葵祭の行列は賀茂祭「路頭の儀」

 風薫る5月、平安時代の王朝装束に身を固めた行列が京都御所を出発し、下鴨神社、上賀茂神社へと向かいます、京都三大祭の幕開け葵祭の行列です。

 葵祭は正式名を賀茂祭と言い、賀茂御祖神社かもみおやじんじゃ(下鴨神社)と賀茂別雷神社かもわけいかづちじんじゃ(上賀茂神社)の例大祭です。両神社では5月のはじめから流鏑神事馬やぶさめしんじ競馬神事くらべうましんじ御禊みそぎの儀、歩射ぶしゃ神事、御蔭みかげ祭、御阿礼みあれ神事などの祭儀が行われていて、そのメインイベントとなるのが5月15日に行われる祭儀なのです。この日は天皇のお使いである勅使ちょくしが、天皇から神へのお言葉である御祭文とお供え物の御幣物ごへいもつを持って両賀茂社へお詣りになる日で、祭儀は天皇が勅使に御祭文と御幣物を授ける「宮中の儀」、勅使を中心に護衛やお供の人たちが行列をなして両賀茂社に至る「路頭ろとうの儀」、神社の社頭で勅使が御祭文を奏上し、御幣物をお供えする「社頭しゃとうの儀」の三つからなっています。ただ明治2年(1869年)事実上の東京遷都によって京都御所は天皇不在となったのでそれ以来「宮中の儀」は行われていませんが、現在も東京から勅使がお見えになり「路頭の儀」と「社頭の儀」はほぼ古式通りに行われています。「社頭の儀」は最近までは未公開であったため「路頭の儀」いわゆる行列のみが有名で、葵祭といえばこの行列と思っている人も多いようです。また賀茂祭が葵祭と呼ばれるようになったのは江戸時代以降で、祭の当日行列参役者の冠、烏帽子えぼし、装束から牛車、牛馬に至るまで葵と桂の葉で飾ったことによっています。


葵祭路頭の儀(行列) 写真提供:清水直行氏

祭の始まりと官祭の時代

 祭りの始まりは今から約1400年前の欽明きんめい天皇の565年、暴風雨や長雨のため作物が実らず民が困っていました、そこで時の朝廷は占部伊吉若日子うらべいきわかひこに占わせたところ賀茂の大神の祟りであるとのご託宣があったので、4月の吉日を選び勅使を遣わし祭礼をおこない、馬に鈴を懸け人は猪の頭を被って駆け比べをしたところ、風雨治まり五穀は豊かに実り人々の暮らしは安泰になったと言われています。

 平安時代京都に都が移されてから、賀茂社は山城国の守護神として朝廷の信仰がことのほか厚く、嵯峨天皇の時(810年)には最愛の有智子内親王うちこないしんのうを斎王として賀茂社へ遣はされました。また弘仁10年(819年)に賀茂祭は中祀に準じられ神社の祭としては最も重い扱いを受けることになり、ここに盛大華麗な勅祭の形が整いました。祭は毎年四月の中酉の日に行われ、その数日前に斎王は行列を従えて賀茂川に臨み川辺で御禊を行いました。その頃の祭の盛大な様子は源氏物語、枕草子をはじめとする王朝文学に見ることができ、単に「まつり」と言えば賀茂祭を指すほど隆盛を極めたものと言われています。

 鎌倉・室町時代に入り度重なる戦乱のため、そして朝廷の政治力・経済力が衰微するにつれ勅祭として七百年近く盛大に行われてきた賀茂祭も文亀2年(1502年)から中断のやむなきに至りました。

 葵祭が再興されるのは約200年後の元禄7年(1694年)、これには下鴨神社、上賀茂神社の熱意と朝廷・公家の理解それに徳川幕府の絶大な協力がありました。葵祭と呼ばれるようになったのもこの頃からで徳川家の紋所三つ葉葵と関連があるとも言われています。

 幕末の動乱を経て明治2年(1869年)事実上の東京遷都が行われ、翌3年から行列は再び中止、勅使の派遣も行われなかったのですが、明治16年(1883年)岩倉具視公が「賀茂祭旧儀再興の事」を提言、その結果翌17年から賀茂祭は官祭となり、新暦5月15日を祭日と定め勅使の行列も復活されたのです。こうして葵祭は石清水祭、春日祭と併せて三勅祭として明治・大正時代と昭和の太平洋戦争が始まるまで宮内省京都地方事務所により続けられて来ましたが、戦局の推移のため昭和18年より行列は三度中断のやむなきに至ったのです。

戦後の行列復活と斎王代列の創設

 昭和26年(1951年)日本が連合軍の占領下から独立を果たすと、既に京都三大祭りの一つ時代祭の行列も復活していたこともあり、多くの市民から葵祭の復活を望む声が高まってきました、この声に応えて京都府、京都市と京都財界それに両賀茂社の関係者などを加えて「葵祭行列協賛会」が設立され、府・市からの補助金の予算化をはじめとして経済的にも関係者の努力が実り、昭和28年(1953年)ようやく勅使参向、路頭の儀が復活することになったのです。また、昭和31年からは葵祭の行列に華やかさを加えるため、永らく途絶えていた斎王行列をイメージし、京都在住の未婚の女性から選んだ「斎王代」を中心とした女人列を行列に加えました。

 復活した葵祭行列の運営は葵祭行列協賛会の祭典部として主として宮内庁京都事務所及び宮内庁・皇宮警察OBの方々の手によって行われてきました。これは戦前では葵祭は官祭で宮内省京都地方事務所(当時)が所管していたこともあって、祭りのノウハウや装束・用具類が京都御所に残っていたことによるのですが、平成12年には葵祭行列を構成する民間団体による「葵祭行列保存会」が設立され行列全般についての運営を行うようになりました。

葵祭行列の構成

 葵祭の行列は総勢511人、馬36頭、牛4頭、牛車2台、腰輿ようよ1台からなり、行列の長さは約700メートル、五つの列に分けられます。

 第1列は警護の列、先頭をゆく乗尻は5月5日の上賀茂神社の競べ馬で選ばれた騎手で左右各3騎、行列を先導します。次いで現在の警察・裁判所にあたる検非違使庁けびいしちょうさかんじょうが騎馬で下級役人の火長かちょう看督長かどのおさ鉾持ほこもちなどを従えてゆきます。さらに両賀茂社は洛外になり山城国司の管轄区域になるため次官である山城使がお供を従え警護の任につきます。

 第2列は天皇からのお供え物の列です。衛士に守られ白丁に担がれた御幣櫃ごへいびつが三つあるのは賀茂御祖神社(下鴨神社)の御祭神は二柱、賀茂別雷神社(上賀茂神社)の御祭神は一柱だからです。それにお供え物の係りの内蔵寮史生くらりょうしせいが騎馬でゆき、次いで両賀茂社の神前で引き回しをする御馬2頭が騎馬の係りの役人馬寮使めりょうつかいと共に行きます、そしてその後を藤と杜若かきつばたなどで飾った牛車が赤い水干の牛童に引かれて続きます。

 第3列は勅使とそのお供の列です、現在では勅使は社頭の儀のみに参役されるので、代わりとして近衛使このえつかいが黒色の闕腋袍けってきほう垂纓すいえいの冠という勅使と同じ装束を着け、唐鞍に銀面をつけた馬に乗り大勢のお供に社頭の儀で必要な調度品を持たせて進んで行きます、その前には勅使のお供の武官であり神前で舞を奉納する舞人が6人騎馬で行きます。列の最後は花で飾られた風流傘です。

 第4列は勅使のお供の陪従べいじゅう内蔵使くらつかいの列です。陪従は神前で雅楽を奏する武官で7人が騎馬で参進します、そして勅使が神前で奏上する御祭文を持った内蔵使が大勢のお供をつれ騎馬で進み、列の最後は風流傘で締めくくります。

 最後の列は女人列です、五衣裳唐衣いつつぎぬもからぎぬいわゆる十二単じゅうにひとえを纏い、8人の輿丁が担ぐお腰輿よよに乗った斎王代を中心に女別当おんなべっとう内侍ないし命婦みょうぶ女嬬にょじゅ采女うねめ童女わらわめ騎女むねのりおんななど斎院に仕えた女官に扮した女性たちが当時の正装で参列します。この列には道楽みちがくを行う斎院の蔵人所陪従くろうどどころべいじゅうが楽器を持って加わり、列の最後は桜の花で飾られた牛車が行きます。

葵祭行列を支える人たち

 参役者のうち一般から募集するのは47人の女人列参役者と約200人の学生アルバイトで、他は旧公家の堂上会とうしょうかい、両賀茂社の社家、平安雅楽会、昔から皇室とご縁のある八瀬童子会、御祭神が下鴨神社の御祭神建角身命たけつのみのみことの奥方というご縁で参役していただく亀岡市宮前町みやざきちょうの宮川神社の氏子たち、それに京都府庁と関西電力のボランティアなど毎年ご奉仕をしていただいています。運営に携わっている人たちも宮内庁関係のOBさん、装束、衣紋、化粧、牛馬を扱う人たち、輸送・布設から食撰に至るまで毎年殆ど同じ方々にご奉仕願っています。なかには先祖代々従事しているという方もあります。これらの方々に共通するのは京都御所に対する思い入れと葵祭を続けていかねばならない使命感です。この気持ちがある限りこの雅な伝統行事を後世まで伝えてゆくことが出来るものと確信しています。

(葵祭行列保存会事務局長)