財団設立40周年に寄せて(寄稿文)

川上 貢

京都大学名誉教授・当財団専門委員

財団法人京都市文化観光資源保護財団は昭和44年(1969)12月に設立されていて、今年は設立40周年を迎えるにあたり会報の記念号が編まれ、一文をもとめられた。

延暦13年(794)に建都されて1200年余の永い歴史をもつ京都には、数多くの歴史的文化遺産が残されている。この貴重な遺産を保護し後世に伝えていく重い課題に応える施策の一つとして本財団が設立された。ここに冠せられる文化観光資源とは古都京都が誇る歴史的文化遺産をいい、国内だけでなく世界の各国から京都を訪ねる多くの観光客が目指す観光対象であって、それらは高い経済的効果をもたらす貴重な存在である。

この文化観光資源は文化財として評価されている建築や絵画、彫刻、工芸の美術そして庭園をはじめとし芸能や祭礼の年中行事・民俗行事など多様、多彩な内容からなり永年の伝統と歴史のなかで育てられてきた。

本財団設立の目的はこれらの文化観光資源を保護し保存するための事業への助成、管理、そして調査ならびに保護思想の普及事業および募金活動の推進に努めることなどを主とするものである。

財団の組織の一つに文化財専門委員会があり、歴史、建築、美術、都市景観、防災の各分野別の専門委員によって構成されていて、これらの分野における保護事業の助成についての諮問に対して審議する。

筆者はこの専門委員会の委員の一人として建築関係の分野を担当している。

建築の場合、助成の申請があるのは社寺がほとんどであり、この40年のあいだに助成した数は極めて多い。社寺の境内には多くの建物が所在しており、本殿や本堂など主要な建物には付属屋、門、仕切りの築地塀、土塀などが所在している。これらは指定物件に近く所在していて共に機能を補うことで価値を高め、より良い景観を構成する効果を生んでいる。

例えば上賀茂神社の場合に本殿をはじめとし付属の廊や殿舎や摂社、末社など文化財に指定されているものは多い。しかし、本殿の左右と背面を囲む築地塀は指定の対象に入っていない。そのため本殿の修理とは切り離してそれらの修理については工事費は別途に計上され、所有者の自己負担を補うために、築地塀の屋根替え工事の助成を財団へ申請されている事例がみられる。このような未指定建物の維持管理と保存を支援するうえに財団の助成は大きな力になっている。

また、仁和寺では寛永18年(1641)に寺伽藍が再興されていて主要な金堂、五重塔、御影堂が旧法の国宝建造物に指定されていた。同じ時に造立された他の諸建物は指定からもれていた。それらのうち観音堂(写真1)が昭和45年に、中門が46年に、九所明神本殿および左右の脇殿が47年に継続して各屋根葺替修理工事が行なわれ財団が助成している。そして昭和48年にこれらは一括して国の重要文化財に指定されている。

ここにみる財団の助成による修理が3か年継続して行なわれたことによって未指定建物への関心が強まり、次なる保存措置への動きを加速したのかもしれない。

仁和寺観音堂
仁和寺観音堂(写真1) 東福寺常樂庵 東福寺常樂庵(写真2)

東山東福寺の場合、その伽藍の主要部の三門、禅堂、東司、鐘楼、浴室は早くに国の文化財に指定されていたが、開山堂等の常樂庵(写真2)は平成9年に国文化財に指定された。指定以前の昭和48年に開山堂の天井と二階伝衣閣の修理が行われていて、財団がその助成をしている。

仁和寺とは違ってここでは助成の時期から指定まで多くの時間が経過している。

禅寺の建物の様式を特徴づける禅宗様は和様、大仏様とならんで中世の建築を特色づけることで注目される。しかし、禅寺の建築の性格や機能に対する理解は十分ではなく、伽藍の構成や殿堂に対して塔頭の建物の文化財指定は比較的に近年のことである。

東福寺の竜吟庵方丈は塔頭遺構のうちでも南北朝末の最古のもので、重要文化財への指定は昭和28年であり、同38年に国宝に格上げされた。

山内でこの竜吟庵方丈につづく国指定は常樂庵でありこの間に45年も経過した。常樂庵は幕末に焼失したが間もなく再建された。近世でも幕末期の建物への偏見が解消されるようになり、焼失以前の当初の規模や形式をほぼ踏襲して再建されていて、開山尊師を祀る開山塔の古式を伝える貴重な遺構である。

このような事例からうかがえるように本財団の文化財遺産への長年にわたる支援と貢献は高く評価され、財団が今後なお大きく進展されることを望みたい。

冷泉 為人

財団法人冷泉家時雨亭文庫 理事長

文化財の継承保存には何時の時代にあたっても、種々様々な課題がある。たとえば、@自然に経年劣化が起こる。これは宿命。いくら鄭重に文化財の継承保存に努力したとしても経年による劣化は起る。避けることはできない。A火災、風水、地震などの自然災害による、損傷や消滅がある。さらにB権力者の闘争や、国家・民族間の戦争や暴動のよる文化財の略奪、消滅などの起ることがある。

また、時代が大きく変革することによって、文化財の継承保存も大きく左右されることになる。第二次世界大戦後の日本がそれ。戦後の日本は世相が大きく変革した。

何でも「民主的」に「組織的」に、といわれてきた。政治は多数決の民主主義、企業は集団主義の組織重視。研究や犯罪捜査にあっても組織的な科学主義、客観性が重視された。それにひきかえ個性や感性に頼ることは何か悪いことのようにいわれてきた。

さらに、近代工業社会は物財の多いことが幸福であると信じられた。社会全体の物財の量を増やすには規格大量生産が一番。官僚の定めた方針に従って、組織的な大企業や公的機関が規格大量生産に努力すればよい。そこには個性も創造性も要らない。かわりに勤勉と協調性と共通の知識や技能があれば十分である。この考えが世間一般に広がり、そのお陰で自動車や家電品などの規格大量生産型産業が大いに隆盛になった。今日ではそれらにさらに「効率性」が追求されている。

こうした現代社会では、文化財の継承保存には課題が山積しているといわざるを得ない。どうしても一般民衆や経済性を優先させることになり、文化財の継承保存は後回しの後回しになる。その必要な金額は微々たるものであるにもかかわらず。

戦後まもなくの、昭和24年1月26日、法隆寺が焼失。これを機に翌昭和25年に「文化財保護法」が制定され、1月26日を「文化財保護デー」とした。これは、「文化財を保存し、且つ、その活用を図り、もって国民の文化的向上に資するとともに、世界文化の進歩に貢献する」ものであるとする。誠に結構なことである。この文化財保護法に基づいて、今日の国宝、重要文化財が指定されることになっているのである。

現在、冷泉家時雨亭文庫は、国宝5件、重要文化財47件、点数にすると1000点をはるかに超える典籍・古文書類が国の文化財に指定されている。さらに住宅も重要文化財。これらの国の指定品の他、いわゆる未指定の文化財は2万点とも3万点ともいわれ、その全体像は把握しかねているのが現状である。

そもそも冷泉家時雨亭文庫は、先代冷泉家24代当主為任が住宅と冷泉家伝来の典籍類(歌書・歌論書)、さらに冷泉流歌道及び年中行事などの文化財を継承保存して社会に貢献する、とする趣旨でそれらを財団に移管したのである。それは昭和56年。これは先代の大英断であった。その結果、種々様々な修理修復が行われたのである。なかでも、念願であった冷泉家住宅平成大修理や、約60巻にも及ぶ大部な明月記の修復ができたのである。もちろん、前者の冷泉家住宅は重要文化財、後者の明月記は国宝に指定されている。

一方、末指定の文化財については、財団法人京都市文化観光資源保護財団の御支援、御協力をいただいて修理、修復を行ってきたものがある。

修復された「座敷前庭園」
常蔵 修復された「座敷前庭園」(写真上)と「常蔵」(写真下)

京都市文化観光資源保護財団は、京都市の出資金によって昭和44年12月1日に設立された。前述のとおり、文化財保護法、古都保存法および観光基本法などによる法的な措置が講ぜられる文化財の他、すなわち法的な措置が講ぜられない文化財、つまり未指定の文化財が京都市内に多数存在する。これらが京都を「日本人の心のふるさと」として、京都を訪れる人々の心をなぐさめている。それら文化財を京都府、京都市が昭和57年、同時に、文化財保護条例を制定し、文化財保護の諸策が講じられたのである。これが京都市文化観光資源保護財団の使命、仕事と聞く。

この保護財団の支援を得て冷泉家時雨亭文庫は、昭和59年から今日(平成21年)に至るまでの間に、随時、文化財の修理を行ってきている。それを列記すると次のとおり。「四曲一隻屏風花鳥図修理」「二曲一隻屏風林和靖・花鳥図修理」「六曲一双屏風紙本着色花鳥図修理」「六曲一双屏風金地山水小松図修理」「御新文庫移築修理工事・角蔵、常蔵修理工事」「座敷の庭整備工事」等。随時、多数の末指定文化財の修理、修復を行い、大いに活用させていただいている。感謝々々。

ただここに感謝するだけではなく、イギリス、アメリカ、フランスなどの諸外国のように、ナショナルトラストのような国民的文化支援活動として確固たる財団運営がなされていくことを祈念している。すなわち、日本人の心のふるさととしての京都の文化、文化財の継承保存に努力し、それらの保護と活用を目指し、豊かな文化的な創造に寄与されることに理解を示されると共に、財団に対して皆様方の御支援、御協力を切望するものである。

梶川 敏夫

京都市文化市民局文化芸術都市推進室 文化財保護課長

昭和44年(1969)12月1日に設立された(財)京都市文化観光資源保護財団(以下、「保護財団」という)は、今年12月に設立40周年という記念すべき節目の年を迎える。

保護財団の活動時期を同じくして、京都市の文化財保護行政に長年奉職してきた職員の一人として、深甚より御祝い申し上げたい。

保護財団の設置目的は「京都市内の文化財、伝統行事、芸能など後世に継承するにたる文化観光資源を、周辺環境を含めて保護し、その活用によって豊かな文化の創造に寄与する」と謳われている。

保護財団がこれまで40年間、その目的にそって運営されてこられたのは、事務局職員の皆さんの日々の努力はもちろんであるが、当財団の理事長で、近畿日本鉄道(株)の山口昌紀会長をはじめとする理事、評議員の方々、さらに様々な専門分野でご指導を頂いた多くの学識経験者、そして公開事業等にご協力頂いた社寺ほか文化財所有者など、本当に多くの関係者の方々の支えがあてのことと、まずは感謝申し上げたい。

そして、何よりもこの長い間、保護財団の維持活動を可能にしたのは、この目的の趣旨に賛同し、貴重な浄財をご寄付頂いた京都市民をはじめとする、全国の多くの篤志者や企業から賜った寄付金があってのことであり、それらを京都市文化観光資源保護基金として運用し、そこから生まれる利子(果実)を文化財保護事業等に充当されてきたからにほかならない。

祇園祭
祇園祭山鉾巡行

しかし、低金利時代を迎え、さらにサポートすべき地方自治体も財政難に喘いでいる厳しい状況のもと、保護財団は京都を代表する四大行事(葵祭・祇園祭・時代祭・京都五山送り火行事)ほか無形文化財へ執行助成や、未指定文化財への修理補助、文化観光資源保護思想の普及啓発など、行政の手が届かない分野へも幅広く保護の手を差し伸べておられ、特に京都市で観光客の集客が最も期待される四大行事では、その執行に大変重要な役割を果たされている。

このように、伝統行事を含む社寺所有の美術工芸品などの未指定文化財や歴史的建造物などの多くが、保護財団の補助や助成で修理・維持・継承されてきており、それが京都の持つブランドを高め、観光資源となっていることはいうまでもない。

そのほか、会報やカレンダーの発行、伝統行事功労者表彰、文化観光資源保護協力者感謝状の贈呈、関係団体への催し物への後援、インターネットによる情報発信などのほか、市内に点在する京都市管理史跡や天然記念物の深泥ケ池などの維持管理業務も担当して頂き、少ないスタッフの皆さんの汗と努力により、京都市の文化財保護の一翼を担って頂いているのである。

蛇塚古墳 蛇塚古墳

耳塚 耳塚

この保護財団がフィールドとする京都市内には、平安京遷都以来、千年以上に亘って培われた様々な有形・無形の文化遺産が点在し、蓄積されている。その数は、国指定有形文化財である国宝の19.4%、重要文化財の14.5%が存在し、さらに有形・無形の民俗文化財や史跡・名勝・天然記念物・埋蔵文化財のほか、未指定の文化財も多数存在し、その数は他都市の追随を許さないのは衆目の認めるところである。1994年には、世界遺産「古都京都の文化財」として17箇所の社寺城が登録され、そのうち京都市内には14件が存在し、さらに2009年9月30日には、アラブ首長国連邦のアブダビで開催されたユネスコの第4回政府間委員会において「京都祇園祭の山鉾行事」が「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に記載され、ユネスコ無形文化遺産に登録されることになった。

これら京都市内に残されてきた数多くの貴重な有形・無形の文化財を保存しつつ、修理・維持・管理し、継承するため、保護財団はこれまで助成や補助のほか様々な事業を展開して大きな実績を残されてきた。そして多くの社寺や文化財所有者、保存団体などから大変感謝されており、その役割は今後とも益々大きくなることが予想される。

そのためには、幅広く個人や企業からのご寄付をお願いし、基金の充実を図ることが不可欠であり、今後とも多くの皆さんのご理解とご支援をお願いしたい次第である。

保護財団の役割は、京都の持つブランドを根底から支える地味な仕事であるが、職員の皆さんのご健勝を祈りつつ、これから50周年、100周年を目指して、益々のご活躍とご発展を期待している。

武田 恒夫

大阪大学名誉教授・当財団文化財専門委員

文化観光資源保護財団が設立されて、40周年を迎えた。当初以来、私の場合は、文化財専門委員の一員として、部門でいえば美術工芸での絵画関係を担当してきた。その間、助成選考のために申請を受けた文化財の所在場所や修復中の工房へ、その都度実地調査に出向いたことを思い起す。

知られた文化財については、いうまでもないが、未指定のかたちで潜在する佳品の多いことに驚かされる。やはり京都という歴史的な環境での蓄積によるものであろう。

財団の名称に公開を想定して「観光資源」という名目が謳われているが、選考に当てては、むしろ観光的価値よりも文化財としての価値に主眼が向けられた。

悲田院 襖絵「松に群猿図」(2006年修復)

修理前 修理後

保存修理の観点が助成を希望されてきた所持者については、個人からのケースにくらべて、公開の場をもつ社寺関係の多いことが分かる。とりわけ諸宗派の寺院が筆頭に挙げられ、礼拝関係の絵図や祖師図もふくまれるが、やはり本堂や客殿、書院などにおける襖絵が圧倒的多数をしめている。屏風絵も少なくない。濃彩画があれば水墨画もあり、画題も多様である。

京都という土地柄は、湿気の多いところで知られているが、実は襖絵の保存にとって、むしろ湿度は、カビやシミ、虫喰いへの心配はあるものの、最悪の状況として、逆に乾燥の方が懸念される。年によって、異常気象による乾燥に見舞われることが起こる。張りつめた大画面に縦や横、斜めに亀裂を招いてしまう。公開の場でだけに、なおさら始末が悪く、放置するわけにもいかない。

数量のかさむ大画面だけに、所有者にとっては多くの負担がかかる。保存という課題はいっそう重くならざるをえない。このような次第で、襖絵関係の修復にとって、保護財団による助成がお役に立つことになる。

保存修理の工程は、付着した埃の処理に始まり、剥落止めの後、解体にすすむのであるが、以下、さまざまな工程を経て再生にいたる。作業に当って、その間の段取りや仕様、修復を担当した工房については、伝統的な技術の継承や向上といった問題に対しても、財団の関心は高い。

ごく最近の一例であるが、三ヶ年にわたる助成の対象となり、新装成った襖絵群の場合を紹介したい。

泉涌寺山内の悲田院では、昨年の秋に本堂の3室にわたる襖絵34面の公開を行なった。平成18年度から3年計画で保護財団の支援もあって面目を一新させた。これらの諸画面は、以前のことながら、本堂の天井裏から破損や欠損著しく捲りのままで見出されたものであった。修理をすすめるうちに、雑多にみえた諸画面が人物・花鳥・走獣といった図様に大別され、さらにその線でほぼ4面単位でいくつかの画題に分類されることが分った。


悲田院 本堂 襖絵

本堂は、東・中・西の3室からなり、襖絵はそれぞれに適宜配分できることも分った。東の間に四愛図3件と唐の詩人図2件、中の間には「竹鶴図」と「紅葉に芦雁図」、西の間は「松に群猿図」といった配置をみることになった。現存する限られた画面を以て3室に配分したが、本来はさらに規模の大きな殿中に展開した襖絵の一部であったという公算は大きい。ことに東の間では、四愛図のうち「周茂叔愛蓮図」「林和靖愛梅図」「陶淵明愛菊図」はあるものの「黄石谷愛蘭図」が欠落している。詩人作詩図として「李白観瀑図」「杜甫観郭公図」がおさまった。中の間や西の間の襖絵も完結した本来のかたちではない。

しかし、重要なことは、「愛菊図」の一隅に土佐光起(1617-91)の落款、中の間と西の間の一隅にそれぞれ実子の光成(1646-1710)による落款が認められ、父子の共作となる。光起の署名に「行年七十二」とあることから、彼の最晩年にあたる元禄元年(1688)の制作であることも明かとなった。さらに、光起による唐人物が水墨による漢画であることも興味を深めた。当時、漢画系の狩野派がやまと絵も兼ねて宮廷の御用を果たしたのに対して、やまと絵画系の土佐派中興の祖といわれる光起が、漢画や中国画への関心を高めて対応したことをうかがわせる資料ともなる。これに対して光成の絵の方は多分に和様の趣をともなうものであった。

このようなケースなどは、当財団の助成が有効に発揮された一例と見ることができるだろう。かつて天井裏に人目にふれぬ状況に置かれていた諸画面が、装いも新たに仕立て直されたばかりでなく、画題別に図様講成をととのえて、市民の鑑賞にも供されることになった。

昨今のきびしいご時世であるだけに、財団への期待もいっそう高まることになろう。文化遺産の保存や活用という財団の主旨を理解し、その維持運営に対し支援を賜った篤志家並びに企業各位に対し、改めて謝意を表する次第である。

小椋 純一

京都精華大学教授・当財団史跡管理専門委員

平安遷都から1200年を超える長い歴史をもつ京都には、伝統行事・芸能や史跡など多くの文化財がある。それらは古都の重要な観光資源でもあり、それらの保護や伝承などを目的として設立された京都市文化観光資源保護財団の果たすべき役割は、たいへん大きい。その財団創設から、昨年12月で40年となったが、時代が大きく変化する中、その存在意義は今後いっそう大きくなってゆくであろう。


写真1 名勝「雙ケ岡」

筆者は、その財団の史跡管理専門委員となって十数年になるが、その間にも、当財団が管理する史跡の数は徐々に増えてきている。一方で、管理予算はそれに比例して増えてはいないので、その予算不足が気になるところである。史跡関係の管理費としては、年々成長、あるいは枯死する樹木の管理に多くの費用がかかるが、当財団が管理する史跡には雙ケ岡(写真1)のように、相当広い面積の森林があるところもあり、その管理費は毎年かなりの額となっている。

かつては、樹木は木材や燃料としての価値が高く、木を伐ればお金にもなったが、今ではその価値が下がり、史跡などの木を伐れば多くのお金がかかるというのが現実である。そうした変化は、とくに高度経済成長期以降顕著であるが、当財団の設立が、ちょうどその大きな変化のあった時期にあたるのは、決して偶然ではないであろう。

ところで、人と森林などの植生とのかかわり方は、高度経済成長期よりも前から、時代によって異なり、そうした人と植生との関わりの中から、それぞれの時代の自然景観がつくられ、またその時代の文化が育まれてきたと考えられる。たとえば、昭和前期の頃など、かつての京都周辺の山にはアカマツが多く見られたが、アカマツは地肌が見えるようなところが発生、生育の適地である。かつてアカマツが多かった背景には、地表の落葉までも燃料に利用されるなど、さかんに里山が利用され、地肌が見えるような山が多かったことがあると思われる。


図1 歴博甲本洛中洛外図 大文字山付近
(写真提供:国立歴史民俗博物館)

また、さらに時代を溯れば、草木がほとんどない山が目立つ時代もあった。現存する初期の洛中洛外図や江戸初期に洛外を詳しく描いた絵図の描写の検討から、少なくともそれらの絵図が描かれた室町時代後期から江戸初期の頃は、草木のほとんどないような山なみが、京都周辺にはしばしば見られたと考えられる(図1)。おそらく、その背景には、草木の根まで利用するような過酷な植物利用があったものと思われる。

そのような植生の乏しい山は、洪水や土砂の流出などの問題も生んだが、一方で、今日では見られない特別な景観をつくったりもした。たとえば、大文字山の少し南側の山の中腹には、かつて駒が滝などと呼ばれていた有名な滝があった。その滝について『洛陽名所集』(明暦4年〈1658〉)には、「・・・雨の後にはかならず流れをまし、ちかづきがたしとなむ。遠所よりは山半分にも見え侍りぬ。」と記されている。同時代の書物には、同様なことが書かれているものがいくつもある。

今もあるその滝は、ふだんは水量も少ないが、かつては大雨が降れば背後のハゲ山から一気に水が集まり、それが流れ落ちる様子が遠方から山半分の大滝として見えていたものと思われる。『東北歴覧之記』(延宝9年〈1681〉)などには、その滝は「洛東の奇観」と表現されている。

なお、その滝は18世紀に入ると文献や絵図にあまり現れなくなる。それは、その時代の史料から、幕府の達しにより、その付近の山に木が植えられて山が森林化したことが原因と考えられる。そうした幕府の対応は、江戸初期の山の荒廃に対して発布された「山川の掟」(寛永6年〈1666〉)などによるものであろう。

一方、その滝の北側に今も残る大文字の送り火は、起源が室町時代に溯るとされるが、それが始まるようになったのも、やはり山に草木が乏しかったからではないかと思われる。うっそうと茂る山の木々を広く伐採し、送り火をするのはたいへんな作業であるが、ハゲ山のような草木の乏しいところで送り火をするのは容易であり、またそうしたことをしようという発想も浮かびやすいのではないだろうか。

このように、当財団がその伝承を支援している京都五山の送り火も、おそらく植生も含めた時代の産物として生まれたものであろう。時代が大きく変化し、植生も大きく変化してきている中、送り火の場所だけは、定期的な刈り取りにより、なんとか低い植生が維持されているが、すぐ周辺の森は、うっそうとした高木の森林となってきている。また、その森林の樹種も、かつて多かったアカマツは激減し、代わってシイなどの常緑広葉樹が目立つようになってきている。

時代の変化により、昔と同じようにできないことがあるのは仕方のないことではあるが、今や送り火の薪として欠かせないアカマツさえも地元で確保することが容易ではなくなってきている。そのようなこともあり、送り火の形だけではなく、その背景にあった植生までも復元、保護してゆくようなことが、なんとか衆知を集めてできないものかと思う。もちろん、そうした植生の復元や保護を考えるのが望ましいのは、送り火に限ったことではない。