません。

その後、平成23年に九州国立博物館の「よみがえる国宝展」に出展するため修理後初めて2面が外され、修理後の状態は異常がないことが確認され九州へと運ばれました。今後、経済面や技術面の問題もありますが内壁の飛天図、四天柱の保存修理が必要だと考えられます。

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阿弥陀堂内装飾画   写真/法界寺所蔵

日野裸踊り

法界寺のもうひとつの文化財として京都市登録無形民俗文化財に指定されている法界寺・日野裸踊りがあります。法界寺の修正会の結願 (けちがん) 日にあたる夜に行われる行事です。修正会 (しゅうしょうえ) は正月に行われるその年の五穀豊穣、万民快楽、所願成就を祈願する法会です。その起源は、天長4年(827)に東寺・西寺で7日の薬師法悔過 (やくしほうけか) を行ったことや神護景雲2年(768)に聖武天皇が諸地方の国分寺 (こくぶんじ) で悔過法を行わせたことと言われています。悔過の特徴は、午王加持 (ごおうかじ) による国家安寧を祈るところにあり、午王印を捺された札は、特に除災招福のお守りとして大切にされてきました。法界寺でも裸踊りの後に版木により刷られた午王印が授与されます。修正会が五穀豊穣を祈る法会であることから、以前は日野においても田畑が多く残り、畦道に立てておけば虫がつかず豊作になるといわれ、その光景が見られたものです。

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日野裸踊り行事   写真/日野裸踊保存会提供

法界寺においても元旦から14日間にわたり修正会が根本薬師堂で厳修され、結願日にあたる1月14日の夜に行われる結願法会に併せて法界寺・日野裸踊りが行われます。精進潔斎した幼・少年と青・壮年の二組に別れ、褌 (ふんどし) 一つの裸形となり、水垢離 (みずごり) をとったのち、阿弥陀堂広縁で裸体をもみ合い、すり合い、両手を頭上高く打ち合わせ「頂礼 (ちょうらい) 、頂礼」と連呼し、寒空の空もとどけとばかりに踊りつつ祈願をこめる荘重な祭典が繰り広げられます。踊りに用いられた晒 (さらし) の下帯は、妊婦の腹帯として使用すれば安産すると厚い信仰を集めています。

今後の課題としては、幼・少年の場合は少子化や教育環境の変化、青・壮年の場合は家庭環境の変化や高齢化といった問題で参加者が減少する傾向にありますが、地元日野の地域の方々の理解と協力を得て、将来に亘ってこの伝統行事を続けられるよう努めていかなければなりません。