日本列島の各地の小集落に仏像が安置されるようになったのはいつの頃からであろうか。この問題は、 仏教がいつ日本民族の庶民層へ浸透していったかということを考える上で重要であるが、従来明快な解答はない。

 6世紀に仏教が百済から伝わり、天皇貴族を中心とする上層階級に広まり、やがて律 令国家体制を推進する上での大きな力となっていった。8世紀半ばに及ぶ東大寺大仏の造立はそのシンボルともいうべき大事業であった。一方で、新しい都づくりに続いて、造寺造仏の苦役を課せられた一般 民衆の疲弊はその極に達した。そこに文字通り救世主のように現れ、世の人びとに光を与えたのが僧行基ぎょうぎ である。畿内一円に仏教を広め、多くの福利事業を民の力を結集して成し遂げ、さらに日本列島の各地を巡錫じゅんしゃく して多くの里に仏堂を建て、神仏一体の境地による新しい仏教を根付かせた。

 『続日本紀しょくにほんぎ』 天平二十一年二月二日の行基の卒伝そつでん は、同書の卒伝中でもその賞賛の心がもっとも強く示 された名文であるが、「留止るしするところにはみな 道場を建て、其の畿内には凡そ四十九 處、諸道にも亦往々ところどころに在り。弟子相継ぎて皆遺法を守り,今に至るまで住持す」とある。 畿内四十九院に続いて諸道にも往々に在りと記す部分は、明らかに各地への布教と道場(国家から公認 されていない寺)を建てたことをしるしたものと推定される。私はここで、永年にわたって調査 を続けてきた一木彫の仏像のうち、かなりの作例について行基御作の伝承が遺っていることについて積 極的に注目したいと思う。以前、久野健くのたけし氏が、聖武天皇の御世みよ(724〜748) の説話が多く収められている『日本霊異記にほんりょういき』の記載の中に登場する仏像の材質 について、木像がもっとも多いことを指摘され、奈良時代には木像はほとんど行われなかったとする当 時の通説の誤りを指摘されたのは卓見であったが、これに付して現存作例を皆無とされたのは、早計で あり正しくなかったと思う。奈良時代の木像は数多く現存しているのだが、それらはすべて一木彫成像 の誤った編年体系の中に組み入れられて9〜10世紀の作とされてきたのである。私は、実地調査を続け ながら古仏にまつわる伝承の中の史実性と真実性にも眼を向けた。その結果、八世紀に造立された一木彫像いちぼくちょうぞう は数多く遺つており、それらの中の八世紀前半期と考えられる作例が行基関係仏と認められる可能性は 高まりつつあると考えている。

 いま私は、京都とその周辺の“古仏の遺る里”の成立を論じようとして、日本の各地の里に初めて仏 教をもたらした行基というカリスマ的な高僧に焦点をあてようとしている。彼は一般大衆の心をどのようにしてつかみ、日本列島の草の根にまで仏教を広めることが出来たのであろうか。

 私は次のように想像する。行基はある時、神木しんぼくに祈ってそこに出現する仏像を感得かんとくした。 この奇跡の功徳くどくを多くの人たちにわか ち与えたいと思い、仏法弘通ぐつうのための地方への行脚あんぎゃ を決意する。里に到ると、まずそこの土地の神(産土神うぶすながみ)を拝し、この里に仏像を安置 したい旨を告げ、寺つくりの助力を請う。神は護法神ごほうしんとなって寺つくりを助ける。行基は、 その里の古木の前で祈り、この里を守るための仏像を感得する。ただちに随伴していた仏工にその特色を 伝えて仏像を彫らしめた。それらは霊木から出現しつつある奇跡の形をとることが多かった。この仏は、 神木と仏の姿が一体となった神仏習合しんぶつしゅうごう(重なり合う)の尊像で、他のどこの国にも 存在しない日本独自の仏像であった。

 そして行基は里人たちに告げた。この仏の料材は皆さんが 尊い木として日常拝んできたなじみ深いあの霊木である。そこに私の心中に出現した仏が宿って姿を現し たのである。だから皆さんの礼拝は、仏教的な合掌がっしょうでもよい、また神に対するような拍手かしわで を打つ式でもよい。そしてこの仏像はいま皆さんの前で奇跡の出現を果しつつある。これを日常の平凡な 風にさらしてはならない。秘仏として三十三年あるいは六十年に一度開帳かいちょう法要を行って皆さ んの子孫にこの仏の有難さを永く伝えなさい。この里の仏は、すなわち皆さんの仏です。力を合わせて仏 像にふさわしいお堂を建てなさい。このような言葉を残して行基はこの地を去り、次の里へと向った。こ のような布教の風景は、行基伝承仏を中核とする奈良時代の木彫の霊地調査が、20カ年を過ぎるあたり で私の心中に生れた。奈良時代における里の仏教は、一人のカリスマ的行脚僧行基によって全国的な規模 で始められ、その後の日本的仏教の姿を決定づけた。弘法大師空海の巡錫は行基の足跡を慕いつつ成され たものであり、その後の多くの行脚僧も各地で彼の名を耳にしたことは疑いない。


図1
 京都とその周辺に遺る里の古仏については、「古仏の遺る里」として題して一文を草した(京都市文化財ブックス第3集 『京の古仏』京都市文化財保護課発行・昭和63年)。その時点では問題として取り上げなかった重要な問題 があった。それは草の根を分けるようにしながらこの日本列島に仏教が定着し始めたのはいつの頃なのか、 そしてどのような形でそれは行われたのかという設問であった。少なくとも京都とその周辺の里の古仏は その草創期ではなく、これに次ぐ時期の実態を示しているように思えた。すでに記したようにその草創者 は行基である。行基仏教とでも呼ぶべき日本的な神仏習合仏教を説きつつ、自らの感得像を彫って里の仏 とした。この点で当時の里の仏教は一つの共通した色彩をそなえていた。京都及びその周辺の里の古仏は 一様ではない。そこに草の根仏教が、定着した事情についても様々であろう。しかしながら、それらの中 で山城国大江の里に、都づくりから逃亡して行き倒れとなる地方の人たちの救済施設が、49院の他に行基によ って造られたことも忘れてはならない。決して戸数が多いとはいえない小集落に、人びとの心を結集する 仏像が安置され、里人たちが皆自分たちの仏として大切に守り伝えているのは、草創者の行基が里人たちに 言い聞かせた教えを遵守している風景と一致するであろう。


図3

図2
 ここで、本年当財団が文化財カレンダ−に掲載された仏像からみてみよう。洛北大森東町安楽寺の薬師如来坐像(図1)は、大きな 頭部に強い精神、体部は各部の量が押し合い、足膝部の衣文えもんは深く彫られて重い。全体が一箇の 量塊感をなし凄い迫力だ。側面観では上半身が腹部を突き出して胸を後方へ引く奈良朝式である点が注目 される。老相の僧形坐像は、塑像的タッチを交えた深い彫り皺が彫りの限界を試しているようだ。短躯の 武装天部像は、肥満の怒り顔が一瞬の気勢を示してユ―モラス。如来形立像は、腹部と大腿部が異常に長く 頭部が小さい奈良式プロポ―ションで、両手首から縦に垂れる衣端には何と15個の施転文が壘々と配され、 神秘なエネルギ―を感じさせる。この4躯はいずれも尋常ではない精神表現を背景にもつ極めて個性的な尊 像ばかりで、おそらく平安京成立以前の8世紀に造られた感得像であろう。文徳天皇の皇子で悲運の生涯を 送った惟喬これたか親王と結び付ける説もあるが、仏像の方が一段と古様で両者は時代が合わない。左京区大原(町有)の十一面観音立像(図2)は,惟喬親王の墓所近くに安置されている。優しみを堪えたお 顔と、すらりとした伸びやかな肉身との組み合わせは絶妙である。特筆すべき9世紀の美作。赤間あかま薬師堂の薬師如来坐像(図3)と大神宮社だいじんぐうしゃの阿弥陀如来坐像(図4)は、京都を中心に 盛行した定朝様の流れに属する。紛れもない都ぶりの典型。中院町の千手観音立像(図5)は、小像だが美作。 広見寺の地蔵菩薩坐像(図6)は、鎌倉時代の周丈六の大作であるが、全面に檀色だんじき(白檀色)を 施した代用材檀像である。大森東町安楽寺の4躯が平安京の成立以前と考えられることを除いて、他の諸例 はいずれも京の仏像の高い水準そのものであり、さすがに京都とその周辺の里の底力を示しているようであ る。少子化が進みつつある昨今、これらの里の古仏が大切に次の代に受け継がれていくことを心から願っている。


図4

図5

図6

(美術史家・当財団文化財専門委員)