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生(なま)の庭の姿 |
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街全体に庭が溢れている京都,これほどたくさんあるにもかかわらず,どれ一つとして同じ風趣のものはありません。たとえ似たような雰囲気は感じられても,どこか漂う気配が違う,そのような経験をしたことはないでしょうか。もしあなたがそんな覚えはないとすると,もしかすればあなたは庭に足を踏み入れていながら,庭を見ていないのかもしれません。 たくさんある京都の庭を理解するには,まず枯山水や回遊式といった様式や公家や大名の園などといった分類をし,さらには灯籠や竹垣,庭の石組みなどの構成要素に着目するのが近道といえるでしょう。また,庭が造られた背景などを知るのも一つの手かもしれません。今日では親切なことに,庭の中に案内板や地図が設置されている場合が多いので,庭の特性や見所を事前に知り安心して楽しむことができます―といったフレーズはごく一般的な庭の見方です。しかしこのような見方は,一方で庭を体験する前に先入観を植え付け,生(なま)の庭の姿を覆い隠すおそれがあると考えられます。たとえば様式上同じ類に属する庭であっても,所有者や維持管理を行う職人,立地条件などが異なれば,風趣に違いが現れるのは当然ですが,はじめから同一の様式であることを前提にすると,所有者の好みや職人の癖,湿気や風通しなどには思いが及ばなくなります。なぜこのような事態を招くかというと,私たちには知的好奇心が満たされると途端に関心を失い,感覚的に対象をとらえることができなくなるという側面があるからです。さらにいえば,庭の中での現象を知識情報として頭に詰め込めば詰め込むほど,庭を訪れることが情報の確認作業だけになってしまうのです。 たしかに庭を楽しむには,事前の情報があるほうが楽しみの幅が広がるには違いありません。植物や石造物の名称を知っていれば,友人との話はさぞかしはずむでしょう。ただし,庭を歩いているなかで感じられる,明るさや暗がり,まぶしさや肌寒さ,緊張感や安らぎなどといった情緒的な感情はどのように友人に伝えればよいのでしょうか。またこれらの感情は,なぜそのように感じることができるのでしょう。後に触れますように,上記の感情を引き出しているのは,ひとえに庭園の所有者をはじめとする庭を守り続けている人々の情熱と努力であり,私たちはそれを知らずして,うつろに庭を歩き回っているという側面も否めないのです。 本文ではこれから庭の維持管理の実態を通して,生(なま)の庭の姿にせまってみることにします。 |
静かに躍動する庭 |
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時として庭を語る上では,「庭造りが四分で維持管理が六分」であるといわれることがあります。素直に考えれば庭に植物は付き物であるとはいえ,やはり庭は造られたものなのだから,造る方に多く力が注がれてしかるべきであると思われます。それにもかかわらず先の表現では,庭は造ることよりも維持管理により重点を置く必要があると受け取れます。さて,なぜこのような言い様がなされるのでしょうか。 まずここでは,私たちの国の庭が置かれている事情について考えてみることにしましょう。私たちの国の気候風土は,わずかのあいだ空き地を放置するだけで樹木にはふさふさと枝葉がつき,背丈ほどの雑草が敷地の全面をおおってしまうほど旺盛です。それゆえ,どれほど贅を尽くし,技巧を凝らして造られた庭でも,一年間剪定や草むしりを怠るだけで,色あせてしまい,さらに五年も放置していれば庭の輪郭は曖昧になり,十年もたてばそれまでの風趣は失われてしまいます。これは,百年以上ものあいだ脈々と手入れがなされてきた庭であっても例外ではなく,維持管理を再開しても,以前の風趣を取り戻すことは至難の業といえるでしょう。 こうした植物の生長のはやさを如実に表している例としては,京都御苑の大樹林があげられます。これらの木々は明治維新のあと一斉に植えられたもので,百数十年あまりのあいだに巨木へと成長しています。木々の生長は私たちが思うよりもよほど早く,そして力強いものです。意外と見過ごしがちですが,植物の根の力はとても強靱で,庭の石組みを押し上げ,園路や腰掛け待合いの三和土(たたき)を破壊し,場合によっては土塀を倒してしまうことさえあります。庭の荒廃を招くのは何も植物だけではなく,見逃せないのが水の力です。池の水の出入りといった微弱な力の作用でも石組み護岸は崩壊に導かれ,雨水は園路や築山を痛め,ひいては庭の地割り全体の弛みを招くおそれがあります。さらにいえば,池に住む魚やザリガニといった生物が護岸に深刻な影響を与えることすらあります。 以上のように私たちの国の庭は,旺盛な気候風土の恩恵にあずかりながらも,その反面つねに森羅万象が及ぼす力によって身体をむしばまれているといえるでしょう。庭の荒廃は全体にまんべんなく進行するので,目に見えて姿形の変化が伝わってきませんが,庭はつねに躍動し変容しています。荒廃と再生を繰り返すことを運命付けられている私たちの国の庭は,絶え間ない人の手による加護が必須であるという点で,維持管理の重要性が説かれるのはたしかに妥当なのでしょう。 ところでこの「庭造りが四分で維持管理が六分」という言葉は,たんに日々生長する木々や弛んだ石組みを修復し,庭の状態を一定に保つことを主眼にしているわけではありません。庭は時勢やその時々の所有者の好みや都合により造り替えられることが少なくありません。また,先ほどの植物や水などの影響以外も天変地異などによって,庭はつねに姿形が変わりやすい状態に晒されています。したがって庭の完成とは,絵画や彫刻などのように姿形が一定に横たわっている状態ではなく,絶えることのない維持管理(手入れ)の始まりを告げているとともに,庭の風趣を育む契機であると言い替えることができます。このように何気なく行われているように見える剪定・整枝や掃き掃除,草むしりなどといった維持管理は,本来庭造りと分けて考えることのできない一連の創造行為なのです。 |
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これまで庭の維持管理の重要性を述べてきましたが,何もやみくもに隅々まで行き届いた手入れをしなければならないわけではありません。維持管理の程度は,庭の沿革や生活のありよう,所有者の好み,立地に即して変化するもので,それは文化財の庭であっても例外ではありません。また庭の手入れの仕方一つをとっても,野趣味にあふれた雰囲気や落ち葉一つない整然とした状態など,それぞれの庭の風趣に合わせて使い分けられます。それゆえ庭の維持管理を行う者には,各々の庭が置かれている状況を見極め対処できるだけの見識と力量が求められているといえるでしょう。 ふだん私たちが庭を訪れるとき,このような庭の手入れに対する配慮などに気付くことは希ではないでしょうか。おそらくそれは私たちの庭を見る姿勢が,樹木や石などといったモノや説明版や地図といった情報といった「目に見えるもの」ばかりに向いているからです。実のところ庭を見るという行為には,庭の維持管理を行っている所有者や職人の所作及び考え方といった「目に見えないもの」を感じ取るといった次元があります。 庭の風趣とは,自然に発生するもしくは漠然と手入れをしていれば醸しだされるといった恣意的なものではありませんし,うつろに庭を歩いていれば感じ取ることのできるものではありません。庭の維持管理に携わる者は明確な意志をもって,また庭を訪れる者は庭全体にちりばめられた手入れの痕跡を想像することによって,有機的な庭の風趣をまとまりあるものとして認識することができるようになるのです。 しかし困ったことに「目に見えないもの」を見るというのは,雲をつかむようなものでどのような手段を講じれば可能なのか,見当がつけられないのではないでしょうか。以下,庭の維持管理に携わる職人の言葉づかいの考察をもとに,「目に見えない」庭を概観することとします。 |
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