U.京都が育てた巨匠たち
文:中川 理


はじめに

 明治維新の後,京都を産業都市として再興しようとしたいわゆる「京都策」は,成功したとは言いがたかった。少なくとも,近代工業は,京都の町には根付かなかった。しかし,岩倉具視ともみらの主張が奏功し,京都は,御所を持つ第二の「みやこ」として位置づけられ,戦前までは「三都」の一つとして,東京,大阪に並ぶ都市の「格」を維持してきた。
 そのため,西洋近代の建築物も,東京や大阪に負けない「格」を持った作品が数多く作られてきた。宮内省のいわば宮廷建築家である片山東熊かたやまとうくまが設計した京都国立博物館(旧帝室博物館・明治28年・重要文化財)や,明治・大正期の日本の建築界をリードした辰野金吾たつのきんごが手がけた京都文化博物館(旧日本銀行京都支店・明治39年・重要文化財)などの質の高さが,今でもそれを物語る。
 しかし,京都は,東京や大阪が作り出せなかった,独自の建築の質も獲得している。それは,戦前において京都を拠点として活躍した建築家が実現したものだ。その代表格が三人いる。




1.松室重光まつむろしげみつ

京都ハリストス正教会(明治34年)〔写真1〕


京都ハリストス正教会聖堂イコノスタス(聖障)〔写真2〕


京都府庁旧本館(明治37年)〔写真3〕





 一人目は松室重光(1873〜1936)。彼こそ,京都の西洋近代建築に,まさに京都らしい風格を与えた最初の建築家と言えるだろう。
 松室は,京都の出身である。松室家は,松尾大社の摂社・月読つきよみ神社の神官の家柄だ。第三高等中学校を経て,東京帝国大学造家学科(後の建築学科)で学び,京都府の技師として、京都に戻ってくる。
 当時の東京帝国大学造家学科は,日本で唯一の建築に関する官立大学教育機関である。そこを卒業するのは,日本の建築界を担うエリート中のエリートであった。だから,建築に関するあらゆる仕事を担った。松室が京都に戻った時は,おりしも,明治30(1897)年に古社寺保存法(文化財保護法の前身)が公布された直後である。そこで,彼の最初の仕事は、古建築の修理となった。
 しかし,もちろん,京都で誕生した初めての建築家となる松室には,しだいに近代建築の設計の仕事がまわってくる。その代表作となる二つの建築が,今でも残されている。
 一つは,京都ハリストス正教会聖堂(明治34年・京都市指定有形文化財)〔写真1〕。御所の南に今でも異彩を放つビザンチン様式の教会堂だ。ロシアで作成されたというイコノスタス(聖障せいしょう)〔写真2〕が飾られる静謐せいひつな内部空間は圧巻である。もう一つは,京都府庁旧本館(明治37年・重要文化財)〔写真3〕。こちらは,ルネサンス様式の堂々たる庁舎だ。
 二つの建物は,全く異なる様式の建物だ。京都府庁のルネサンス様式は,西洋建築として多様されるものだが,京都ハリストス正教会のビザンチン様式は珍しい。このようなわが国でも例の少ない様式でも,破綻なくまとめあげているところに,松室の技量の高さがうかがうことができるだろう。
 もう一つ特筆すべき点は,二つの建物とも,その後のプロトタイプとなったことだ。京都ハリストス正教会は,ハリストス正教会が全国に建てていく聖堂の原型となった。今でも,豊橋聖堂(大正3年・愛知県文化財)や白河聖堂(大正4年・福島県白河市文化財)など,この京都聖堂にそっくりな教会が残されている。そして,京都府庁も,府県庁舎のモデルとなった。ロの字型の平面で背面に議事堂を配した構成は,確かに,京都府庁以降の府県庁舎建築でポピュラーなものとなっていった。
 このように,松室が手がけた建築は,きわめて高い質を持ち,「京都発」の建築として、全国的にも価値を持つものであったのだ。もし,このまま松室が京都で活躍し続ければ,間違いなく,京都にあって日本を代表するような建築家になりえていたと思われる。
 しかし,残念ながら,京都府庁完成時に部下の汚職事件が発覚し,松室は京都を去ることになる。その後,彼は満州にわたり,関東都督府かんとうととくふ技師として,数多くの公共建築を設計し活躍した。




2.武田五一たけだごいち

1928ビル(旧毎日新聞社京都支局・昭和3年)〔写真4〕

時計台・京都大学本部(大正14年)〔写真5〕


順正・清水店(大正3年)〔写真6〕


京都大学人文科学研究所附属漢字情報研究センター
(旧東方文化学院京都研究所・昭和5年)〔写真7〕


藤井斉成会有鄰館(大正15年)〔写真8〕
 もう一人は武田五一(1872〜1938)だ。生没年でもわかるとおり,松室重光と全く同じ時代を生きた建築家だ。実際,東京帝国大学造家学科では,二人は同級生だった。 しかし、武田は京都に来てから終生,関西の建築界にかかわり続け,そこに君臨するボス的な存在になった。そして,彼こそが,近代建築デザインの世界に,まさに「京都 風」とも言える作風を作り出した張本人になるのだ。
 広島県福山市出身の武田は,東京帝国大学卒業後に同大学助教授を経て,明治36(1903)年に京都高等 工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)の図案科の教授として招かれた。その後,大正7(1918)年に,名古屋高等工業学校校長を任じられたが,すぐに大正9(1920)年に, 京都帝国大学工学部に建築学科が誕生し,その初代教授として再び京都に戻った。こうした教育機関での指導を続けながら,一方で,関西を中心に,きわめて多くの建築設 計をこなした。その数は,二百を超えるとも言われている。
 武田は,京都高等工芸学校に招かれる前にイギリスに留学している。ちょうどその当時のヨーロッパは,アーツ・アンド・クラフト運動,アール・ヌーボー,セセッショ ンなど近代主義の建築に向けた新しいデザイン潮流が次々と生まれた時である。一般的には,武田は,それらの新しいデザインを日本に積極的に紹介した建築家として知ら れている。
 確かに,彼の手がけた作品には,そうした新しいデザイン潮流を示す作品は多い。三条通りの1928ビル(旧毎日新聞社京都支局・昭和3年・京都市登録有形文化財)〔写真 4〕や京都大学の営繕課とともに設計した時計台・京都大学本部本館(大正14年)〔写真5〕などには,セセッションやアール・デコの息吹を伝えている。
 しかし,武田の建築家としての本質は,単なる紹介者では終わらなかったことだ。彼は,京都高等工芸学校では図案科の教授として,建築だけにとどまらない工芸全般の教 育・指導を行っていた。実際,京都の近代陶芸の世界などにも彼のデザインは大きな影響力を持っていた。さらには,橋梁のデザインから噴水,はてはロゴマークのようなも のまで,さまざまなものを武田はデザインした。彼は,生活に関わるあらゆるデザインに,近代へ向かう新しい潮流を吹き込み,より豊かな生活空間を作ることを目指してい たのだ。常識的な建築家の枠にとどまらない,いわば「生活デザイナー」であったわけだ。
 だからこそ,武田のデザインは,建築の洗練にこだわらない自由さがあった 。さまざまなデザインの要素が躊躇なく混在する。それは,悪く言えばデザインに一貫性がないということになるのだろうが,その親しみのある表情は,今でもわれわれを魅 了する。
 武田のデザインの混在は,「和」と「洋」の要素が主役となる場合が多い。彼にとって「和」はとりわけ価値のあるものだった。松室と同じように,武田にと っても古社寺の修理は重要な仕事であり続けた。その中で,彼は伝統的な日本建築の持つ魅力を発見する。初期のころの代表作と言える順正じゅんせい・清水店(旧松風嘉定しょうふうかてい邸洋館・大 正3年・国登録有形文化財)〔写真6〕は、その「和」が,西洋様式の装飾に重ねられた傑作である。
 生活デザイナーであった武田は,日本の住宅について,白い壁にス パニッシュ瓦で飾る,アメリカで流行していたスパニッシュの様式が適していることを主張した。弟子の東畑謙三とうはたけんぞうとともに設計した京都大学人文科学研究所附属漢字情報研究 センター(旧東方文化学院京都研究所・昭和5年・国登録有形文化財)〔写真7〕は,そのスパニッシュの集大成だが,藤井斉成会有鄰館(大正15年・京都市登録有形文化財) 〔写真8〕などは,そのスパニッシュの様式を基調としながら,中国風なども含め,やはりさまざまなデザインモチーフが加味されていて,武田らしい特徴の意匠となっている。
 こうした,デザイン要素の混在,とりわけそこに「和」の要素が目立つような武田の建築意匠の特徴は,いつしか京都の近代建築全体の特徴ともなっていく。昭和初期 に,京都市営繕課により,鉄筋コンクリート造に建て替えられた数多くの京都市立小学校の校舎には,他都市には見られない共通したデザインの特徴が見出せるが,それも明 らかに武田「趣味」とも言えるものであった。


3.藤井厚二ふじいこうじ
 さて,もう一人,京都を代表すると言ってよい建築家を挙げておこう。それは、武田五一が京都帝国大学に招いた建築家・藤井厚二(1888〜1938)である。藤井は住宅の設計に,全く新しいデザイン手法を見出した。
 藤井は,武田と同じ広島県福山市の出身で,東京帝国大学工科大学建築学科を卒業し竹中工務店に勤めていたが,武田に見出され京都帝国大学の助教授となる。その後,京都府大山崎町に土地を買い,そこに第一回から第五回までの実験住宅と称する自邸を次々と建てた。彼は,日本の気候風土の中で理想の住宅がどのようなものか,科学的に明らかにしようとし,『日本の住宅』(岩波書店・昭和3年)という著作も著している。その実験であったわけだ。
 しかし,今残された彼の作品には,その科学的な実験の成果ではなく,むしろデザインにおける試みにきわめて独創的なものを感じることができる。藤井は,和洋の生活様式の統合を目指しながらも,同時に日本の伝統的な住宅空間の構成を抽象的な存在として再解釈した。つまり、単純なヴォリュームの組み立てとして住宅を捉えたのである。それは,そのままモダニズム(近代主義)の空間概念に通じている。

聴竹居(昭和2年)〔写真9〕
そのために,今見ても,われわれは藤井の住宅作品に新鮮さを感じるのだ。
 現在,実験住宅は,聴竹居ちょうちくきょ(昭和2年)〔写真9〕と名づけられた第五回のものだけが残されている。この住宅は,今でも,建築の設計に関わる人々にとって,一度は見ておかなければならなない傑作として人気が高い。
 藤井は,この聴竹居の成果を持って,京都市内に数多くの住宅を設計し続けた。その集大成とも言える傑作として,京都御苑の西に建てられた中田邸(扇葉荘・昭和12年)があったが,残念ながら,この住宅は残されていない。しかし,汐見邸(昭和7年)など,聴竹居を髣髴ほうふつさせる藤井設計の住宅は,いまでもいくつか残されている。

 


おわりに

 このように,近代の京都は,建築家として独創的な仕事をした人物を排出してきた。よく考えると,彼らのその独創性とは,まさに京都が生み出したものとも言えそうだ。松室重光の多彩な様式の理解,武田五一の「和」へのこだわり,藤井の日本住宅への新しいまなざし,いずれも,京都という日本の長い歴史をそのまま堆積したような生活環境があったからこそ,発想されたものだと言えないだろうか。
 もちろん,近代建築は,基本的には西洋からやってきたものだ。しかし,それが日本に受容されるためには,さまざまな仕掛けが必要とされた。それをそれぞれの方法で提示したのが,ここで紹介した京都の建築家であったと思う。彼らの試みは,まさに京都発の提起として,じわじわと日本の近代建築に波及していった。
(京都工芸繊維大学教授)





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