予定調和の崩壊

 今、私たちの生活と環境をめぐる変化はまことにはげしい。人びとがながい歴史のなかで培ってきた文化的景観が発達した建設技術によって、いとも簡単にとり壊され、変貌し消失してしまおうとしている。
 このきびしい状況にあって、京都市は市民の強い関心のもとに高さ規制や京都らしい都市景観の形成をめざす積極的な景観政策を打ち出した。東京などにみられる高層、超高層の建築を林立させ、文化的景観を軽視して都市空間を激変させ、混乱させる傾向への強い異議申し立てとして注目すべきである。国でも、景観法を制定し、文化財保護法を改正し新たに文化的景観を保護の対象とした。町なみや集落・伝統的建造物群の保存につぐ注目すべき改正といえよう。たしかに、景観に対する法体制は整備されつつある。しかし、現在はすべてが神の意志によってあらかじめ調和するように定められているという予定調和の時代ではなくなった。予定調和の崩壊した状況にあって、なんの規制もなく経済性だけを優先させ、利便性を求める風潮では、文化的景観は軽視され、建設技術を安易に不用意に受け入れてなんの痕跡を残すことなくまったく消滅する危機に直面していることをあらためて確認しておかなくてはならない。

 ここで、文化的景観がどのように形づくられ、培われてきたかについてみておこう。地域に生きた人びとはそれぞれの生活と生業に結びつけてすぐれた景観をうみだし、地域の誇りとして住み、やがて他の地域からもその景観に憧れ、訪れてくるようになった。その景観を通じて深い共感をかわし、その感動を文につづり、詩によみ、絵に描いて、その文化的価値を一層高めてきた。人びとの文化的営為によって文化的景観はたしかなものになったといえよう。
 文化的景観は、私たちの目の前にある現前する景観に限るのではなく、失われたり忘れられた景観の再生をも目指すべきではなかろうか。

田中の構(かまえ)と談合の森

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田中神社

 東大路を田中里の前から東へ、御蔭通に入ると左手に田中神社のうっそうと茂る大きな木々がみえる。かつて、ここは鎮守の森「田中構」と呼ばれた自衛の組織の中心となっていた。文明6年(1474)8月、ある貴族は、「田中郷の人びとと社に集まり構を再建し、田中構と号した。夜になり火事あり、敵が忍び入り焼きたて押しよせた」と伝えている。地域の危機に際し、田中の郷民たちは鎮守の森に集まり、村のまわりに土居や堀をめぐらし構を築いて自衛と自治の姿勢を示していたのである。田中神社は中世以来、地域の人びとを強く結びつける集会の場となっていた。

 近代になると、田中神社の周辺は大きく変貌する。東には琵琶湖疏水の支線が開削され、西には高野川の水利で繊維染色の工場が建ち、南は京大農場になり、この一帯は宅地となり、槐(えんじゅ)のなみ木が続く町なみがひらけた。「田中構」の構成は近代の開発の波に埋没し消えてしまった。古地図と現在の地図を重ねて今も残る曲がった路地をたどると、往時の「田中構」がよみがえってくる思いがする。

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談合の森稲荷社

 ところで、「田中構」の北には「団子の森」が広がっていたといわれる。この辺りも、近代になって大きく変貌したらしい。田中神社には本殿の東に玉柳稲荷神社があるが、これは明治12年(1879)に叡電茶屋駅近くの団子の森から氏子たちが移したとされている。大正14年(1925)出町柳から八瀬、鞍馬への叡山電鉄がひらかれ、宅地化が進むと「団子の森」は姿を消した。ところが、叡電茶山駅に近い路地の奥、民家の庭に一株の老木がたち、その根もとに「談合之森稲荷神社」と呼ばれる小祠がたっている。京都に点在していた稲荷神社の一つにかぞえられていた。「団子の森」は「談合の森」であった。もちろん、入札妨害のあの談合ではない。郷民が安全を願い、自衛と自治をめざした談合の場であったに違いない。
 戦後になっても、茶山駅の近くには鳥居がたち、境内には杜もあり、大きい老木の森があったという。やがて、この森も宅地化の波で壊されてしまったと、年配の人たちは昔をなつかしんでいる。
 「田中構」も「談合の森」も近代化の波のなかで姿を消し、その文化的景観は人びとから忘れられようとしている。古絵図や狭い路地にわずかにその痕跡を残し、年配の人たちだけに記憶されているのが現状であり、やがて忘れられてしまう危惧は深い。

 地域に生きた人びとが、その生活を通じて抱きつづけてきた地域への深い思いと人びとの固い結びつきを示す文化的景観を保存し再生させる工夫を凝らし、知恵をはたらかせなければならない。実際、わずかに残る痕跡でも、その史的想像力を発揮し文化的景観を再生できるはずである。例えば、田中神社の境内を整備し、「談合の森」の銘板をそこなうことなく保存し、茶山駅の構内に掲示板を設け、「談合の森」について説明し、顕彰し失われた文化的景観を追想する場を用意するきっかけとしたい。

山科寺内町

 「田中構」にみられた自衛と自治の動きは洛中にも広がっていた。中世末の動乱のなかで洛中の人びとの間に「ちゃうのかこい」「町の構」を築く町があらわれ、その町が連合して町組を形づくり、町組が連合して上京五町組、下京五町組が連合し、大事を上京下京が合議する形をとるようになった。下京のまわりには「惣構」という土居と堀がめぐらされていたという。

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山科寺内町御土居

 ところで、東山をこえた山科で注目すべき町づくりが進められていた。文明10年(1478)蓮如は山科に本願寺を再建し、この御本寺を中心で、内寺内、外寺内からなる堀と土居で囲まれた環濠城塞都市の建設をおし進めていた。寛正6年(1465)山門の衆徒によって東山大谷の坊舎を破壊された蓮如は、難を近江の門徒のもとに避け、堅田や金森などで布教を続けるなかで地上から姿を消した本願寺を復活させ、宗教的連帯感で結ばれた寺内町建設の方向を見出した。文明3年(1471)蓮如は堅田から吉崎へ進出し、吉崎御坊を中心に寺内町の原型を形づくり、戦国動乱の世に生きぬく町づくりを示した。文明7年(1475)に蓮如は吉崎を離れ、畿内へたち帰り、河内、摂津、和泉などで布教を続け、山科野村の地に本願寺の再建を決めた。本願寺を中心に環濠城塞化された寺内町は、「寺中広大無辺にして、荘厳さながら仏国の如し」(二水記)といわれるような豊かな都市生活がひらけていた。山科寺内町は本願寺教団の信心結合の中心となり、地方から選ばれた門徒たちは番衆として山科に「上洛」し「在京」して寺内町の防衛と運営にあたっていた。戦国乱世にあって、「仏法によってすべてが保護され処罰されもする」理想都市・仏法領の構築をめざし、本願寺を中心に町衆と番衆が協力して寺内町の町づくりに努めていたのである。

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本願寺蓮如上人御廟所

 山科中央公園には寺内町をめぐる土居と堀が保存され、これと隣りあって、山科寺内町の東面する大手先の地に都市建設者蓮如を記念した墓廟がたっている。先年、蓮如が隠居所として造園にあたった南殿光照寺は史跡に指定され、中央公園の土居も附(つけたり)として指定されている。山科には、団地のなかに様子見町の名を残すように、寺内町には防御のための施設がおかれていた。山科寺内町の古図に描かれた寺内町を囲む堀と土居の跡は「山科本願寺殿跡」として今もとくに西辺をよく残している。山科中央公園に残る土居と堀の跡から西辺の土居と堀にいたる寺内町の遺構を保存し整備し、今に残る中世都市の文化的景観として顕彰したい。戦国動乱の世に、自衛と自治をめざした中世都市の遺構として貴重であり、史跡としての保存と活用の積極的な方策をたてなければならない。

発掘された木戸門・くぎぬきの発見

 この2月、市埋蔵文化財研究所が下京中学校建設に伴なう発掘調査で木戸門とみられる柱穴の列を発見したとの新聞報道があった。この遺跡は町小路(現・新町通)と揚梅小路(現・揚梅通)の交差点近くで、外敵の侵入を防ぐ施設の木戸門跡だと推定されている。京都新聞は「応仁の乱前、京の通り遮断」と街路は平安京の大路・小路が現代も踏襲され、調査の機会も少ないが貴重な遺構としている。確かに、中世末の動乱の世に、地域の人びとが地域の安全をはかった自衛と自治の施設として貴重な発見といえよう。

 明応5年(1496)蓮如は摂津の大坂石山に寺内町を建設しようとした。その建設にあたって蓮如は6人の番匠(大工)に「町の番屋、櫓、塀、くぎぬき」の建築を指示している。寺内町の防衛と警備にあたる番衆の詰所、望楼、環濠にかかる橋、土居にめぐらされた市壁、市門、町口の木戸門でいずれも環濠城塞都市の防御施設である。地域の安全をはかっての施設が設けられることになったのである。今回の下京中学校での発掘で明らかになった木戸門は、このくぎぬきにあたり中世末に生まれ、近世を通じて町口におかれ、地域の安全をはかって運用されてきた。

自衛と自治の町づくり・その文化的景観

 確かに、古代都市に比べて中世都市は注目されることは少なかった。日本の古代都市は中国の都城制を取り入れて構築されたが、都市を囲む市壁・羅城を取り入れることはなかった。羅城門は設けられても羅城が築かれることはなかった。羅城門は結局、凱旋門の役割を果たし、市壁のなかに設けられた市門として機能することはなかった。しかし、中世末の動乱のなかで、地域の安全をはかって堀や土居をめぐらす城塞化の動きがあらわれた。平安京として出発した京都にも、自衛と自治の町づくりが進められた。
 ともすれば、忘れられがちな自衛と自治の伝統を想起し、地域に刻まれた記憶を確かなものとするために、わずかに残された文化的景観の保存と活用の道を考えなければならない。

(京都大学名誉教授・当財団文化財専門委員)