1、京のまつりと水

 京のまちでは、どちらかといえば大きなまつりは春から夏に集中している。水稲農耕を主たる生業としてきた日本では稲作のサイクルによって年中行事が構成され、その結果、秋の収穫後に大きなまつりが営まれることが多い。ところが京都では、御霊信仰の影響もあって、春から夏にまつりが集中するようになったものと考えられる。そもそも御霊とは、非業の死をとげ、この世に未練や恨みを抱く死者の霊魂を指す。このような怨霊たちが人々に疫病を振りまくことから、荒ぶる霊を歓待し慰撫することによって、この世に災厄をもたらさぬように神の世界へ送った。そのためのまつりが御霊会である。御霊会は平安時代には牛頭天王のまつりと習合し、やがて祇園御霊会として定着する。牛頭天王はインドでは祇園精舎の守護神とされているが、日本では御霊信仰と結びついて疫神とみなされるようになり、この神を丁重に祀れば疫病やその他の災厄から免れることができるとして広く民間にも普及した。御霊信仰は風流をともなったはなやかな数々のまつりを生みだした。ここでいう風流とは、まつりに登場する趣向をこらした山や鉾などの山車・囃子もの・歌踊などを指す。祇園祭の山鉾や種々の芸能は風流の代表例である。

 京のまちに展開する御霊たちのまつりは、春に桜花が散り始める頃から初夏にかけて、疫病がもっとも流行しやすい季節に、疫神を様々な芸能や歌舞によって鎮め、都の外へ送ることを目的として行われた。この季節に蔓延した疫病は、梅雨の集中豪雨による河川の氾濫とも深く関わっている。鴨川や桂川などの河川は、かつてはよく氾濫した。河川の氾濫は水害であると同時に、その後には伝染病の流行という二次的な被害をもたらすことは今も知れたことである。だからこそこの季節に、災厄や疫病の招来の根源とされる御霊をまつり、都の平安を祈願したのである。

 春から夏にかけて京に展開するまつりをいろいろな角度から眺めてみると、水への祈りや願いが随所に見え隠れしていることに気づく。それは、人々の河川の氾濫と疫病流行への不安、さらに水や河川に対する畏怖の念の表象として、古い時代には京の水を差配することを目的に種々のまつりが行われたことを示唆するものではないかと思われる。著名な葵祭や祇園祭はその代表であり、特に京の夏まつりを代表する祇園祭は、根底に庶民の切実なる水への想いを隠し持つまつりであったと考えることができる。

2、御霊は難波の海へ送られた

 京のまちで御霊会が行われるようになるのは、平安時代中期の9世紀から10世紀頃のことである。初期の御霊会は必ずしも祇園という地に固定されていたわけではなく、洛中を取り囲む周縁の地で行われていた。たとえば『日本三代実録』貞観5年(863)の条には、旧暦の5月20日に疫病が大流行して多数の死者が出たため、朝廷が主導して神泉苑で盛大な御霊会が行われたとの記録がある。これが今日伝わる御霊会の最古の記録とされている。ここで注目すべきは、御霊会が行われた神泉苑という場所である。神泉苑は自然の泉を活用し、平安京造営の際に造られた朝廷の庭園であり、天皇や貴族の遊行の地でもある。弘法大師が善女竜王を神泉苑に勧請して雨乞いを行なったことでも知られるように、ここは朝廷が管理した水の聖地でもあった。徳川家康が二条城を築城する以前の神泉苑は、現在の10倍近い面積を有していたといわれている。
 また祇園社の社伝によれば、貞観11年(869)にも都に疫病が流行して多数の死者が出たので、この時は66カ国の鉾を作り、神泉苑で牛頭天王を祀って泉へ送ったと伝えられている。このように、初期の御霊会はたびたび神泉苑で行われていたことがわかる。このことは、神泉苑が疫神を送るにふさわしい場所だったことを示しているといえよう。

 神泉苑で祭祀を受けた御霊たちは、最後はどこへ送られたのだろうか。『日本紀略』正暦5年(994)の条に御霊会の記載がある。そこには、この年は貴族だけでも死者が67人を数え、6月16日には疫神が町を横行するとの妖言も飛び交い、事の重大性を察した朝廷は27日に紫野船岡山で盛大な御霊会を営み、新調された2基の神輿が最後には難波の海へ送られたと記されている。神輿に集められた御霊たちは、実際には鴨川へ流され、その結果として最後には難波の海へ送られたと解されていたのだろう。古人は、京に蠢くさまざまな疫神、その他の神仏も、すべて難波の海へ送ることで、それらの存在は無に化すものと信じていたに違いない。河川は、疫神送りになくてはならない通路だったのである。

3、祇園祭に見える水の信仰

 祇園御霊会は平安期以降、千年余の時空を超えて現在に繋がっている。気の遠くなりそうな時間の中で、祭事そのものは大きな変化を示してきた。しかし今日の祇園祭も、やはり水への想いに彩られたまつりであることに変わりない。それを示すいくつかの具体例を紹介しよう。

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祇園祭「神輿洗い」(写真撮影:井上博義)

 祇園祭といえば、多くの人は山鉾のまつりだとイメージされるだろうが、本来祇園祭の最重要部分は山鉾ではなく神輿である。17日の山鉾巡行が終了した夕刻に、八坂神社から3基の神輿が出て御旅所へ渡御する。そして24日のあとまつりで、神輿は御旅所から八坂神社へ還る。神輿の渡御、つまり本社から御旅所へ神が移動すること、これが祇園祭でもっとも重要な神事である。平安時代には京の市中に2ケ所の御旅所が作られた。ひとつは大政所御旅所で、もうひとつが、現在の車屋町夷川上がるにあったと伝えられる少将井御旅所である。3基の神輿のうち、牛頭天皇の妃である婆梨采女を乗せた西御座の神輿がここへ渡御した。この御旅所には、その名の通り「少将井」とよばれる名井があった。平安後期、都で疫病が流行った時、京中の特定の井戸水を飲むことで病を癒すとの信仰が起こり、それが霊水信仰として広まってゆく。少将井の信仰もまさに霊水信仰の一例であったと思われる。
 やがて豊臣秀吉が2カ所の御旅所を今の寺町四条の御旅所に統合し、少将井御旅所は廃止された。しかし、それ以前は「少将井」という霊水の湧く井戸があり、そこへ祇園社の神輿が渡御したという事実は、水と祇園祭の深い関わりを示す一事例だといえるだろう。

 ところで、多勢の観光客で賑わう宵山に先立ち、7月10日には神輿洗いが行われる。これは、八坂神社から中御座の神輿が四条大橋の上まで引き出され、そこで鴨川の水を汲み上げて神輿に振りかける神事を指す。この水を浴びると無病息災とも伝えられていることから、近年では多くの見物客でごった返す。神輿洗いの意味は、まつりに先立って鴨川の水で神輿を清める、禊ぎの儀礼だと説明されている。これだけなら何の疑問もなく納得できる。しかし神輿洗いはもう一度行われる。しかもそれは7月28日である。神輿が本社から出て御旅所へ向かうのが17日、御旅所から八坂神社へ還るのが24日である。神の旅程は24日で完了しているはずだ。にもかかわらず、その4日後に再び神輿洗いを行うのはなぜなのか。まつりを終了するための2度目の禊ぎだといわれても、とうてい合点はいかない。これは次のように考えるべきだと思う。鴨川の水を汲み上げることは、鴨川の神を神輿に乗り移らせることに意味があるのではないか。それが10日の神輿洗いである。そしてまつりが終わり、神輿に乗っていた川の神を再び鴨川へお返しする儀礼が28日の神輿洗いなのではないか。このように考えることによって、2度行われる神輿洗いの本来の意味が見えてくるように思う。ならば、祇園祭は鴨川の神、すなわち川神(水神)を迎えて行われるべきまつりだったことになる。神輿洗いは、まさに川神祭祀としての祇園御霊会を今に伝える事例だといえるだろう。

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祇園祭「オハケ神事」(写真提供:八坂神社)

 さらに興味深いことがある。3基の神輿が24日に御旅所から本社へ還る際、四条寺町の御旅所からずっと外れた西方の地までやってくることを知る人は少ない。その地とは、堀川通りをさらに西へ入った三条通黒門にある「御供社」である。ここは八坂神社の御旅所のひとつで、「又旅所」ともよばれている。そこでは神輿を迎えるための芝生が敷かれ、その上に神の依代である3本のオハケが立てられる。八坂神社とは真反対方向にある西の地まで、なぜ神輿はやってくるのか。
 御供社がある場所は、かつての神泉苑の泉の南端にあたるという。また芝生を敷くのは神泉苑の泉を表すためともいわれている。祇園社の神輿は、まつりを完了するにあたり、神泉苑まで来て最後の神事を催行する必要があったのだろう。この儀礼を経て、ようやく神輿の祭事は完了することができたのである。御供社で行われるオハケ神事は、祇園祭と神泉苑がいかに深く関わっているかを示す格好の事例だといえるだろう。

4、京の地底を流れる水脈

 十数年前に、京都盆地の地下にどのくらいの水が蓄えられているかの調査が行われた。その結果、そこには琵琶湖とほぼ同じ水量の水が存在するという驚くべき事実が判明した。その地中の水は止まっているわけではなく、常に北東から南西方向へ移動しているという。その流れに沿って地上には何があるのだろうか。高野川と賀茂川が合流して鴨川になる。二つの河川が合流する地点に下鴨神社(賀茂御祖神社)と糺の森がある。地下の水流はちょうどその真下を通り、京都御苑を経てやがて神泉苑へと続いている。下鴨神社は京の水を司る社である。かつてこの地を治めた鴨氏の始祖が、今日でも上賀茂神社(賀茂別雷神社)と下鴨神社で祀られている。鴨氏は後々まで社家として神社に奉仕しながら、朝廷とも深い関わりを持ち、悠久の間京の都の水位を見定めてきたという。まさに、京の水の番人でもあった。ならば鴨氏が主催した鴨祭、いわゆる葵祭は、京の水を差配する水の神を祀る祭事だったのかもしれない。祇園祭だけでなく、葵祭も水と深く関わるまつりだった可能性が高い。

 千年という目眩を覚えそうな歳月は、人々のあまりにも重い記憶でもある。その中を京の人々は生き続けた。その意味で、京のまちに展開するまつりは底知れぬ歴史の深みを持っている。とうてい一筋縄で解釈できるものではない。だからこそ多角的な視座からまつりを眺めてみることで、今までは隠されていたまつりの意味が見えてくることもある。本拙文はそのひとつの試みである。読者諸氏も、今年はぜひ、まだ見ぬ京のまつりの新たな姿を発見していただきたいと願う。

(佛教大学教授)