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図1 西院春日神社の剣鉾差し
(長谷川奨悟 2011撮影)

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図2 御霊神社の蓬莱鉾(武者小路町)
(福持昌之 2012撮影)

 京都市内には、4つの「剣鉾(けんほこ)差(さ)し」と呼ばれる京都市登録無形民俗文化財がある(図1)。そのほかにも、剣鉾が登場する祭礼行事は、市内で約50カ所にのぼる。

剣鉾とは、祭具としての鉾の一種であるが、一見してわかる特有の意匠がみられる。それは、非常に長い棹があり、その先に非常に薄くてよく撓(しな)る剣が付く。剣の刃先は菱形をしており、剣と棹の間には、花や龍などをあしらった錺金物(かざりかなもの)によって装飾される。棹には、鈴(りん)と吹散(ふきちり)がつけられる(図2)。

剣鉾は、剣の振幅と鈴の響きによって周囲を浄める呪力を持つとされ、祭礼においては神輿巡幸の先陣を切って進む。その際、剣鉾は天を指すように立てて運ばれるが、これには相当の技術が必要で、これができる人たちは鉾差しと呼ばれ、専門家として氏子の地域外から呼ばれてくることが多い。また、剣鉾そのものは神社の所有する祭具でも、外部から鉾差しが持ってくるものでもなく、氏子の一部が鉾仲間もしくは鉾町を組織して護持していることが多い。

そういった伝承基盤や伝承組織の特徴は、山鉾町が護持しつつも外部から大工方や車方、囃子方などの専門集団の協力を得て催行している祇園祭の山鉾と似ている。祇園祭の山鉾は、本体(構造材)はもちろんであるが、なかでも絢爛たる錺金物や染織品に意匠を凝らし、こだわり抜いて作らせた、都の粋の結晶である。剣鉾も規模こそ違え、護持している町民たちがお金を出し合って山鉾同様に錺金物に工夫を凝らし、吹散も次第に豪華になっていった様子がうかがえる。自分たちの町に山鉾があることが一種の誇りであるように、剣鉾もまた、それを護持している人たちにとって誇らしい存在であった。

剣鉾と山鉾との関係

従来、「剣鉾は祇園祭の山鉾の原形である」という説明もされてきたが、正確には古代以来の武器の系譜をひく祭具としての鉾から、剣鉾と山鉾のそれぞれに発展していったものである。

確かに、巨大な山鉾に比べると剣鉾はかなり小さく、プリミティブな存在と思われがちである。しかし、剣鉾は本来の鉾とは棹の長さも、形状も大きく変化を遂げている。そもそも、古代にはすでに儀仗用として鉾が用いられており、それほど姿を変えずに現在も祭礼行列に見られる。あまり知られていないが、祇園祭でも山鉾とは別に、神輿の前をこの古いタイプの鉾(剣鉾ではない)が供奉している。

祇園祭では、祇園会(ぎおんえ)として始められた当初から鉾は重要な祭具としての位置を占めていたようである。しかし、いわゆる山鉾が登場するのは中世になってからである。14世紀初頭の史料では、鉾と鼓(囃子)が一体であったことがわかるが、鉾の形態についての記述はない。14世紀中葉になると、「作山風流(つくりやまふりゅう)」「久世舞車(くせまいくるま)」などの記述が現れ、それらが今日につらなる山鉾である。

一方、剣鉾は15世紀半ばの成立とされる「祭礼草紙」(公益財団法人前田育徳会所蔵)で描かれる。ただし、この鉾の長さが短く、錺の意匠も非常に簡素で、黎明期の剣鉾といった感が強い。16世紀前半の「月次風俗図扇面」(出光美術館蔵)や、永禄8年(1565)の「上杉本洛中洛外図」(米沢市立上杉博物館蔵)になると、棹尻を腰に緩く巻いた帯に差しこみ、絶妙なバランスを取りながら巡行する姿が描かれるようになる。

このように、資料からは、剣鉾は山鉾の先祖ではなく、弟分ということになる。

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図3 藤原清春画「神幸図」
(福原敏男氏提供)より
「石竹ノ御鉾」以下の「御鉾」

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図4 藤原清春画「神幸図」
(福原敏男氏提供)より
神宝の「大手鉾」「祭ノ鉾」


剣鉾の登場

剣鉾という語は、出雲路敬直氏が昭和46年(1971)に論文「剣鉾考」を発表してから広まった。京都市が昭和59年度(1984)から翌年度にかけて大がかりな剣鉾の分布調査を行ない、出雲路敬直氏が指導的役割を果たし、その頃から公的に認知されるようになった。そして、平成2年に市内4か所の「剣鉾差し」が京都市の無形民俗文化財に登録された。

現在、剣鉾という語は研究者や鉾差したちは当り前に使っている。しかし、剣鉾を護持している人たちには、それほど定着はしていない様子である。剣鉾は従来、剣と棹の間にある錺金物の意匠――多くが植物文様や霊獣である――をもって呼称するため、龍鉾、麒麟鉾(きりんほこ)、菊鉾、澤瀉鉾(おもだかほこ)などと呼ばれる。まれに、太刀や剣があしらわれている場合があり、その場合は太刀鉾(たちほこ)とか剣鉾(つるぎほこ)と呼ぶが、それらを総称する呼称としては、単に「鉾」であることが多い。

江戸時代の剣鉾の呼称について参考になる資料として、下御霊神社の神幸祭を描いた天保4年(1833)の摺物がある。図の下部に由緒等の説明があり、「御鉾并神宝守護町々」の項目に「石竹ノ御鉾」以下12基の「御鉾」が列記されている。図の部分と照らし合わせると、これらがいわゆる剣鉾であることがわかる(図3)。また、「御鉾」とは別に神宝として祭御鉾、大手鉾といった鉾もあるが、これらが剣鉾ではないことも図からわかる(図4)。つまり、鉾町が出す御鉾(剣鉾)と、神宝としての鉾(祭鉾、手鉾)とが区別されているのである。

ただ、剣鉾を示す御鉾という語が、下御霊神社だけの用語であった可能性もあり、総称としての剣鉾を示す用語として一般的だったものかどうかは断定できない。下御霊神社でも、明治期の『下御霊神社誌』(1907)では御鉾のことを「指鉾(筆者注・さしほこ)」と表現するなど、固定化はしておらず、剣鉾を総称して示す呼称は、それほど普及していなかったといえる。

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図5 恵美須神社の博団山(博多町) (溝辺悠介 2011撮影)

多彩な剣鉾のまつり

下御霊神社の摺物では、鉾差しが一人で支える剣鉾以外に、数人がかりで運ぶ剣鉾も描かれている。『下御霊神社誌』(1907)では、「指鉾」の項に記載されたうちの一つ菊枝折鉾について、枠造りになって舁(か)き行くようになったと紹介されている。こういった形態の剣鉾は、後に「荷鉾(にないほこ)」とも呼ばれることがある。枠造りの剣鉾のなかには、吹散に幅の広い綴織(つづれおり)などをあしらい、四周に胴幕(どうまく)を巡らせるなど、祇園祭の山鉾を彷彿とさせる剣鉾もある(図5)。

明治になると、大通りに市電の架線が張り巡らされたために、剣鉾を差して巡行することが難しくなり、それを機会に棹を短くして枠造りにしたという話をよく聞く。そうでなくても、何らかの理由で鉾差しを呼ばなくなった地域や、あるいは地域住民が鉾を差していたが差せなくなった場合に、このような改造をしていることもある。

ただ、枠造りへの改造は江戸時代からみられ、そのような要因だけではなかったようである。そもそも、鉾差しがいない神幸行列だからといって枠造りにする必要はない。その場合、剣鉾を立てないで寝かせたまま、鉾頭に2人、棹尻に1人の合計3人で肩に乗せて運ぶのが基本である。また、巡行に供さなくても、会所や輪番であたる個人宅などで、祭壇をつくって剣鉾の鉾頭を飾ったり、庭先や門先に剣鉾を立てて飾るなどの事例もあり、剣鉾を伴う行事のありようは多様である。

(京都市文化市民局 文化芸術都市推進室 文化財保護課 技師)

参考文献

出雲路敬直「剣鉾考」(『京都精華学園研究紀要』第9輯)、1971年

出雲路敬直「剣鉾覚書(1)」(『京都精華学園研究紀要』第10輯)、1972年

出雲路敬直「剣鉾覚書(2)」(『京都精華学園研究紀要』第11輯)、1973年

『剣鉾の伝統展―京の祭の遺宝』京都市社会教育振興財団編・発行、1986年

『京都市の文化財 第八集』京都市文化観光局文化部文化財保護課編・発行、1991年

『祇園祭大展―山鉾名宝を中心に』祇園祭山鉾連合会、京都文化博物館、京都新聞社編・発行、1994年

『京都の剣鉾まつり』京都の民俗文化総合活性化プロジェクト実行委員会編・発行、2011年

『京都 剣鉾まつり調査報告書』京都の民俗文化総合活性化プロジェクト実行委員会編・発行、2014年