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京都市指定文化財 岩佐家住宅

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京都市指定文化財 岩佐家住宅

 今年の夏は、殊のほか暑かった。その上雨が極端に少ない事が余計に堪える。それにしてもどうしてこんなに異常な天候が続いたのだろう。地球が長期的な気象変動のサイクルに入っているのか、はたまた所謂温暖化現象の影響なのだろうか。降るところには、もう要らないと言うほど降っているのに、欲しい所には雨の気配すらない。ほんの十数年前にはもっと頻繁に激しい夕立が訪れたのでなかったか。旱に凶作はない、という言葉を聞いたことがあるのでそれはそれで悪い事ではないと思うが、お隣の畑から農家の老婦人が散水するエンジンの音が毎日のように聞こえてくる。

 前置きが長くなったが、このように愚痴をこぼすのは拙宅でも同様に散水に追われているからである。上賀茂の社家の屋敷は、明神川沿いで典型的に見られるように、取水口から川水を邸内に引き入れ、池を形作った流れは再び明神川に戻されている。上賀茂神社の楢の小川は切り壁の所から境内を出ると明神川と名を変え東に流れる。二百メ−トルばかりの所に末社「藤の木社」があって、その近くに分水の堰が作られ、そのささやかな支流は南大路通に沿って南流する。流れはコンクリ−トの蓋で覆われ、ところどころに鋳物製の簀の部分はあるが全体的には暗渠となっている。通りが舗装されるに伴い蓋をされてしまったが、それまでは流れはオ−プンで小魚が泳ぎ、川底にはカワニナも這って蛍が発生した。農家も野菜を洗ったりして水は綺麗であった。通りに面した家々は集合住宅ができるなど、以前の姿をご存じない住民が増え、況してや暗渠化してしまった今では汚れていくのは自然の成り行きかもしれない。韓国ソウルの清渓川(チョンゲチョン)を甦らせた話を聞くにつけても、わが国の地方の各地で鯉を飼う清流を見るにつけても美しい水を取り戻したいものと思う。

 さて、南大路通りに面する拙宅の散水の話ではあるが、前出の社家屋敷同様、土塀の下の取水口から入った水は庭の十坪ばかりの池を潤してまた流れに戻る。天明二年(1782)に屋敷の敷地が広げられた記録があって、その頃に現在の庭の原形が作られたと思われ、当家の先祖は池水で禊をして身体を清めたとも聞いている。今はただ眺めるだけの庭であるので専ら池を中心とした石組みと植栽の季節の移り変わりを楽しんでいる。意識的に植えられた樹木、例えば松(三本の古木の内二本は枯れて一本は新しく植えた)、梅、木犀、オガタマの木などの類は別にして鳥が運んできたであろう小形の木々が雑然と植わっているのであるが、暮らしの中で馴染んでくるとそれなりに心を和ませてくれるものである。そして一方庭の人工的な景観をかたちづくる飛び石や路地の延壇の間も苔の緑で埋めてやることが庭の印象を深めることになる。謂わば四季に花を付ける木々や石組みを主役とすれば脇役の苔を育てることで舞台を盛り上げようとしている。

 そんな訳で炎天の続く日の日暮れ時、特に苔たちのために、庭の散水に励むことになる。庭には一応水道栓を設置してはあるがとても水道水を撒く気になれない。それで二・三年前水中ポンプを手に入れ、家の中から電気の延長線につないで池の中にポンプを放り込んで明神川から来る水を庭に撒くのである。三十メ−トルのホ−スを引きずりながらせっせと散水する。小型のポンプであるが良く水を送ってくれる。有難いことである。門掃き(落ち葉拾い)と併せて一時間半から二時間で庭の水撒きは終わる。

 池はそこそこの広さがあるので、水はあまり綺麗でなくても小魚たちが泳いでいる。それを狙ってアオサギやコサギが、時には鴨のつがいや翡翠(かわせみ)も姿を見せる。ここまではありふれた庭の風景であるが、一昨年、時代の変化を痛感する事態が発生した、大型の鯉がばたばたと死んで池面に浮いたのである。犯人はアライグマの母仔四頭であった。区役所のお世話で犯人たちは一網打尽で御用になったが、これには驚いた。各地で彼等による被害の発生が伝えられることが多くなった。今まで考えられなかったことである。古い庭と暮らしているといろいろなことがある。広さがあるだけに維持管理が結構厄介である。まだまだ話題はあるが、限がないのでやめる。長々と愚痴を並べている間に昨日漸く雨らしい雨が降った(もっと降っても良いのだが贅沢は言わない)。有難いことに願いが天に届いたのかも知れない。  

 

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京都市指定文化財 長江家住宅

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京都市指定文化財 長江家住宅

 私共の先祖が、祇園祭船鉾の町内に入町したのは文政5年(1822)で、今から186年前になる。当時の町年寄りや五人組といった町内おえら方の厳重な審査をパスし、晴れて町内の一員になれたと聞いている。三代目大坂屋伊助が買得した現北坪32坪、1軒役の価格は、銀3貫目と沽券状写しの記録が残っている。初代伊助が元文元年(1736)丹波亀山(現亀岡市)から上京し、小川三条上る町にて呉服商を創業してから86年後、いつか鉾町に住みたいという願いを、三代目が果たした喜びはいかばかりであったかと、何時も思い起こすことである。

 江戸時代京都は幾度かの大火に見舞われているが、我が家がこの地に来て以来曾て体験したことのない元治の大火(1864)で焼け出され、五代目の書き残した仏壇のご本尊と、布団5流れ以外は、箸1本持ち出せなかったとの覚え書をいつ読み返しても身の引き締まる緊張感を覚える。幸いにも北棟は4年後の慶応4年に再建を果たし、昭和の大戦後の変遷を乗り越えて今日に至っている。

 明治に入り、北棟奥裏の土地を入手、明治7年に大蔵の普請にかかるも同年10月五代目の他界で、翌8年に妻 はる が引き継ぎ完成する(大蔵普請造営記)。身を以て火事を体験し、全てを失った恐怖と、悔しさは、先ず蔵を建てる事で念願を果たしたと思われる。

 六代目の長江伊三郎は明治元年生まれで、早くして父五代目と死別、15歳で家督相続を受け、家業に励む傍ら、商家の主人としての教養を積み、有能な番頭にも恵まれ、業容も順調に拡大、室町業界でもそれなりの地位、評価を得た。しかし、文政から80年余、先代が奥裏を拡張して蔵を建てたものの、約2間半の間口の狭い店舗兼住居では到底効率が悪く、この際室町通りに進出する事を真剣に検討し、具体的な候補地までも選定する段階まで至ったそうである(父七代目の話)。たまたまその頃、町内長老の口利きで、南隣り家買得の願ってもない話が舞い込み、明治39年トントン拍子で話は纏まり、翌40年(1907)4月から表屋造りの新店舗兼住居の建築に掛かり、翌年3月に完成した。現南棟である。北棟はそのまま残し、隠居所とした。店舗機能は全て南棟に移した。永年住み慣れた北棟は、京都の標準的な通り庭形式の町家である。俗に「寒い、暗い、臭い」といわれる町家の三大欠点を備えているだけに、六代目は南棟普請に懸ける意気込みは並々ならぬものがあったであろう。普請の顛末は、「建築日誌一、二」に詳しく記されている。実際に南棟玄関部の天窓やその他随所に明かりを取り込む工夫が見られる。離れ部分には大胆にガラス戸を巡らし、当時の波打ちガラスが今、100年の歴史を屈折する光の中に感じる事が出来る。大正4年に増設した浴室も見学のお客様に褒めて戴いている。船底天井で換気を促し、ヨ−ロッパのタイルと、きめ細かい檜の板を三方に貼り、大正モダニズムを住まいの中にいち早く取り入れている。京都人は新しいもの好きといわれる所以なのか?戦後、水洗便所の普及で「臭い」の問題は解消したが、「寒い」は、この所周囲のビル、マンションの影響で風の流れが変り、冬場の日当りが悪く、昔に比べて真冬の気温は少し低いように思う。長江家は、平成10年南棟に催会場「袋屋」を開設し一般に公開した。この10年間に入場された方は、1万5千名を超える。多くの方がおいでになる事は大変有難く、又殆どの方は"大変でしょうがこの家を是非残して"と言って下さる。維持保存の問題は、平成17年(2005)に京都市指定有形文化財に指定され、大きな名誉と支えを戴いた。しかし、個人の努力を入れても限界がある。その上、自分を含めて高齢化という避けられない現実をどう解決するか。難問を抱えている。