吉田神社(大元宮)
 多くの文化財が,凝縮して一地域に集まっている都市は,ここ京都と奈良をおいて,他には見当たらない。それは,これらの二つの都市が,日本の政治・文化の中心としての長い歴史を持ち続けていたからにほかならない。 
 つまり,奈良にしろ京都にしろ,都として栄えていた頃は,中国や西域の文化を採り入れた国際文化都市の色彩が強かった。それは,いまの首都東京が、明治以来の西欧文化の摂取によって,西欧文化都市となっているのと,よく対比される。京都は,平安京として,1070余年の間、都であり続けたことは,それだけ多くの文化財を抱えていることになる。その文化財は,中国や西域の色彩の強いものが多いということは,いうまでもないが,今に残されている文化財の中で,外来の特に仏教や道教といった宗教の影響は,多くの寺社に見ることができる。

 先ず,その一つの例として,吉田神社の末社である斎場所大元宮さいじょうしょだいげんぐうをとり上げてみたい。この大元宮は,室町時代,唯一神道つまり吉田神道の創唱者吉田兼倶が,文明16年(1484)に再興したもので,吉田神道の根元殿堂である。吉田神道は,教説の中に密教や道教をとり入れていたので,明治維新の神仏分離政策によって廃止され,吉田神社は国学神道(復古神道)の流れに統合されてしまった。平安末に地位を固めてきたト部うらべ氏の流れを汲んでいるのが吉田家であって,吉田家は全国の神職を支配下において,神社界の中心的存在であった。兼倶は,文明8年(1476)自ら神祇長上を称している。兼倶以降の吉田家の当主は,代々神祇長上を名乗って,明治維新まで全国の神社と神職を支配し,神社界に絶大なる勢力をもっていた。
  兼倶は,吉田神道の創唱者であり,文明初年頃には,その神道説がかなり整備されていたと思われるが,その頃建立されたのが,吉田山上にある斎場所大元宮である。斎場所建立のときは,ここは神武じんむ天皇創建にかかる全国諸社の根源であるとされた。そのような関係で,ここは崇拝の対象となっていたがために,観光の対象とはなっていないが,大元宮の建物は,八角形の社殿造りで,特異な形式の建物である。その周囲に,伊勢内外宮,八神殿,式内3000余社を配祀しているもので,まさに兼倶の描いた唯一神道説を具象化したものといえる。
  大元宮という名称は,大元尊神だいげんそんじんつまり国常立神とも関連するが,「太玄」と表記すれば,それは虚無恬淡なる道を指し,老荘的な発想であることに気づくことであろう。すなわち大元宮は,その名からして道教的な名称なのであり,また八角形という建物の構造は,日本の神道で好まれる数字である。吉田神道で修する三壇行事の中の神道護摩の護摩壇は,八角形をしていることも,その証しの一つである。
  吉田神道の教えを具現した大元宮の存在が,京都市を中心として,神道界に権威を振るった証拠として,いまも存在していることは,歴史的文化財として貴重なものといえよう。

 吉田神道に関係したものとして,「神祇道じんぎどう霊符」がある。神社や寺院で配る祈祷札つまり符は,もともと道教で行われている符,例えば,「玄霊符」などがもとになっている。むしろ,この玄霊符を真似て,兼倶が作成したのが,神祇道霊符である。もとになった道教の玄霊符は,道蔵の『太上玄霊北斗本命延生真経注』の巻五に収められているものであるが,別行し且つ兼倶風に改変して神祇道霊符を作っているのである。
  この神祇道霊符は,天理図書館に収蔵されているが,京都でも身近に,その写本がみられるのである。それは,大将軍八神社に所蔵されているからである。この神社には,かつて配布したいろいろなお札が残っていて,これらは知られざる文化財ともいわれるものではなかろうか。大将軍八神社は,北野天満宮の南の方角に当たり,かつてその場所は,平安京内裏の北西の角で,陰陽道おんみょうどうでいう天門に当たる。つまり方位を守るに相応しい神社で,大将軍宮とか大将軍社といわれていたが,明治以降大将軍八神社となった。方違え,普請などの建築造営の方位除けなど方位の神として信仰されている。
  宝物殿である方徳殿には,大将軍神像80体を蔵し,また北極星や北斗七星を表す神像などがあるが,その中に吉田神道の神祇道霊符の写本が,展示されていて,興味を惹かれる。この大将軍八神社の方徳殿のように,道教や陰陽道の影響下にある,多くの古文書や写本類がみられるのは,これも隠れた文化財の宝庫である。

 祇園社には,牛頭ごず天王が祭神として祀られている。この祭神牛頭天王とは,いかなる神なのであろうか。牛頭天王とは,牛頭栴檀せんだんを神格化したもので,その牛頭栴檀とは実は薬草なのである。したがって,疫病を治す効能があることから,薬草牛頭栴檀を神格化して牛頭天王として祀ったものと考えられる。この牛頭栴檀が薬草であることは,『翻訳名義集』衆香篇第34に,牛頭栴檀は薬であって,よく病を除くといっていたり,牛頭栴檀を塗れば,たちどころに傷も治る,ともいっている。
  そして,この牛頭栴檀を材料にして,仏像を作ったとき福徳ふくとくについても,「僧―阿含経あごんきょう」巻28に,釈尊しゃくそん優填王うでんのうに説いた説話が載っている。そこに,牛頭栴檀で仏像を作った場合,その福徳ははかりしれないものがあることを教えている。
 このようなことから,牛頭栴檀を材料にして作った神像が,牛頭天王像として祀られているとも考えられるのである。ともかく祇園社の祭神である牛頭天王は,治病薬牛頭栴檀を神格化したものであるし,しかも牛頭栴檀を材料とした神像である可能性もあり,その福徳は多大なものがあることが判る。


八坂神社(本殿)
 また,大晦日に「おけら火」として,祇園社いまの八坂神社から,火種を貰い,正月の煮炊きの火種としているのは,これも牛頭天王から授かった火種であって,その一年間の無病息災を願う意味があることを忘れてはなるまい。

 祇園社の牛頭天王は,もともとはインドからやってきた神で,わが国にわたってきて,スサノオのみこと習合しゅうごうした。スサノオ命は,高天原を追われたため,怨みを抱く神とされ,御霊信仰にむすびつき,独自の展開をしている。スサノオ命の怨霊おんりょうが,疫病を流行らせることから,その御霊を慰めるために,祇園御霊会ごりょうえが始まったとされる。そして,このスサノオ命は,また『備後風土記』逸文によると,武塔天神むとうてんじんのこととされる。武塔天神の話は,よく知られた話であるが,その話の中に,武塔天神が旅の途中,泊る宿に困っていたところ,貧しい蘇民将来が,宿を提供してくれた。武塔天神は,一泊の宿のお礼に,小さなちがやの輪を与え,家族のものにそれを腰につけるように勧めた。つまり,茅の輪をつけているものは,疫病神が怖れて近づかないからということで,蘇民将来の家族は流行病から逃れることができたという話である。この武塔天神が,祇園社に祀られているスサノオ命と同体とされている。このようにみてくると,祇園社の祭神牛頭天王は,またスサノオ命と習合し,疫病を防ぐ神であると共に御霊信仰の神としてもあがめられているのである。
  実は,ここでは詳しく述べられないが,京都に独自といっていい神社に,御霊信仰によって建てられた神社が多い。これも京都市が政治の中心であったがために,権力争いに敗れて,不遇のうちに世を去った人達の怨霊を鎮めるための神社なのである。
  ともかく,京都には数え切れない多くの文化財がある。そこには,大陸と日本の文化の融合の姿をみることができる。それをそのまま本来の姿で,後世に伝えてゆくことが,われわれに課せられた大きい義務であろう。

(妙法院門跡門主)