文化財建造物の保存修理では、単に傷んだ箇所を直すだけではなく、通常では見えない木の組み方や加工方法等の調査、建物が建てられてから今日に至るまでの変遷を辿るための痕跡や文献等の調査を行い、建造物の有する歴史的・文化財的価値を一層高める作業が行われます。言い換えれば、保存修理の時には、建物に刻まれた先人の技術や考え方等を知ることができる貴重な機会でもあります。したがって、それらの情報をできる限り読み解くために、多くの時間が費やされています。
 重要文化財の同志社クラーク記念館(京都市上京区)では、平成15年から約5年の工事期間で半解体修理が実施されており、本年末で完了する予定ですが、この修理期間中にも様々な技法や資料が新たに見つかりました。

「墨(すみ)」

 木造建築や建具等の場合、あらかじめ木材を各部材毎に成形加工し、その後組み立てていきますが、その部材加工をするために線を引いたり印を付けることを、「墨を打つ」と言います。一般にその作業は親方(大工の場合は棟梁)が行い、どの材料をどの位置にどのように削ったり切ったりして用いるか木をよく吟味してから墨を打ち、その墨に基づいてその他の大工さん達が鋸(のこぎり)や鑿(のみ)を使って刻んでいきます。

  大工さんが木材を加工していく時、まず必要な材料の中心となる位置を決定し「真墨(しんずみ)」を打ちます。「真墨」はいわゆる仕上げ材の中心線となる線で、この線を基準に材料の幅を決めたり仕口(しくち)の位置や形状を決定し、加工をしていきます。これに対して建具職人さんは、部材の表となる面を決めて「勝手墨(かってずみ)」を打ちます。「勝手墨」とは材の内側面となる位置に表の面がわかるように描く印で、表の面を基準にして、材料の厚みや板决(いたじゃく)り(板を嵌め込むための溝彫り)等を加工していきます。

 文化財の修理を行っていると、大工さんの引いた「真墨」は建物の見えない部分などに残されていて見かけることがよくありますが、建具職人さんの引く「勝手墨」は、ほとんど見ることがありません。なぜなら、建具の場合、框(かまち)や桟(さん)など部材のすべての面が化粧となる(仕上がったときに見える)ため、仕上げの直前に鉋(かんな)で削ってしまうので、最終的に残ることはないのです。


同志社クラーク記念館全景


工事期間中の素屋根


勝手墨が残されていた建具を
修理する職人さん
 クラーク記念館の保存修理で、木製扉の解体修理を行うこととなり、修理現場で職人さんに作業をしてもらうことになりました。当初の修理計画では、建設後110年あまりが経過し、これまで教室等の出入口として過酷な条件の下で使用されてきたにもかかわらず継手や仕口等の緩みは少なく、綿板(わたいた)(扉の中に嵌め込まれた板)や額縁の一部が破損した状態であったため、部分補修で行う予定でした。しかし、精査すると、綿板や額縁等があらかじめ組み込まれている構造であることや、段数の多い繰り型細工など、非常に丁寧に製作された扉であることがわかったので、修理計画を変更し、一旦すべてを解体して当初の構造技法に基づいた形式で修理を行うことになりました。

 実は、この建具に「勝手墨」が残されていたのです。建具構造が、框(建具の四周にある材)と綿板の間に額縁があり、框の側面が仕上げる必要がなかったことから、たまたま削り落とされずに「勝手墨」が残されていたのでした。長年建具の修理に携わってこられた職人さんにお聞きしても、「古い勝手墨を見るのはほとんどない。」とのことでした。また、この「勝手墨」は、関東と関西で描き方が異なるらしく、残されていた墨は関西流で、現代の職人さんが使う印と同じ描き方でした。

 その他、今回の建具修理では、ほぼ同型式の扉4枚をそれぞれ解体していくと、柄(ほぞ)の作り方の違いや矧木(はぎき)(木と木を矧いで合わせる)工法の有無等、加工の仕方が少しずつ異なっていることがわかりました。これについて、工事に携わっていただいた建具職人さん達といろいろ検討した結果、当時、親方と弟子、さらにもう一人の合わせて3人の職人によって製作されたのであろうという結論になりました。

 伝統技法で、師から弟子へ受け継がれていく技の中には、形として残らないものも多数あり、その伝承がいつから行われているのか職人さんでもわからないことが多いのですが、今回のように明治期の「勝手墨」が見つかったことは、技法等を調査する修理技術者の私たちだけでなく、職人さん達にとっても技術伝承が実感できた有意義な発見でした。

「構造補強」


屋根部分を解体して修理を行っている様子


煉瓦壁頂部付近に挿入されていた鉄の
プレート


今回新たに挿入した補強鉄骨材
 近年、日本各地で地震が発生し、様々な建物で耐震対策が進められています。特に大規模な地震があると、その破損状況に応じて耐震補強のあり方等が再検討され、構造解析手法の技術開発や建築基準法の改正等まで実施されることもあります。重要文化財の場合、建築基準法の適用除外となっていますが、現行の基準に準じて文化財の価値を損なわないように配慮しながら、必要に応じて耐震対策が図られていっています。

 明治27年(1894)に建設された同志社クラーク記念館は主要構造部が煉瓦積みであるので、保存修理に合わせて耐震対策を講じることとなり、修理設計時に耐震診断を行いました。この時の耐震解析では、煉瓦頂部や窓開口部の上部付近が構造的に耐力が不足しており、地震が起こった際には、この箇所に亀裂等がまず生じ、その後建物全体の破損に広がっていくであろうという結果が出ました。したがって、補強計画では、煉瓦の頂部に鉄骨を張り付けて上部壁面の変形を抑え、さらに対面する煉瓦壁をトラス等で繋ぎ合わせて、いわば箱に蓋をするような考え方で構造体全体を安定させるとともに、開口部の上部には鉄プレート等を張り付け、面として一体化させる補強を施すこととなりました。

 修理方針が決定して工事が着手され、建物を順次解体していき、補強で鉄骨を張り付けるために煉瓦頂部の一部を取り除いていくと、壁体の中に鉄のプレート(幅6p、厚さ6o)が埋め込んで敷き通されていました。今回の補強鉄骨より小さな部材ではありましたが、明治の建設当時、すでにこの部分に補強が施されていたのでした。その他にも煉瓦壁と床組や小屋組との緊結等、構造補強対策が随所に見られました。この建物の設計者はドイツ人で、設計図も残されており、窓開口部の上に補強金物を挿入する旨の記載がある箇所もありますが、ドイツではそれほど地震等に対する対策は行われないようなので、おそらくは設計等に関与した日本人によって、このような補強工事が計画され施工されたのであろうと推察されます。

 外観からは全く想像もできませんでしたが、近代化されて間もない明治時代中期における建築構造の技術力の高さを知ることができました。

 このように文化財建造物の保存修理現場では、先人のすばらしい技術や建物建設に傾けられた情熱が目の当たりに見られ、今の私たちの知識や技術は、過去から引き継いで発展してきているんだということを改めて感じることができます。

(京都府教育庁指導部文化財保護課文化財専門技術員)