史跡とは

 みなさんは,史跡という言葉から何を思い浮かべますか?国の法律である文化財保護法の第2条に文化財の種類を六つに分類しています。その第2条の4項中の「貝づか、古墳、都城跡、城跡、旧宅その他の遺跡で我が国にとって歴史上又は学術上価値の高いもの」を史跡と呼んでいます。すなわち,その場所や建物(いわゆる遺跡や名所旧跡)が日本の歴史を知る上で重要な所であり,歴史の教科書に取り上げられるほどの価値があると認められた場合,その土地が国の史跡に指定されます。そのためいったん史跡に指定されると法律によって厳しく守られ,土地を改変するといった現状変更に制限が課せられます。逆に発掘調査などで大変重要な遺跡が発見された場合,その土地を史跡指定することにより開発から守ることが出来ます。この場合,指定地が民有地であれば,国と京都市が買い上げる制度(公有化)もあります。
また,京都市や京都府も独自の文化財保護条例を制定して,文化財の指定・登録を行っています。4月1日現在,国指定の史跡は全国に1,596件あり,内60件が特別史跡に指定されています。京都府内に所在する史跡は60件(内51件が京都市内に所在)あり,全国2番目の指定数の多さを誇っています。また京都府指定の史跡が市内に3件,京都市指定史跡が14件,登録史跡が12件あります。これらを全部紹介することは出来ませんので,京都市文化観光資源保護財団・京都市文化財保護課・文化庁のホームページを参考にして下さい。以下では主に国指定の史跡について述べます。
史跡を大別すると,今も地上に建造物や工作物があり,しかもそれらが本来の目的で使用され続けている有形の文化財を含む土地全体を指定している物件ともう既に廃れてしまって,地上にはほとんど痕跡を残していない,または当初の目的を無くしてしまった,いわゆる遺跡が指定を受けている物件に分けることが出来ます。
前者の代表例として,世界遺産「古都京都の文化財」に含まれる賀茂別雷(かもわけいかづち)神社(上賀茂神社)・賀茂御祖(かもみおや)神社(下鴨神社)・教王護国寺(東寺)・醍醐寺・仁和寺・高山寺・鹿苑寺(金閣寺)・慈照寺(銀閣寺)・本願寺(西本願寺)・二条城が挙げられます。また,京都の近代化に貢献し,現在も京都市民に飲料水を供給している,琵琶湖疏水もインクライン・水路閣などの施設が指定されています。
後者の例としては樫原廃寺(かたぎはらはいじ)跡 (西京区樫原内垣外町),平安宮内裏内郭回廊(だいりないかくかいろう)跡(上京区田中町),平安宮豊楽殿(ぶらくでん)跡(中京区聚楽廻西町),西寺(さいじ)跡(南区唐橋西寺町),栗栖野瓦窯(くるすのがよう)跡(左京区岩倉),山科本願寺南殿(なんでん)跡(山科区音羽伊勢宿町),醍醐寺境内(栢杜(かやのもり)遺跡)(伏見区醍醐柏杜町),御土居(おどい)跡(北区鷹峯)などがあります。

公園整備された史跡

遺跡を史跡指定した後,その史跡の歴史的価値を多くの方に現地で学んでもらうための手段として公園整備があります。京都市文化観光資源保護財団が日常管理している代表的な史跡公園を二つ紹介します。


史跡天皇の杜古墳


史跡樫原廃寺(手前が南門跡、後方が塔跡)
■史跡天皇の杜古墳(西京区御陵塚ノ越町)
国道9号線を千代原口交差点から西方へ坂道を登って行く途中,国道の南側にあります。桂川流域を見下ろす丘陵に古墳時代前期(4世紀の後半)に築造された京都市内では大型の前方後円墳で,全長83m,後円部の直径50m,高さが7. 2mあります。古墳の名称は,かつて文徳天皇(平安時代)の御陵であると言われてきたことに由来し,また墳丘(ふんきゅう)に樹木が生い茂っていることで「杜」と呼ばれてきました。昭和63年(1988)から6年かけて整備事業を行い,発掘調査では,墳丘が葺石(ふきいし)に覆われ埴輪が30cm間隔で据えられていたことが判りました。整備にあたっては,「杜」としての景観を保持することを優先し,古墳本来の姿をイメージしてもらうための葺石の復元は部分的に留めてあります。現地は、自由に見学出来ます。

■史跡樫原廃寺跡(西京区樫原内垣外町)
天皇の杜古墳の南方約1qにある樫原廃寺は,奈良時代前期いわゆる飛鳥白鳳時代(7世紀中頃)の創建で京都盆地の南部を一望に見おろす長岡丘陵の緩やかな斜面地に在ります。
昭和42年(1967)に市営住宅建設に先立って行われた発掘調査によって塔跡・南門跡・廊下跡・土塀跡などが発見されました。特に三重塔に推定される塔跡は,その平面形が八角形と特異で一辺が約5mあり,基壇(きだん)の側面は,瓦を積み上げた瓦積基壇と呼ばれる工法で仕上げられていました。また基壇中央の地下約2mの所から塔の中心柱を支えるための巨大な礎石(心礎(しんそ))が発見されています。昭和46年(1971)に史跡指定され翌年には塔跡の基壇復元や門・廊下等の遺構明示を施した史跡公園としてオープンしています。

京都の中心部にある史跡

延暦13年(794)に都が平安京に移り,その北奥の平安宮という区画の中に,今で言うと中央官庁と皇居が建設されました。

この平安宮の中心にある国家の中枢施設が朝堂院(ちょうどういん)(千本丸太町交差点南側一体)であり,その中核建物が今の国会議事堂に該当する大極殿(だいごくでん)です。そしてこの朝堂院の西側に建設されたのが豊楽院(ぶらくいん)という国家の饗宴(きょうえん)施設で,大嘗祭(だいじょうさい)や天皇が外国の使者を迎えての宴会の場として使われました。


豊楽院復元図


豊楽殿北西隅発見階段及び礎石据付穴(北西から)


清暑堂南階段及び基壇南縁(南東から)
この豊楽院の中心施設である豊楽殿(ぶらくでん)の一角(北西隅)が昭和62年(1987)にマンション建設に先立って発掘調査されました。その結果,礎石を据え付けるための一辺が2m以上もある穴や建物の外装を整える基壇の化粧材や2箇所の階段跡が発見され,豊楽殿は東西39m,南北16m,基壇規模で東西46、5m,南北23、3mある巨大な建築物であることが初めて明らかになりました。豊楽殿は大極殿に次ぐ規模を有する当時の最高技術を持って建設された建築物であり,その遺構の重要性から平成2年(1990)に史跡平安宮豊楽殿跡として指定され,土地は公有化されました。公有化した土地は,豊楽殿全体の規模からすると1/6程度にすぎません。そのため,現在は豊楽殿の位置が判るように建物の外周をブロック積みで明示し,その中に芝を張った仮整備の状態で管理しています。

ところで,この豊楽殿のすぐ北側を昨年の夏に発掘調査し,今度は豊楽殿の北側に在った清暑(せいしょ)堂という建物の南縁や階段跡を発見しました。豊楽殿とは廊下で繋がっていたことも判明し,ここも史跡に指定しようということになりましたが,発見された遺構が豊楽殿ではなく清暑堂であることから従来の史跡平安宮豊楽殿跡では,名称が異なるためそのままでは追加指定することが出来ませんでした。平安宮跡は,上京区から中京区にかけての住宅密集地に広がる遺跡で豊楽殿のように一つの遺構が複数の民有地にまたがっています。発掘調査は,民家の建替えや宅地開発など民意によって突発的に生じます。しかも遺構の残り具合が,実際に掘ってみないと判りません。今後も,平安宮の中で重要遺構が突然,発見され,史跡指定に至るケースも十分あり得ます。そのため,将来の史跡指定に柔軟に対応することが出来るよう文化庁・京都府と協議を重ね平安宮内にあるもう一つの史跡(平安宮内裏内郭回廊跡)と史跡の統合を図りさらに名称変更を行う申請を行ない,平成20年5月16日の文化庁審議会において,「史跡平安宮跡 内裏跡・豊楽院跡」と名称変更され,新発見の清暑堂の地は,この一本化された史跡に追加指定されることが決まりました。

京都市が管理する史跡の今後について

京都市が管理する史跡指定地には既述のように公園整備された所もありますが,開発から遺跡を保存するために公有化し,現在はフェンスで周囲を囲み更地として管理しているだけの土地も実は多くあります。栗栖野瓦窯跡,醍醐寺(栢ノ杜遺跡),山科本願寺南殿跡,御土居,樫原廃寺(北半部)などがそれに該当します。これらの未整備の史跡を公園整備するには,多額の費用を要しますが,京都の歴史を現地で体感してもらうための場として公開していくことや前章で紹介した町の中心部にある狭小な史跡指定をどう活用してゆくのかが京都市のこれからの課題であるといえます。

(京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課保護第二係長)