京都は、明治の末から大正期にかけて、京都市三大事業と呼ばれる都市計画が実施され、近代都市としての基盤が形成された。この三大事業とは、水利事業(第二疎水開削と発電事業)、上水事業、道路拡張事業と市電敷設事業を指す。ここに紹介する写真は、明治の初めから末期に撮られた写真である。つまりちょうどこの京都市三大事業が実施される前後に撮られたことになる。
 まず、表紙の写真は、三条大橋から鴨川の上流を撮った、明治の中ごろと思われる写真である。現在のような河原やみそそぎ川はなく、民家の石垣が直接川に接している。河原は、昭和十年に起こった鴨川の大氾濫のあとに造られたそうだ。民家の石垣にははしごがかかっており、川岸を丸太でどどめした部分に降りられるようになっている。どどめ部分の縁に渡した水平の板からはさらに2、3段の階段が水面まで伸びている。この写真では上流のほうに一艘の小船が写っているだけで民家の並ぶ川岸には一艘の船も見あたらないが、水面に渡したこの板台は船着場としても使われていたのだろうか。水中から伸びた太い杭に船をつないだものと思われる。当時の鴨川も今の鴨川と同じように浅瀬で、底の平らな小船なら浮かべることができたようだ。川ではアユ、フナ、ゴリなどの川魚が取れた他、料亭や席貸しが川遊びの船を出していたようだ。そして、鴨川の夏の風物詩といえば納涼床である。この写真には写っていないが、当時も現在と同じように夏になると川の上に床が組まれた。しかし、この頃の床は今とは形態が異なっており、川の浅瀬にショウギを置いて床としていたそうだ。写真に写っているのは上木屋町にあたる。上木屋町には料亭や席貸しが多かった。写真の鴨川は、人影もほとんどなく寂しい感じがするが、川岸の中央近くで川の中につかって作業している男性の姿が見られることから夏に近い鴨川の情景であろうと思われる。

 本文中の写真に写っている烏丸通りは現在の通りよりもかなり道幅が狭い。しかし、当時は今のようにビルやマンションなどの高い建物もなく、逆に空が広く開けており、広々とした印象を受ける。この辺りは住宅街であったのか、人通りもほとんどなく、現在の烏丸通りとは隔世の感がある。この日は祭日だったのか、家の戸口には日の丸がたっている。写真の左隅には御所の石垣と植物が見える。烏丸通りから丸太町通りに曲がりこむように、すでに市電の線路が走っている。
 千本通りは、西陣の活況を反映してか、にぎやかな商店街が並び、人通りも多い。明治44年という時代にもかかわらず、洋服を着た人もたくさん見られ、左手前にはかわいらしい洋服を着た女の子が立っている。通りの真中を歩く人影の中と画面の向かって左側には、着物にこうもり傘という出で立ちの男性も見える。交差点の角に立ってこちらを見ている人物は、この写真を撮る作業に関係した人物らしい。本文に紹介した3枚の写真すべてに服装は異なるが同じ人物が写りこんでいるからだ。交差点の右角に写っている店は化粧品屋で、中央には服地屋、紙屋、左角には薬局が写っている。当時の日用品を売っている店が軒をつらねている様子がわかるだろう。
 最後は烏丸通りより七条停車場を望んだ写真だ。この七条停車場とは現在の京都駅のことで、明治10年に建設された初代の京都駅である。正面の駅にはたくさんの人が集まっている。当時の記録によればこの写真は明治43年11月に撮影されたとあり、この日は11月3日の天長節か11月23日の新嘗祭だと思われる。左手前の建物に日の丸がかけられているのが見える。駅舎は洋風のモダンな建物で、煙突からは煙が出ている。右手前の烏丸通り沿いの建物には大きな火の見やぐらがかけられている。この火の見やぐらは高さを出すためにスライドできるように二重になっているようだ。千本通りや丸太町付近の烏丸通りに比べて比較的広く見える烏丸通りには、一台の人力車が見えるだけだ。しかし、駅舎の前には現在のタクシー乗り場のように人力車が客待ちをしている様子が見える。左側奥の二階建ての洋館の前には馬がつながれているのが見える。現在の京都駅は、初代から4代目にあたり、つい最近駅ビルも新しくなり、写真当時の面影はまったく残っていない。このように京都駅の変遷を写真で追ってみるのもおもしろいかもしれない。
 都市としての利便性が追求されると、当然のようにそれまでの街の外観も変わってくる。観光都市である京都は現在の写真を見てもわかるように、これからどうやって古都としての独自性を残していくかという問題に直面しているといえるだろう。最近、京都の中心街を歩くと、町家を改造して喫茶店やレストランにしているお店がよく目に入る。このような町家の再利用法は、これからの京都の町づくりを考える上で大きなヒントになるのではないだろうか。町家を壊して近代的なビルを建てるだけではなく、町の外観を壊さずに中身の利用法を変える、という考え方があってもいいのではないだろうかと思うのだ。だからといって、個人がどういう家を建てるか選択の自由が制限されるようなことがあってはならないが、個人が町家を残したいと思えるような町をつくっていきたいものだ。
(ナカガワフォトギャラリー・写真家)