祇園祭りの宵山に,山鉾町の町家で見られる 屏風飾りのことを一名,屏風祭りともいう。以 前より随分と少なくなったとはいえ,現在でも 屏風祭りは宵山のそぞろ歩きの楽しみの一つで ある。古くは狩野派の屏風に始まり,円山四条 派はいうに及ばず,流派,画題,技法,時代な ど,多岐にわたる京都画壇の名品の数々に直に 触れ得ることは,美術館などでガラス越しに鑑 賞する以上に印象深い。屏風祭りは,まさに市 民による市民のための展覧会である。京都の町 衆が長年にわたって守り育ててきた京都画壇の 画家たちの作品を,うぶな形で拝見できるまたとない機会なのである。

写真 祇園祭礼図屏風(部分) 海北友雪筆
(財)八幡山保存会所蔵

 宵山の屏風飾りのなかで秀逸なものの一つに, 八幡山町会所で拝見できる「祇園祭礼図屏風」 (写真)がある。桃山時代の巨匠海北友松(かいほうゆうしょう)の一 子,海北友雪(ゆうせつ)(1598〜1677)の筆になる6曲屏 風1隻である。祇園祭礼図も,江戸時代に入る と熱狂的な群集描写は影を潜め,山鉾や神輿の 祭列描写に主眼が向けられるようになる。祭礼 図から巡行図へ,事象から事物へと,志向の変 化が認められるのである。本図は,まさにその 傾向を如実に示す作例であり,町内の古文書に よると,安政2年(1855)当町住人の萩野河内守 による寄進で,「明暦年間(1655〜58)の筆」 とされる。画面を上下2段に分け,上段の四条 通に八幡山を含む後祭りの10基の山鉾巡行を描 き,下段の三条通に還幸する神輿3基を描く。 後祭りに巡行するすべての山鉾を描きこむなど, 祭りの形態の描写に意を注いでいる。町内に寄 進されたのは元々1隻のみであるが,本来1双 をなす他隻には,もちろん前祭りの山鉾巡行が 描かれていたであろうことは想像に難くない。
 ところで,宵山に屏風を飾るという美風は, はたしていつ頃から生まれたものであろうか。 もともと宵山は夜を徹して祭礼の当日を迎える 素朴な行事であった。これが,いつしか華やか さを増し,屏風を飾るなどして客をもてなすようになる。やがて,それを目当てに一般の見物 客が集まりだす。これが屏風祭りの始まりであ る。
 近世の絵画資料には,残念ながら宵山の屏風 飾りの様子をとらえた作品は残されていないようである。宵山の翌日,山鉾巡行当日の様子に ついていえば,数多く伝わる祇園祭礼図屏風を みると,17世紀初めの作品では未だそうした風 習は描かれていない。これが,先にみた17世紀 半ばの八幡山保存会の屏風になると,三条通に 面した家々では表格子を外し,室内に屏風を立 て回し,山鉾巡行を迎えるところが描かれる。 町人階層が,祭りを優雅に楽しむ経済的な余裕 をもつようになったことがうかがえよう。
 文献ではどうであろうか。延宝4年(1676)の 『日次紀事(ひなみきじ)』では,未だ宵山の記事は見当らな い。しかし,これより1世紀ほど下がる18世紀 半ば,宝暦7年(1757)の奥書をもつ『祇園御霊 会細記』には,既に屏風飾りの慣例が定着して いたことを示す記載がある。同書上巻の「祇園 祭記」の「宵夜錺の事」に次のようにある。
 「(らしゃもうせん)のたぐひ,他にをとらじと粧ひかざりて,客をまふく」 ここには,単に接客のための座敷飾りの一部と して屏風をしつらえるのではなく,他家と競合 して,積極的に屏風を飾り立てている状況があ りありと見てとれる。安永6年(1777)の『太 祇句選後編』にある次の一句は,こうした屏風 祭りの活況を詠んだものである。「まつりの日屏風合(あわせ)の判者かな」 これらから,17世紀末から18世紀前半ころに宵 山が賑やかさを増し,以降,屏風祭りも盛んに なっていったことがうかがえる。
 祇園祭りの宵山のみならず,一般に夜間の行 事は,このころを境にして賑やかさを増していくようである。祇園祭りの期間に合わせて行わ れていた四条河原納涼も,享保年間末ころ(17 30年代)から納涼床(ゆか)だけでなく見世物小屋など で賑わうようになる。また,角屋をはじめとす る京都島原の店々も,享保10年(1725)までは昼 間のみの営業であったという。
 司馬遼太郎氏が『菜の花の沖』の冒頭に記す ように,この時期,技術革新などにより菜種油 の大量生産が始まり,それが安価に流通するよ うになる。菜の花畑の広まりとともに,明かりをともす菜種油が増産され,都に夜の華が咲く。 屏風祭りもまた,その大輪の華の一つだったのである。

(成安造形大学助教授)