火にかかわる祭りは、霜月から小正月にかけて行われる「冬の祭り」と、盆行事にかけて行われる「夏の祭り」に、大きく分けられる。火は古来から神聖なものとして取り扱われており、火に対する畏怖の念は信仰の対象として、さまざまな祭祀祭礼に大きな影響を与えてきた。京都に残る火祭りにおいても、さまざまな形のものが現在受け継がれている。ここではおもに「大文字五山送り火」「広河原松上げ」「鞍馬火祭」「岩倉火祭」について触れてみたい。
 さて「大文字五山送り火」「広河原松上げ」「鞍馬火祭」「岩倉火祭」は、現在京都市の無形民俗文化財に登録されている。古来より地域に残った宗教行事ではあるが、年間における生活の慣習として市民生活のなかに深く溶け込み、そして現在に至っている。いわば文化遺産として位 置付けられる性格のものである。  この火にまつわる祭典のなかで、とくに「大文字五山送り火」は全国的知名度を有するもので、今年に限っては21世紀京都幕開け記念事業として、大晦日に五山の送り火が行われようとしている。ではまず最初に「大文字五山送り火」から順にみていきたいと思う。ちまたに知られているように、五山送り火とは「大文字送り火」「松ヶ崎妙法送り火」「船形万燈籠送り火」「左大文字送り火」「鳥居形松明送り火」の五山をいう。そもそものいわれについては、正確なところは不明なれど、現在の形容をなすようになったのは、近世初頭のことと考えられている。なかでも如意ヶ嶽の大文字は壮大で、17世紀中頃作成の絵図においても、しっかりと描かれている。18世紀中後期の絵図によれば、全ての五山が描かれている。ところがこのなかで注目されるのは、「い」の字の存在である。「い」の字も絵図に大きく記されており、当時より六山送り火が慣例となっていたことが知られるのである。

 では現在「い」の字は何故行われていないのだろうか。伝聞によると、同字は明治時代の初頭まで行われていたという。「い」の字はむかしより左京区の市原野(現在の静市市原町)の山中にて行われていた。近年の研究成果 によれば、標高約800メートルの地点に設けられ、現在の五山送り火を凌駕する規模であったという。ところが明治後期になると、「い」の字の山の前面 (南面)に位置する上賀茂山中の山木が繁茂し、市中の三条大橋付近などから文字が見えにくくなっていたというのである。かくして江戸時代から連綿と続いていた「い」の字は行われなくなってしまったのである。
 さて五山送り火は毎年8月16日に行われているが、過去においては豪雨のために2日間延期(大正時代)したこともあり、さらには臨時に催されたこともあった。たとえば明治28年5月には日清戦争終決を期に「祝平和」の文字を点じたことや、明治38年6月には日本海海戦勝利祝福のために、また同年11月には同海戦に大役を成し遂げた東郷元帥凱旋祝福のために大文字が点火されている。昭和に入ってからも臨時に点火されていることが知られている。かかる政治的要因になる大文字の点火は、大きく時代の思想をあらわしている。本来もつ意味や意義をよく周知して、理解のうえにたって行いたいものである。

 次に「広河原松上げ」をみたい。広河原松上げは、8月24日に左京区広河原において行われる柱松行事である。柱松行事とは、柴草等でつくられた柱状のものを仕立てあげ、その先に点火するといった行事で、精霊供養のためのものである。全国にはさまざまな形態の柱松行事が残っている。広河原の場合は、トロギと呼ばれる柱松の形状に特色があり、点火後には江洲音頭やヤッサ踊り等が行われる。
 次に「鞍馬火祭」をみたい。これは10月22日に左京区鞍馬の由岐神社の祭りとして行われる火祭りである。本来は神輿や鉾等がその中心であったが、次第と松明が巨大化して、松明行事としての現形になったと考えられている。鞍馬の場合は、松明の製作や祭りを担う大惣仲間等の組織に特色がみられ、祭祀組織の古態を残している。
 次に「岩倉火祭」をみたい。これは10月23日に近い土曜日に左京区岩倉の石座(いわくら)神社で行われる松明行事である。この祭礼は旧岩倉村6か町から構成される宮座によって執り行われている。祭りの当日には、各町の頭屋宅から小松明や神饌等が神社に運ばれ、神事ののち境内に置かれた二基の大松明に点火・献饌される。当火祭りも祭祀組織の古態を残している。以上、火祭りの事例四件について紹介した。

 各火祭りは、それぞれにおいて特色を有しており、京の火祭りの特徴を考えるうえでの好事例といえよう。類似した形態をもつ火祭りは他にも散見されるが、これらも合わせて火にかかわる祭りが、市民にとっていかに重要な信仰の世界であったかを再認識することが大切であろう。

 

(京都市歴史資料館主任)