「庭と水系」―水系に属する庭園たち
水系による庭園のネットワ−ク

 多くの庭では,実際の有無に関わらず,水が表現されています。枯山水など,擬似的に水を表現する場合は,水条件に配慮する必要はありません。しかし,実際に水を用いるのは容易ではありません。庭で水を用いるには,湧水か井戸水を使う以外には,何らかの水系に依存せざるを得ません。また取水された水は,必ず排水する必要があります。つまり,当然のことながら,ポンプによって水を循環するか,下水道に排水しない限り,庭から排水された水は某かの水系にたどり着くことになります。このような水系に依拠した庭の水の供給は,常に安定しているとはかぎりませんし,依拠している河川が大水にあえば,たちまち園池はあふれてしまいます。
 観光などで庭を訪れる際にはそれほど気にならない水事情も,所有者の方々にとって,庭の給排水といった管理行為は,想像以上に大変なものといえます。
 個々の庭をみる場合においては,庭に水が導入され滝や流れを通じて園池に達し,排水されるまでの過程は,ほんの短い間です。しかし,私たちが目の当たりにする庭の水は,園池に至るまでにも長い道のりを経ており,さらに排出された後に,別の庭へ伝わっている場合もあります。このように水の出入りを通じて庭をとらえてみると,一見それぞれが独立しているように見える庭も,実は水系を軸に依存関係にある,という事実が浮かび上がってきます。
 かつて,京都には湧水や水系に依拠した庭がたくさん存在しました。近年の埋蔵文化財の発掘調査は平安時代の庭の多くで水が用いられたことを明らかにしています。特に今日のように重機や掘削機械がなかった頃では,庭に水を引くとなれば水源の確保だけでも相当の困難を極めたことが想像できます。また,かっては水系に依存していた庭でも,引水を断たれたために,ポンプで井戸水を汲み上げ,さらにその水を何度も循環して用いている所も少なくありません。水系を用いることができなくなった理由は諸所様々ですが,その一つには河川の水位が下がるなどの環境の変化があるようです。それぞれの庭の水事情を紐解いてみれば,生活形態の変化から環境の変化までを概観できるという点においても庭と水との係わりは興味深いものです。
 ここでは,庭に取り入れられている「水」の取水と排水に着目し,水系を通じて庭が繋がり合っている例を紹介しています。今回取上げた水系は,明治23年(1890)開通の「琵琶湖疏水」と賀茂別雷わけいかづち神社(上賀茂神社)の境内を走ることで知られる「明神川」,そして賀茂御祖みおや神社(下鴨神社)の境内を巡ることで知られる「泉川」です。京都市内を巡る水の流れによって繋がり合っている庭の有り様を紹介します。

琵琶湖疏水系に属する庭園たち
琵琶湖疏水の沿革

 明治14年(1881)当時,京都府知事であった北垣国道は,京都に隣接し水量の豊かな琵琶湖に着目し,双方の間に疏水を開削することにより,琵琶湖と宇治川を結ぶ舟運を開き,同時に水力,潅漑,防火などに利用することによって京都の産業を振興しようとしました。
 この疏水計画は,京都府民および近隣の滋賀県民,大阪府民から種々の反対も出ましたが,明治16年(1883)工部大学(現東京大学工学部)を卒業したばかりの田辺朔郎が疏水工事の御用係となったことで軌道にのりました。
 水量観測,高低調査,設計作業などの後,明治18年(1885)6月2日に疏水工事の起工式が行われています。工事は決して容易ではありませんでしたが,田辺技師以下工事関係者の熱意,努力により竣工し,明治23年(1890)3月14日には疏水開通式が行われました。

庭園の水源として見た琵琶湖疏水

 庭に水を安定して供給することは,古来より困難とされてきました。その中でも平安京は例外的に,水の清らかさ,水量の豊富さを誇り,大がかりな導水施設が不要であるという点で理想的な水源をもっていました。今日では,埋蔵文化財の発掘調査の成果から高陽院かやのいん,鳥羽殿等,近年では,京都市立西京商業高校の敷地内から発見された斎宮に関連した邸宅跡や史跡旧二条離宮内の冷泉院などから平安期には満々と水を湛えた庭が多く存在していたことが明らかになっています。この平安京の湧水よりも,さらに安定して水を供給できる水源として登場したのが,琵琶湖疏水でした。
 湧水の場合,環境の変化により,時として枯渇することがありますが,疏水の水を用いれば琵琶湖の渇水をのぞいてその心配もありませんし,常時必要なだけの水量を確保することができます。さらに,水は鉄管で導かれるので,異物の混入もありません。以上のように疏水は,園地の水源としてはまさに画期的なものであったといえるでしょう。
 では,この琵琶湖疏水は,どのようにして園地の水源として利用されるに至ったのでしょうか。


琵琶湖疏水を利用した庭の確立

 この豊富で安定した琵琶湖疏水の水源を利用して,多くの庭をつくり,独自の流れを中心とした意匠を展開したのが七代目・小川治兵衛(屋号は「植治」)です。
 小川治兵衛が手がけた庭の多くは,疏水の水を利用しやすい旧南禅寺境内の南端地域が中心でした。明治維新ののち,南禅寺の境内地のほとんどは上地され,その土地所有は,はげしく揺れ動いていました。かつての南禅寺の境内域を知る痕跡としては,惣門が「無鄰菴庭園」の西側,数百メートルの所に今も姿を留めています。
 この頃の京都は,明治維新の気運をそのままに,人心の動揺も落ち着き,琵琶湖疏水の竣工,間もなくひらかれる平安遷都千百年記念祭と第四回内国勧業博覧会の準備でわきたち,水力発電による日本初の市街電車が走ろうという時勢でした。「平安神宮神苑」は,この平安遷都千百年記念祭協賛会の造営事業として築かれたもので,岡崎公園は,第四回内国勧業博覧会会場跡,約8.3ヘクタールばかりに造営されたものです。
 この広大な旧南禅寺境内地に目をつけたのが,塚本与三次という人物であり,「織寶苑の庭」は,かつての彼の自邸です。京都市は,明治28年(1895)の第四回内国勧業博覧会開催を期に,疏水沿いの地域をふくむ東山一帯の風致保存と宅地化という方針を打ち出していました。また,疏水建設のおもな目的であった舟運・動力・潅漑等のうち,当初,動力源の使用を目的とされていた水車は,田辺朔郎の考案による水力発電の実現によって,ほとんどその価値を失っていました。もともと不動産を業としていた塚本は,南禅寺界隈の別荘地開発に着目するとともに,いまや,利用価値が落ちていた疏水周辺の水車の権利,つまり疏水の水利権を京都市から買い取ったといわれます。小川治兵衛も早くから水車業者と水利事務所との間に立って水利用の交渉をしていたようですが,東山を背景に豊富な水の流れを用いた庭園を手がけると言う彼の構想をかなえるには,塚本の力が必要でした。事実,小川治兵衛の円熟期は,若き実業家・塚本与三次との出会いから始まるともいえ,碧雲荘の庭,怡園の庭等の園池に十分な水を湛えるに至りました。彼の庭造りの領域は,南禅寺界隈における別荘地開発の進展と共に,飛躍的に広がったようです。
 以上のように,琵琶湖疏水の庭への導水は,水力発電の出現による水車の価値の低下によって用途変更された副産物と見ることができます。しかし,それは偶発的になされたのではなく,東山一帯の風致の保存,南禅寺近傍の別荘・宅地化という行政の意図を機敏に察知した塚本与三次や小川治兵衛らの先見の明によるものといえるでしょう。また,こうした用途変更によって,疏水の水が防火用水の名目で池泉に利用される道をひらき,さらに第四回内国勧業博覧会会場に設けられた噴水や池泉のように,人々の心を和ませるための利用や,円山公園への導水のような修景的な利用など,疏水の水の多元的な用い方が見いだされてきました。
 こうして,琵琶湖疏水が第一回,二回とその機能を充実していくごとに,疏水の水は,次々と庭園へと導水され,毛細血管のように京都市北部を行き交う琵琶湖疏水の水系を礎とした,一大庭園ネットワークが形成されてきました。
 現在もこのネットワークに依拠している物件は,実に国指定名勝で4件,京都市指定名勝で4件にのぼります。
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泉川水系に属する庭園たち
泉川の概要

 泉川は賀茂御祖みおや神社(以下,下鴨神社と称する)の境内,糺の森の中を流れる小さな川です。この川は,同じく糺の森の中を流れる御手洗川とともに鎌倉時代の原図をもとに,室町時代に描かれたとされる「賀茂御祖神社絵図」に登場します。また今年,平成2年から4年にかけての発掘調査をもとに,整備されてきました平安期流路が復元されました。
 下鴨神社の境内は,賀茂川と高野川が合流し鴨川となる三角点の北側に位置します。かつて湧き水を水源としていた御手洗川は,賀茂川と高野川の河床を掘り下げたことよる水位低下が原因で枯れてしまいました。しかし,泉川は高野川を水源としているので,今日も豊かな水量を湛えています。
 明治38年の「鴨御祖神社境内図」によれば,今日も馬場の中央西側に残る糺池跡が神宮寺の園池の名残のように見えますが,調査はなされおりません。泉川に依拠する庭は,主に松ヶ崎と下鴨神社周辺に現存します。
 泉川が流れる経路は,まず左京区の宝ヶ池公園子供の楽園入り口付近の高野川から取水され,北山通北側の松ヶ崎周辺を西に進み,大文字の送り火で有名な「妙」「法」の傍を通りながら,宝ヶ池公園球技場のあたりを南に下り,多少屈曲しながら下鴨神社に至ります。糺の森を通り抜けた後,河合橋の北でふたたび高野川に放流されます。したがって,泉川は,高野川の支流と見ることができます。
 松ヶ崎周辺の泉川の流路は,明確な年代は特定できませんが,人の手によって造られた人工の水路であると考えられます。泉川は,宝ヶ池公園球技場のあたりを南下する辺りで疏水分線と交差し,流水を太らせていきます。この東西に流れる疏水分線は,さらに西に進んだ京都府立大学付近で明神川と合流します。つまり,直接ではないものの,ここで取り上げている3つの水系は,疏水分線を介して関連性を持っているということになります。南北の流れとなり,下鴨神社境内に入ってからの泉川は,賀茂川と高野川の扇状地の間にできたせせらぎとなります。その清らかな流れは,訪れ見る者をあたかも深い山奥に入ったような感覚にさせます。
 現在の泉川は,人工の水路と自然の川がひとつになって形成された川でありますが,その歴史は下鴨神社の歴史とともに,とても古いものです。
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明神川水系に属する庭園たち
明神川の概要

 明神川は,下鴨神社とともに「葵祭」で知られる賀茂別雷わけいかづち神社(以下,上賀茂神社とする)の境内から流れ出て,境内付近に建てられた社家の家々の前を流れる川として有名です。境内の周辺は,地形が平野から山にかかるところで急激に変化していることから,古くは賀茂川の河川敷であったと考えられます。この川の水源は賀茂川であり,現在の取り入れ口は堤防などの建設の影響で,上賀茂神社境内北端から900m足らず上流にある明神井堰にあります。かって現在のように堤防がなかった時は,境内の北隅あたりに取り入れ口があったと予想されます。
 上賀茂神社境内の中を流れる水流は,流れにしたがって名前を変えていくことで知られています。まず,賀茂川の明神井堰から取水された流れは,上賀茂神社本殿のそばでは,御手洗川と呼ばれます。一方,上賀茂神社の北東部,丸山と小丸山の間を通る蟻ヶ池からの流れと,小丸山の東側に位置する小池からの流れは,境内に流れ込む直前で合流し,御物忌おものい川という名で本殿前を通過します。これら二つの流れは本殿下流で合流し,橋殿をくぐると今度はならの小川と呼ばれるようになります。さらに楢の小川は境内を南に流れでると,今度は明神川と名前を変え,藤ノ木通りの南側を流れ,主流は東に向かって進んで行きます。その間に水流は幾つも分岐し,多くは農業用水として用いられています。無論,かつては生活用水としても利用されてきたと考えられます。
  図面などからお気づきの方も多いかと思われますが,地形の起伏から考えると,明神川の流れには不自然な点があります。というのも,明神川の進行方向は,西から東であるにも関わらず,上賀茂神社境内の南面に位置する内川橋の東に,北側の山から続く低い尾根筋が南へと走っているからです。水流は,高いところから低いところへ流れるのが常で,本来なら明神川の流れは尾根伝いに南に進むところですが,実際は,その尾根の起伏を越えて東へ流れていることになります。これは何故でしょうか。
 周知の通り,京都市の北部は三面を山に囲まれ,西から賀茂川,東から高野川がそそぎ込み,双方の川は出町柳の辺りで合流し鴨川となります。いわば平野部は,Y字型に流れる川で三分割されており,その北側の一角の突端に下鴨神社境内が位置し,そしてその北西部が上賀茂地域になります。上賀茂地域の南側は,かつて上賀茂神社の社領として上賀茂を支えた農地であり,賀茂本郷と呼ばれます。明神川は,この地域を枝分かれしながら縦横に流れ,今日も農業水路としての役割を担っています。賀茂川と高野川に囲まれた一角の平野部は,地形的に慢性的な水不足の地ですが,西半分に関しては明神川のおかげで,比較的深刻な水不足は少なくすんでいました。しかし,東半分の地域は,高野川からの分水について他の地域とよく水争いがあったようで,江戸時代には奉行所への訴えの記録も残されています。こうした水事情からもわかるように,実は明神川は人の手によって開削された川のようです。ただし古い資料にも明神川について記されたものは見あたらないため,いつ頃開削されたのかは明らかではありません。とはいえ,今日見る社家町のたたずまいや,近年宅地化したとはいえ今もなお広がる農地を見れば,古くから生活と密接に結びついた川であることには違いないでしょう。
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引用・参考文献
「京都市の文化財 京都市指定・登録文化財集[記念物]」
田中正大『SD選書 日本の公園』(平成5年(第四刷),鹿島出版会)
尼崎博正『庭石と水の由来日本庭園の石質と水系』(平成14年,昭和堂)
尼崎博正「近代造園の総合プロデューサー・小川治兵衛」尼崎博正編『植治の庭』(平成2年,淡交社)
芹田彰「別荘庭園群の成立/岡崎・南禅寺界隈の展開」
『植治の庭』『庭園学講座X 日本庭園と水』(平成10年,京都芸術短期大学/京都造形芸術大学 日本庭園研究センター)
宇戸純子「泉川の現状と整備に関する考察 第1報」『京都芸術短期大学紀要「瓜生」』(平成3年,京都芸術短期大学)
宇戸純子「泉川の現状と整備に関する考察 第2報 泉川の水質について」『京都芸術短期大学紀要「瓜生」』(平成6年,京都芸術短期大学)
京都文化博物館学芸第二課 土橋誠・大塚治美編『京の葵祭展』(平成15年4月)
勝矢淳雄「上賀茂明神川にかかわる生活の今昔」『下水道研究 第13号』(2001,日本下水文化研究会)
村岡正「社家の庭園」『上賀茂町なみ調査』(京都市都市計画局)
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