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| 庭の多様性と生活様式 |
生活階層ごとに育まれた庭園の特色 |
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京都は、1200年以上もの間、絶えることなく継続してきた世界的に見ても希有な都市です。その長い歴史の中では、様々な階層の人々が隆盛を繰り返しながら、それぞれの特色のある暮らしを育んできました。今日、生活階層は平準化の一途を辿っていますが、そのような中でも京都では、現在も歴史に裏付けられた階層ごとの特色ある文化が様々なかたちで守り続けられています。 一般的にこうした生活形態ごとの特色は、生活様式として分類されることが多く、京都では「宮家」・「寺社」・「町家」といえば馴染みがあると思われます。生活階層ごとの文化といえば、もはや現行の生活形態とは切り離され、形骸化した遺物のようですが、京都では、今もなお独特な形態と活きた風趣が保たれています。そして、それはもちろん庭園においても例外ではありません。 「宮家」・「寺社」・「町家」の庭といえば、誰でも漠然とした印象をお持ちでしょうし、具体的な姿形を想像できるかもしれません。庭を生活様式で分類するのは、庭を理解する上での手助けになる一方、固定観念が生じ庭の多様性を覆い隠してしまう可能性があります。例えば、同じ寺院の庭であっても本山の庭と塔頭や子院の庭とでは,形態が似通っていたとしても規模や性質が違いますし、同じ宗派の庭でも市中に位置するのと山中に位置するのとでは,趣旨も風趣も違ってきます。また、成立事情から「町家」の庭よりも「宮家」の庭の方が豪華であるとしても、魅力という点においては、比較対象にはなりませんし、「宮家」の庭には、「町家」の庭のような限られた敷地規模での創意工夫はありません。 庭造りでは、それぞれの庭が造られる上で様々な生活の要請と立地を踏まえられており、いわば独特な形態は、それら諸条件が結実したものといえます。つまり生活階層ごとに生じる庭の形態の違いとは、すなわち生活環境の違いといって差し支えないでしょう。庭の個性や特質を見定める上で重要なのは、かつて庭がどのような経緯で造られてきたのか、その時代背景を踏まえてみるということです。今日でいうところの文化財庭園も、そもそもは生活のそばにあったものです。おそらく、それぞれの庭が、歩んできた戦乱・安定・変革といった時代の息吹を今に伝えているに違いありません。まずは、今日の私たちの常識や生活観から離れ、庭が造られた時代背景に思いをはせながら,ゆっくりと時間をかけて庭に目を慣らしてください。そして、現在の忙しい時間の流れから解き放たれた時、きっと庭が身近なものに感じられるでしょう。 本文では、「宮家」・「寺社」・「町家」という生活様式を通して、庭の特性を発見するための手がかりを、生活階層の構造や性質の違い及びそれらの関係性から紹介します。 |
宮家の庭 |
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一般的に「宮家」という言葉から連想される庭といえば、京都御所・仙洞御所や桂離宮・修学院離宮などではないでしょうか。これらは、訪れる人の心を奪うに十分な魅力をかね備えており、今もなお強く「宮家」の風雅を感じられる庭として不動の地位を保っています。 ところで、当然のことながら上記の庭は、かつて皇族が造営したほんの一握りでしかありません。かつては、もっと多くの「宮家の庭」が存在したはずです。では、「宮家」とは一体何を指しているのかについて整理をしてみましょう。 まず、『広辞苑』によれば宮家とは「@親王・法親王・諸王及び門跡などの御家。A皇族で官号を賜った家。終戦前十四家あったが,現在は、秩父、高松、三笠、常陸の四宮家。」とあります。この定義にしたがえば、京都御所・仙洞御所は宮廷(天子・国王のいる場所。禁中。禁裏。皇室)の庭ですので、正確にいえば「宮家の庭」ではなく,さらに修学院離宮も後水尾上皇が晩年に経営した庭であるため、どちらかといえば「宮廷の庭」になります。したがって厳密にいえば「宮家の庭」は、八条宮家の別荘である桂離宮の庭だけということになります。ただし桂離宮は、「別業の庭」に類するため、宮家の生活と庭の有り様を今に伝えるものでありません。 京都には、今日も引き続き経営されている公家の住まいは冷泉家しかありません。なお、冷泉家の庭は近年の建物の修繕のさいに改修されたものです。わずか百年前には、御所の周辺にはたくさん公家の邸宅が存在しました。しかし明治2年(1869)に天皇が東京に移られたのに伴い、多くの公家たちも次々と後を追っていきました。現在の京都御苑は、かつて皇族や公家が住んだ屋敷町の遺構であり、御所の周辺は天皇の東京行幸の数年のうちに荒廃の憂き目にあいました。このような状況下、宮家の住まいに造られた庭が現存するのでしょうか。 明治5年(1872)以来、5年ぶりに京都に戻られた天皇は、御所周辺の有様を憂慮され、明治10年(1877)2月に「大内保存」の御沙汰を伝えられました。これにより、現在に続く長方形の皇居区画が設定され、御所周辺の保護がはかられることになりました。今日、京都御苑は国民公園として市民の憩いの場となっていますが、その敷地内には廃絶した「宮家の庭」の幾つかが今もなお姿形を留めています。意外と知られていないこれらの庭は、もはや遺構ですが、一部整備されているものもあり、宮家の優雅さを感じ取ることができます。 さて、確かに宮家の庭は現存するのですが、残念ながらそれらは現役で存続している庭とはいえません。少し見方を変えてみましょう。冒頭に触れた「宮家」の定義を用いれば、門跡寺院や尼門跡寺院の庭が「宮家の庭」といえます。門跡寺院は皇族との結びつきがとても強く、経営され続けていることからも、最も「宮家の庭」の風趣を現在に伝えているといえるでしょう。 |
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寺社の庭 |
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現在、京都市にはおよそ4,800件の寺社(神社1,770件,寺院3,030)が存在します。後に述べるように、現在の神社には庭がない傾向がありますが、仮にこれら寺院の半数に庭が存在するとすれば、それらを一つの生活様式に分類するのは、事実上できません。文化財に指定されている庭園の多くが寺院に付帯するものであることからも、寺院はまさしく庭の宝庫であり、京都の庭園文化の根幹を支えているといえます。これまで京都市の数多くの古庭園がわずかな改変のみで維持されてきたのは、ひとえに寺院が並々ならぬ努力で維持されてきたからです。 ところで、寺社といえば寺院と神社の双方を指しますが、寺院では数々造られている庭は、なぜ神社の中には見られないのでしょうか。その詳しい理由は明らかでありませんが、慶応四年(1868)の神仏分離令の発令以前は、神社の境内内にも庭が築かれていた例があります。なお,それらは併設された寺院のものだったようです。また下鴨神社には、およそ庭といえるものではありませんが、発掘調査により平安期の流路が検出されています。 神社には明らかに庭園といえる空間は見あたらないものの、その神社に仕えた神官ら(社家)の住まいには庭が造られていたようです。現存する社家の庭のうち、上賀茂神社にはかなりの数が残されています。これらの庭にはそれぞれ池が穿(うが)たれていますが、これらはどちらかといえば幅の広い遣り水といったもので、溜まり水というよりは流水です。しかもその水は、己が仕える神社の境内から流れ出た水を取り入れており、一旦敷地内に入った水は、宅地の前を流れる明神川を経由してすぐ隣宅へ注ぎ込むといった仕組みになっています。それぞれの宅地内の流水際には、必ずといって水辺に降りる小さな階段が設けられています。これは、朝、神官らが出仕する前の清めのために用いたものといいます。神社から流れ出た聖なる川を居宅に引き込み、さらにそれを清めのために用いるという、生活に密着した庭の姿がありありと見えてくるようです。 さて、寺院の生活は宗派の違いにより様々であり、思想的な側面からも、積極的に庭を造る宗派もあれば、それほど関心を示されない宗派もあるようです。ここで宗教思想から庭の形態を分析することは到底できませんが、例えば文化財庭園を多く抱える臨済宗の庭と浄土宗や浄土真宗の庭とを比較すれば、片や枯山水を中心として、一方は池庭を中心にするなど、漠然と趣向の違いを感じ取ることができます。厳密に宗教思想と庭の形態との関係を分析するのは困難ですが、庭の多様性を探るという側面では、これからの研究が待たれます。 また寺院と権力との結びつきという点に着目するのも興味深いところです。例えば、醍醐寺三宝院庭園では、豊臣秀吉が縄張りを行ったといわれ、一方,西本願寺の滴翠園庭園は、聚楽第から飛雲閣という建物を移設した際にその園地として造られたと言い伝えられています。ここには,今日の私たちが思い描いている生活様式とは異なる、入り交じった生活階層のやりとりがみられます。 前項にて述べたように、門跡寺院や尼門跡寺院に着目すれば、寺院の庭は更に広がりをみせます。例えば、江戸時代初期の京都では、後陽成、後水尾をはじめとする天皇の連枝・子女が門跡・尼門跡となった寺院が多数にのぼり、また開創されています。こうした門跡・尼門跡の存在が後水尾を中心とする宮廷文化(寛永文化)を特色づけたという事実からいっても、宮廷や宮家と寺院との間の親密な関係が,庭において影響を及ぼしていたことを想像させます。 |
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町家の庭 |
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庭造りには、まず造る時点で多くの投資と、さらにその安定した経営に当たっては、庭造りにかかった費用に匹敵する、またはそれ以上の維持管理のための費用を必要とします。したがって文化財庭園の存在は、その施主の経済基盤が相当しっかりしていたのとともに、施主には庭園を維持するための相当の覚悟があったことが知られます。 京都では、応仁の乱のあたりを境に、町衆と呼ばれる庶民階級に力が付いてくるにしたがって、造り込まれた庭が庶民の間でも造られるようになったようです。 なお、町家の庭といえば、ウナギの寝床といわれる立て込んだ敷地の中に建てられた建物に付帯するものですが、町衆の庭といえば、茶の湯の千家の庭も対象になります。茶の湯の庭はともかく町家の庭は、宮廷や寺院の庭のように、造られた経緯やその後の変遷などが知られていません。町家の庭の学術研究は、建築学や民俗学の分野でなされているものの、町衆の暮らしに密接した日記や工事見積もりなどの資料に基づいた、庭園学による研究が待たれます。 町家では、小さな庭をいくつも内包しつつ、明から暗へ、そして暗から明へと部屋の展開がはかられています。このような明暗の変化は、部屋と部屋との間に、間仕切りだけでは実現できないメリハリをつけるともに、限られた敷地を広く感じさせるという効果を生みます。明暗の取り扱いにより、人の空間知覚に錯覚を与えるという効果は、町家の庭に限らず、庭造りにおいて広く用いられています。ただし、町家の庭における明暗の取り扱いは、散在する坪庭と家屋との関係やより細やかな樹木の手入れを必要とする点で特殊といえます。 町家の造りは、いわば積層的であり、「坪庭」と称する小さな庭が、間口が狭く奥行きが深い敷地内に散在します。これは町家の間口が狭いという敷地の制約から、生活の場を奥へとのばしていかざるを得ないための工夫によるものであり、その中で庭は、採光や通風・換気といった生活の快適性において大切な役割を担っています。さらに、外部から遮られ余剰が少ないという立地条件の中に樹木を植えることで、天候の変化や季節の移ろいを感じさせてくれます。 坪庭に植えられる樹木は、落葉広葉樹のように葉を大きく茂らせるような種類のものは避けられます。マツなど主木となる樹木をのぞいては、日当たりや風当たりの好ましくない環境でも生育できる草木が選ばれています。例えば、町家にて好んで用いられるモッコク・アセビ・アオキなどは、山の暗がりに自生する樹種です。これらは、生命力はもちろん、枝振り、剪定にあたっての耐性など、様々な側面における適正により採用されているようです。庭内の日当たりや風当たりに対する配慮として、「透かし」や「葉むしり」といった繊細な手入れが行われています。 |
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参考文献 中村一 「宮廷の庭」『庭園学講座\ 宮廷の庭』平成14年,京都造形芸術大学,日本庭園研究センター 『京都の社寺』平成15年,京都府文化財保護基金編,淡交社 日向進 『近世京都の町・町家・町家大工』平成10年,思文閣出版 |
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